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下重暁子さんもWGIPの犠牲者かも?

2018-09-02 00:36:20 | 忘れられた歴史

「家族という病1・2」や「極上の孤独」・「夫婦という他人」という本をお書きになられている下重暁子さん。

いったい家族の何がダメだったのでしょうか?普段、大勢の人とかかわりがあって生活していても、人間、たまには自分の時間もほしいと思うことは誰でもあります。世間で話題になった「家族という病」とは下重さんにとって何だったのでしょうか?なぜそういうことになったのでしょうか?でも人の家のことにあまり突っ込むのは、いいことではないのでさらりと流す程度にしておきます。

 

 

生い立ちと父の職業

下重暁子さんは、1936年栃木県に生まれ。早稲田大学を卒業後NHKに入社。女性トップアナウンサーとして活躍し、その後民放放送局キャスターを経て文筆活動をはじめ、エッセイやノンフィクションなどを手掛ける。

父親は陸軍のお偉いさんで、当時、大阪の八尾市に陸軍の大正飛行場(現在の八尾空港)がありました。お父さんは終戦の少し前まで、飛行場の責任者だったので家族で将校官舎で暮らしていたそうです。

 

 

 

敗戦がまじかにせまって

大阪でもアメリカ軍の空襲が激しくなり、母と兄と下重さんら3人は、奈良県の信貴山の頂上にある旅館に縁故疎開し、そこで敗戦を迎えました。下重さんがちょうど小学校3年生の時でした。

 

 ←当時の陸軍管轄の大正飛行場(現在の大阪府八尾市)

 

現在、大阪府内で唯一残る大正飛行場の掩体壕。

以前は3つほどあったらしいのですが、開発や劣化によりこれが最後の一つになりました。(現在、周りは畑になっていて、掩体壕のなかには農機具などが置かれていました)

*八尾市垣内4丁目53番付近(人の所有地なので周りからの撮影の方がいいかもしれません。)

 

 現在の八尾空港

同じ敷地内に自衛隊の中部方面航空隊等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地があります。 駐屯地司令は、中部方面航空隊長が兼務しています。

 

 

 

 

 

以下は過去の番組取材での下重さんの当時のコメントです。↓

 

ーーお父さんは軍人だったのですか?

 「父は士官学校を出たエリートの職業軍人でした。幼い頃、私が覚えている父の姿は、毎朝、厩務員が引いてきた馬に乗って出かけるところです。膝まである長靴を履き、マントを翻す様子はほれぼれする格好良さでした」←当時としては裕福な家庭だったのかもしれません。

 「父は絵描き志望でした。軍人の家に生まれて仕方なく絵の道を諦めたのです。書斎には描きかけの油絵やたくさんの画集がありました。ルノワールの模写なんて本当に上手で、才能はあったと思います。なぜ絵描きにならなかったのかとはがゆく思います」

 ――戦時中から戦後の移り変わりで、お父さんへの気持ちも変化した?

 「戦時中、父は軍の指導部にいました。1945年の敗戦時、私は小学校3年生。毎日、疎開先の芝生で軍の機密書類を焼いていた父の後ろ姿が目に焼き付いています。声を掛けようにも掛けられませんでした。戦後、公職追放になった父は慣れない事業に手を出しては失敗しました。この頃から酒に手を出し母親に手をあげるようになりました。憧れの対象だったのに、すっかり情けなくなり、そんな父が許せなかった。話すとケンカになるし、ご飯も一緒に食べませんでした。絵描きになるという夢を貫かなかったことと、戦後の変化は許せません」

 ――お母さんとの仲は。

 「母は度胸がよく、判断力も優れていました。母には2人の兄弟がいて、それぞれ学者と医者になっていますが、母のことを『一番頭が良かった』と言ったほどです。なのに『暁子命』で、自分のために生きようとしなかった。中学時代にはそのことで説教したこともあります。悲しそうな顔をしてましたけど」

