神奈川県川崎市のセレクトショップAmie(エイミー)の代表が綴る徒然日記です。

Amieの仕事のことや趣味、綿の栽培日記など多岐にわたり投稿しております。Instagram→amie_inc.2016

祖母の弟が他界したことを認知症の祖母にも伝えました。

2024-12-03 17:24:00 | 日記
こんにちは。一日一日を大切にしながらも祖母も母も私も必死に生きています。自分で「必死」と書くのもどうなのかと思いながらも、命と向き合って、気の抜けない緊張感がある毎日なので、この言葉も妥当かなと思って選びました。


在宅介護を始めて一年になりました。ここまで本当に色々とありました。酸素吸入が在宅でも始まったり、オムツ交換や清拭など清潔に保つためのスキルを身につけてきたり、祖母の怒りや悲しみに寄り添いつつも、「脚を返せーーー」と激しい罵りに心折れそうになったり。

さらに、時に各セクションと折り合いをつけたり、グッとこらえたり、話し合ったり。夏のある日、ひどいめまいがして医師に伝えたら「慢性疲労と睡眠不足ですね」と言われて、「あー。慢性疲労っていう言葉があったな。」と身に染みて感じた日もあれば、頻繁に起こる腹痛に我慢ならず、予約をとって消化器内科に駆け込んだ日もありました。30代でも体のあちこちに異変が生じることがあり、肉体的にも精神的にも介護する側の大変さを身をもって知りました。


ところで、祖母は今月91歳になります。その誕生日を迎えられる可能性が高くなってきました。奇跡としか言いようがない生命力です。先日の血液検査の結果を見ると、間質性肺炎をみるKL-6は正常範囲内ではないものの、前回よりは良くなっていました。NT-proBNPという心不全の値は、変わらずとても悪かったです。


一方で、今月はすでに悲しいお別れがありました。祖母がかわいがっていた弟が12月に入って亡くなりました。母の従兄弟から私の携帯に着信履歴があったときに嫌な予感がしましたが、残念ながらその予感はあたっていました。


幼かったころ、私と妹が香川県の祖父と祖母の家で過ごすことがよくありました。私は「◯◯おっちゃん」と呼んでいて、色々とよくしてもらっていました。最後に会ったのは祖父の四十九日に行ったときなので、もう6年も前になります。その頃は、おっちゃんも祖母も元気で、たくさんおしゃべりしていました。


祖母は四人きょうだいで、兄、祖母、弟、妹です。兄と妹はだいぶ前に亡くなっており、この度、弟も他界したので、きょうだいで生きているのは祖母ひとりだけになってしまいました。祖母がとてもかわいがっていた弟だということを母も私もよく知っていたので、伝えるか否かを考えたうえで、祖母に筆談で伝えました。認知症の祖母にもきちんと伝わり、理解し、涙していました。


でも、伝えたあと数分後には忘れてしまったと思います。これは仕方のないことです。本当は、母も私も香川県に行って通夜と葬式に参列したいところですが、仕事と在宅介護(現在、デイサービス利用は諸事情があり、週一回程度に絞っている)があるので、日を改めてお墓と仏壇に手を合わせに行くことにしました。


それがいつになるか、今はまだ決められません。でも、必ずおっちゃんに感謝を伝えに行こうと思います。そして、その時に祖父のお墓にも手を合わせに行こうと思っています。


香川県。羽田から高松までは1時間と少しの空の旅です。車や新幹線でも行ったことがありますが、時間がかかるので、いつも飛行機を選んでいます。通常の生活なら、日帰りでも飛行機で往復できます。しかし、介護がある今の私にはすぐに行動に移せる場所ではなく、香川県が遠くに感じます。


祖母の容体が日々変わるので、先を読むことができません。そのようななかで、羽田までの道のり、高松空港でレンタカーを借りる時間、そこから西に向かう道中。そして、帰り。先日、羽田から伊丹まで飛び、日帰りで神戸に行きましたが、ずっと祖母のことが気にかかり、それだけで疲れてしまいました。スイッチを切り替えることが難しいことを痛感しました。


心を落ち着けて行きたいので、いつの日にか香川県を訪ねたいと思います。



追記
祖母の場合、在宅介護を行ううえでも「特別、大変かもしれない」と言われています。

これまでも書いてきたとおり、

1.施設を姥捨山と思い込んでおり、施設で大きな声を上げたり、手が出たりすることが多いようで、施設の利用を極力少なくしています。

2.中途失聴で耳が聞こえなくなったから、人の様子を細かく見るようになりました。そのため、被害妄想に陥っているときもあります。

3.急性下肢動脈閉塞症により、右脚の太ももから切断手術を受けました。そのため、寝たきりの生活で、認知症を発症しました。また、ベッドから車椅子、車椅子からベッドへの移動には必ず移乗が必須なので、介護する側の人間が最低2人は必要です。