 ――お母さんの期待が重荷だったのですね。

 「私が就職した後、仕事の人がうちに来ると、夕食まで出すのです。『暁子のため』と。それが嫌で嫌で。愛情の押しつけがしんどかった。父が亡くなった後、母を一人にするのは忍びなかったですが、距離が必要だと別々に暮らすようになりました」

 ――親子関係に悩む人は今も多いです。

 「親というのは目の上のタンコブで、ぶつかって当然なのです。親子の葛藤がないなんてありえません。私にとって両親は反面教師でした。精神的にも経済的にも自立し、自由に生きるという決意ができたのは両親のおかげです。乗り越えるべき親がいたという点では、とても理想的な家庭でした」

ここまでが、下重さんのコメントです。

 

 

 

「wGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)と公職追放」

大変な時代に生まれ本当に気の毒と思うのですが、まず父親に対してのこころの移り変わりですが、当時の日本は戦って負けたのですから、当然、負け戦で敵国に見られたくない書類などあったと思います。軍のマニュアルでも機密書類は敵国が来る前に完全に消去しろと教えられたに違いありません。敗戦したことを残念に思いながら機密書類を燃やしていた父のうしろ姿を見ていてもおかしくありません。小学校3年生の女の子にしてみれば父のそういう姿は寂しく見えたのかもしれませんね。そして父の公職追放です!

終戦後、GHQの占領政策の一つで、公職追放というのがありました。これは連合軍が戦って、日本軍の余りの強さに驚いて、日本の教育というか武士道精神とでもいうのか、そんな日本の心構えを教える学校や先生や政治家・軍人などを排除し、今後、二度と日本がアメリカに対して、はむかわないようにするのにはどうしたらいいか考えていました。

そして行われたのがウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(英語:War Guilt Information Program、 略称:WGIP)です。→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0

産経新聞記事→https://www.sankei.com/life/news/150408/lif1504080003-n1.html

 

 

GHQは占領政策として、戦争をはじめた政治家や軍人や先生などを排除するために公職追放というやり方で大勢の人をその場から追放させました。お父さんもこれらの犠牲者です。逆に戦前に行き過ぎた共産主義の思想で刑務所に掘りこまれていた囚人たちを民主主義といううわべだけの理由で釈放され全国に拡散されていきました。それらの人が、今現在も大学やマスコミ・法曹界に君臨し続けているみたいです。これらのことはGHQ自身が直接せず、指示だけして、すべて日本人にやらせていたので国民にはGHQがしているとはわかりませんでした。その他にも、国民に日本の諸悪説を植え付けたり戦勝国の悪口を言ったりテレビ・ラジオ・新聞でプレスコードと言って、言ってはいけないキーワードを日本に押し付けました。日本の外側でも、アメリカは中国共産党に肩入れし、ソビエトなんかが戦勝国側で勝利したために、共産主義国が北朝鮮を含めて蔓延し、長く冷戦の脅威が続き、中国共産党が現在に至っては、国際的ルールを無視して、領土・海洋・資源・宇宙に至るまで進出し、他民族を排除し、戦争当時、助けてくれたアメリカと覇権争いをするなどやりたい放題です!

 

以下が実際に、プレスコードとして日本の報道機関に対して禁止されたリストです。

  1. SCAP(連合国最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
  2. 極東国際軍事裁判批判(東京裁判批判)
  3. GHQが日本憲法を起草したことに対する批判
  4. 検閲制度への言及
  5. アメリカ合衆国への批判
  6. ロシア(ソ連)への批判
  7. イギリスへの批判
  8. 朝鮮人への批判
  9. 中国への批判
  10. その他連合国への批判
  11. 連合国一般への批判(国を特定しなくても)
  12. 満州における日本人の取り扱いについての批判
  13. 連合国の戦前の政策に対する批判
  14. 第三次世界大戦への言及
  15. 冷戦に関する言及
  16. 戦争擁護の宣伝
  17. 神国日本の宣伝
  18. 軍国主義の宣伝
  19. ナショナリズムの宣伝
  20. 大東亜共栄圏の宣伝
  21. その他の宣伝
  22. 戦争犯罪人の正当化および擁護
  23. 占領軍兵士と日本女性との交渉
  24. 闇市の状況
  25. 占領軍軍隊に対する批判
  26. 飢餓の誇張
  27. 暴力と不穏の行動の扇動
  28. 虚偽の報道
  29. GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
  30. 解禁されていない報道の公表

 

これらは嘘のような本当の話です。これらのことは現在も続いているかもしれませんね。このことをわかりやすく書いている著書がTV等で活躍しているアメリカ人のケント・ギルバート著の「まだGHQの洗脳に騙されている日本人:ケント・ギルバート」なんかが有名です。

 

 

 

話はそれましたが、軍人だった父親が敗戦後、GHQの占領政策のWGIPの一つ公職追放によって、今までやっていた職を奪われ、やったこともない商売に手を出してが失敗し、無職な状態が続いて憂さ晴らしで酒を飲んで嫁にあたって子供の前で大ゲンカみたいな状態だったのでは無いでしょうか・・・?って思います。公職追放で職を奪われたのだけが原因では無いとは思いますが、最初のきっかけはGHQによる占領政策が行われたからかもしれません。

 

 

「元軍人で、終戦後に商売をし苦労した話は数多くあります。」

そのような話が書かれていた本の一つが「アメリカ本土を爆撃した男」の主人公の藤田中尉さんのエピソード。

 

*小説の中の一部分を抜粋します。

ストーリーは:アメリカ本土を爆撃した唯一の日本人パイロット藤田中尉さんが、敗戦後、軍隊が解体されたので、職を探し部下の実家がやっている金物店を手伝った時の話です。藤田さんが品物を売りに行っても全然売れません。一週間がたっても全然売れないので預かった品物を返してやめると元部下と話していた時に、その話を聞いていた元部下の母が奥から出てきました。

「藤田さん、どこに売りに行かれましたか?」

「海軍時代の同僚や部下に頼んだのだが全然売れませんでした」

「藤田さん!」彼女が彼をにらむように言った。「そんなことではだめですよ。申し上げますけど、戦争で負けて軍隊は無くなったのですよ!軍隊時代、あなたは海軍の中尉さん、うちの息子はただの兵隊であなたの部下だったかもしれませんが、軍隊が無くなった今では上官でも部下でもありませんね、そうでしょう」

「その通りです」

「あなたはまだ海軍軍人だという気持ちが有るから同僚や部下の所に品物を売るのをいらいしたんでしょう」

「そうですが・・・」

「誰が今更、みんなが苦しいこの世で、あなたの為に懸命に販売などしてくれますか。みんな自分のことで精いっぱいなんですよ。あなた自身が他人様に頭を下げ、行商や卸売りに行くんです。それが商売というものです。 海軍士官とか中尉とか忘れて、家族を養うために死に物狂いでやらなければ・・・・・」以下省略・・・

 

藤田さんの様に周りに注意してくれる人がいれば良かったのですが、なかなかそうはいきません!商売は素人には難しいものです。とくに立場が上だった人が頭を下げて商売し、戦後の大変な時期に成功するのは至難の業だったに違いありません。選んだ職種によっても違ったでしょう。でも、そういう時代を苦労しながら生き抜いて、今の日本の為に頑張ってくれた先輩方には感謝です。そう私のおじいちゃん達の時代ですね!本当に有難うございました。

 

 

そんな先輩方が残してくれた日本を私たちは大事にしなければなりませんね!

経済や技術ははそこそこ頑張っているのに、諸外国に理不尽なことをされたり言われても、ハッキリと言い返せない日本。やっぱり現在でもGHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)が効いてのでしょうか?

 

 

 

先々月、八尾空港に行った時に撮った画像です。

 

 

自衛隊基地のヘリ

 

 



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