4.下肢切断によりPTSDも発症したことや認知症で自分の感情をうまく言語化できないことから、大きな声で叫んだり、罵ったりするようです。感情のコントロールが難しく、よく泣き、よく怒ります。特に「脚を返せ」「誰が切ったんや」「切るときは本人に確認をとるべき」と言います。
*当時、祖母は血栓が詰まった痛みや入院生活のなかで認知症が入ってきていたのか、意思疎通がはかれる状態ではありませんでした。病院でもあまりの痛みでモルヒネもフラッシュするほどでした。

5.私の個人的なことですが、いつも祖母は母ではなく、まず「あみちゃーーーん」と呼びます。そしてヒートアップすると、「あみーーー💢」となります。そのため、深夜でも早朝でも私を呼ぶ声がするので、私は必ず目が覚めてしまいます。施設でも私の名前を呼んでいるそうで、施設のスタッフも皆さん「あみちゃーーーん」はよく聞くとおっしゃっています。


など。祖母が施設でも静かにおとなしくしてくれていれば、ここまで大変ではなかったと思います。なので、祖母の在宅介護の大変さは、ほんの一例で、個人差がものすごくあると思います。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正解は何?正しい答えは?

2024-11-12 20:12:00 | 日記
こんばんは。ブログを書く気力がないまま、時が過ぎ、11月も12日になっていました。相変わらず、要介護5の祖母の在宅介護とデイサービス利用をつづけています。祖母の肺や心臓は小康状態なのか、血中酸素飽和度やバイタルは安定しています。そこで昨日は、2ヶ月半ぶりに泊まり1泊をお願いして、母と私の休息に充てました。


祖母には、認知症、せん妄、PTSDがあり、暴れて手をつけられない時間が非常に増えました。それでも、母や私には叩く力もある程度セーブしている気がします。でも、毎日、祖母と生活するなかで、もう何が何だかわからなくなってきました。


何が正解なの?
それは不正解?
何が正しいの?
これまでの選択は合っていたよね?
間違えた?  
どうしたらいいの?


明確なことは、母も私も極度に疲れていることです。今日は、施設からの連絡帳にも胸が痛む言葉が並んでいました。気疲れが一番かもしれません。


看取る覚悟を決めて在宅介護をつづけてきました。祖母が今、生きているのは病状からして奇跡のようなことだそうで、複数人の医師から言われていた想定よりは長く介護していることになります。それに伴い、このまま在宅介護をつづけるか。正確には、つづけられるのか。見極める時期が来ているのかもしれません。


私は祖母の状態で療養型病院には抵抗があります。理由は、祖母が自宅にいることを願っていること、病院では身体の拘束や抑制をかける薬を使う可能性が非常に高いこと、中途失聴の祖母にどこまで筆談してくれるかわからないこと、私たちの目の届かないところでどのようにされるかわからない不安などです。しかし、母は近頃、よく「もう療養型病院にお願いしようよ」と口にします。他にも私が聞きたくない言葉も言うので、そのあたりはシビアな関係性になることがあります。


65歳を高齢者とするならば、母が祖母を介護することは老老介護ということになります。元々力持ちだった母の力は、明らかに弱くなりました。足も踏ん張りが効かなくなっているようです。私は、その点はまだ大丈夫なのでカバーしています。元々力はある方なので、祖母を乗せた車椅子と酸素ボンベ(80kgくらい?)を20cmほどの段差があっても、上げ下げできます。バスタオルを使っての移乗は、もはや得意です。福祉車両の扱いも覚えました。


何より祖母が自宅でも施設でも「あみちゃーーーん」とよく呼びます。施設のスタッフも毎回聞いているそうで、それが私の情に訴えかけてきて、療養型への話に首を縦に振ることができません。このような状況で、色々なことが頭に浮かび、私の頭の中はいつも曇っています。

「ここまでみてきたから、最期まで。」

「病院に行ってもらうならば、最初から転院という形で行ってもらっていた方が情にほだされることなく、気持ちが楽だったかも。」

「でも、体のあちこちが悲鳴をあげているし、心にゆとりも余裕もない。いつも気忙しくて急いでいる。」

「どうしたらいいの?わからない。助けて。」


など。母と私の二人しか自宅で介護をできる人がいないのも痛いところです。


それから、祖母は頻繁に「脚を返せ」と大声で叫ぴます。これも聞いていると、辛い言葉です。

あの日、それは血栓が詰まっていると医師から言われたとき。壊死を待つか、右脚切断の二択しか選択肢がありませんでした。他に治療法はないのかと母と私はいくつかの病院に問い合わせました。しかし、無念にも選択肢は広がりませんでした。


祖母本人は詰まった血栓の痛みで喘ぎ、モルヒネを投与され、判断できる状態ではありませんでした。そのため、父、母、私の3人で後者を選びました。その時、その時で最善を選んできたつもりではいますが、祖母が大きな声で「脚を返せーーー。」と叫び、嘆き、泣く姿をほぼ毎日見聞きしていると、「これでよかったのか」、わからなくなります。


そして、脚を失ったことが祖母の相当のストレスになり、その表現をうまくできず、乱暴的になっている節も確実にあります。


「祖母は今、生き地獄なのだろうか。」
「でも、100歳まで生きるで。」
と言っているし・・・。

考えても答えはわかりません。間質性肺炎に侵された肺で酸素吸入(濃縮するオキシマイザー)をしながら祖母は、その日その日を精一杯生きているんだと私は思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

認知症の介護による疲れ。

2024-10-24 15:21:00 | 日記
こんにちは。秋にもかかわらず湿度を感じて、介護も大変です。この1ヶ月で祖母の認知症が急速に悪化し、介護が一段と過酷になっています。毎日、起きても寝てもぐったりしていて疲れが抜けません。体が鉛のよう。爽やかな朝を感じるゆとりもありません。さすがに私も疲れてきました。





介護ブログは私の心の叫びを淡々と記しました。弱音です。
心の叫び。 - 要介護5の祖母の在宅介護記録。

心の叫び。 - 要介護5の祖母の在宅介護記録。

この1ヶ月で祖母の認知症が加速して悪化している。毎日大きな声で怒鳴られ、ひねられ、訳がわからない毎日。オムツを替えていても手(つねる、たたく、爪を立てる)は止まら...

goo blog

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【祖母の現状】滲出液と腹痛および認知症の進行。

2024-10-12 15:30:00 | 日記
こんにちは。介護ブログと同じ内容を投稿します。



何から書いたらいいか、わからないほどの状況になっています。祖母の切断した右脚およびオムツで巻いている左脚の写真も載せるので、このブログをお読みになるかどうかはご自身でご判断ください。



まず、今週から祖母の左脚から滲出液(しんしゅつえき)が大量に出てくるようになりました。心臓が悪く、それまでかなり浮腫んでいました。むくみにむくんだ左脚は、ビニールのようにテカテカして、人間の脚はどこまで膨らむのか想像すらできないほどでした。


下に敷いているタオルやシーツが少し濡れるというのではなく、まるでペットボトルのお水をドボドボとこぼしたかのように濡れ始めて気がつきました。それでも最初はその液体が何か、わかりませんでした。飲み物をこぼしたのかな?尿が漏れているのかな?


でも、飲み物にしては色も臭いもなく、尿にしてはオムツが濡れていない。その透明の液体は粘土があり、生臭いと気がつき、滲出液だと確信しました。そして、その濡れた布団のシミは、黄褐色です。



このシミにも鼻を近づけてみると、体液の独特の臭いがしました。確信したところで、施設に連絡。医師とも連携をとってくれました。


看護師曰く、滲出液が出ることは、珍しいことではないそうです。特に10月6日(日)からラシックスという利尿剤を増やしたので、皮下組織に溜まっていたものが耐えられず外に出てきているのかもしれません。
*ここから脚の写真を載せますので、ご自身の判断でお願いします。










このように自然とできてしまった創傷(傷口)から透明のベトっとした粘度のある液体が出てきています。写真では分かりづらいのですが、左脚の様々なところから滲出液が見られます。



滲出液はオムツとパッドで吸水という形で対処します。現在は、どの塗り薬にするか、滲出液が出たことでどの程度むくみがりとれるか、など見極めている段階です。



オムツは1枚(Lサイズ)、パッドは3枚使用して、テープでやさしく巻いています。失った右脚に左脚はオムツ。本当は蒸れて不快だと思うのですが、この処置が妥当のようで、私も毎晩、このように処置しています。



それから、10月8日(火)から祖母は右下腹部を痛がっています。右の下腹部が波を打つように痙攣していたので、医師に診てもらいました。原因は不明。ただ、腹部を押しても痛がらないので急性腸炎ではなさそうとのこと。私が見ていると、咳をするとき、介護ベッドで背中を起こすときに痛がる気がします。こちらも様子見です。手を押さえているところが痛むようです。




不幸中の幸いは、本人が滲出液があるからといって痛がらないこと。オムツを巻いていることを気にしていないこと(正確には気がついていないかも)。また飲んだり、食べたりはできていること。認知症がだいぶ進み、自分の体のことを全くわかっていないことです。



【メモ】
・朝昼夜の概念がない
・季節もわからない
・交換したばかりのオムツを1分後に替えてという
・うんちと発する
・時計が読めなくなってきた(なった)
・トランプもできなくなった
・少し前までできた簡単な足し算や掛け算もできなくなった
・言語化することが難しく、その反動で暴力や暴言、機嫌の悪さが出る

など。


ちなみに、昨年8月に入院したときは認知症ではありませんでしたが、そのときも自分の病名を聞いてきませんでした。これは私にとっては、不思議なことでした。


そして、本日。祖母に髪を引っ張られ、爪を立てて引っかかれ、私の腕はまた傷が増えました。しかし、介護士さんの協力を得て、無事に日帰り入浴に送り出すことができました。


この状況で不運なことに、数日間、母がコロナの発症リスクが高いこともあり、2階で隔離しています。重度の間質性肺炎の祖母にコロナウイルスは最悪です。つまり、本当に私一人での介護。父は移乗くらいならできますが、この世の中の三連休、父は3日間とも出勤。


このところ、オムツ交換や清拭、着替えなど母と二人でやっていました。それは、祖母の体位を動かすときに祖母自身に力がなくなり、とても大変だから。さらに傷口に薬を塗る際も倒れてこないように支えたり、便が患部につかないように配慮したり。脚を上げている間にタオルを潜りこませたり、清拭の際に傷口の手当てをしたり。


私一人でなんとかやるしかありません。母を隔離することになった理由(詳細は控えます)が私には理解できないことで、昨夜から今朝にかけて母vs娘は、文字による修羅場でした。ただ、母は自分の母(私にとっての祖母)が人様に向かって暴れたり、叫んだり姿に心を傷めているようです。私は私で「人間の体はどこまでいったら、どこまで苦しんだら・・・。」と、思うと絶望を感じます。それぞれ介護する側の心が追いつかないことも多々あるのが現状です。


先日メインブログに書いた記事

神奈川県川崎市のセレクトショップAmie(エイミー)の代表が綴る徒然日記です。

神奈川県川崎市のセレクトショップAmie(エイミー)の代表が綴る徒然日記です。

Amieの仕事のことや趣味、綿の栽培日記など多岐にわたり投稿しております。Instagram→amie_inc.2016【神奈川県川崎市のセレクトショップAmie(エイミー)の代表が綴る徒然日記...

goo blog

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手術から一年。

2024-10-04 23:58:00 | 日記
こんばんは。日付が変わる前に今日はどうしても更新したいので、投稿します。
それは今日が10月4日だから。


昨年の10月4日に祖母は、右脚の下肢切断手術を受けました。原因は急性下肢動脈閉塞症により、右大腿部に血栓ができたからです。


その日から一年。祖母は今日もがんばって生きています。祖母は、ここ数日、精神的に不安定で大きな声でよく叫びます。処方されている頓服を服用させて、祖母がなるべく辛くないように様子を見ています。認知症の影響もあり、母や私の名前が出てこない時もあります。


今日は、入浴とデイサービス利用の予定でした。しかし、夜、深夜、早朝と不穏な状態で祖母自身も疲れていたのか、お迎えの1時間前の時点で熟睡していました。寝ている間はきっと起きている時より苦痛が和らいでいると信じ、睡眠優先で施設にはキャンセルの電話を入れました。


最近は、このような感じのことが多くなってきました。その日、その瞬間で判断して祖母にとっての最善を尽くす。母と私は予定を変更することも多いのですが、祖母の全身状態(特に肺と心臓)の悪さを考えたら、自然とそうなります。


ところで、昨年の10月4日は、肌寒い日でした。祖母の手術を待っている間に両親と入った院内のレストランでラーメンが売り切れていたことも覚えています。急に冷えると、温かいものが余計に恋しくなるのですよね。


それから、病院から貸し出されていたPHSが鳴り、ICUのあるフロアに行きました。看護師から説明があるとのことで待っていると、葬儀屋さんが祖母の脚を段ボールのような箱で持っていくのに出くわしてしまいました。それは私にとって予想していなかったことで、ショックを受けました。


手術が無事に終わり、執刀医からおおよその説明を受けた後、人数制限があったので母と私のみICUに入りました。祖母の状態で全身麻酔はできなかったので、ブロック注射での手術でした。ICUのベッドで、祖母は既に起きていて、私の手を取って「わぁ!あみちゃんだ!」「ありがとう」と言っていました。この時、祖母は手術を受けたことも、右脚の大部分を失ったことにも気がついていませんでした。その点に違和感を覚えました。


すべてのことをまだ生々しく覚えています。でも、昨年の私に、もし何か言えるのなら、「来年の10月4日もおばあちゃんは生きているよ。バニラバーのアイスも食べるし、ノンアル(祖母はビールだと思って飲んでいる)も飲むし、あんぱんも食べられるよ。それから、孫の手をお守りのように握りしめて、私をよくつついては、ケラケラと笑っているよ。」と伝えたいです。



画像:2024年10月4日(金)の祖母👵🍨
ビデオをスクリーンショットして編集したものです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする