1月20日、15時30分に医師の確認のもと祖母の死亡が確認されました。年が明けてから、あまり良くない状態でした。特に食事はほとんど摂れなくなっていました。命をつないでいたのは、メイバランスミニのヨーグルト味でした。
それでも、17日の金曜日にはお風呂にも行くことができました。そして、その日はほぼ一日中、私はベッド下に座って祖母と2人で戯れていました。メイバランスも飲みながら、穏やかでとても楽しい時間でした。
18日の土曜日。朝6時ごろから痰の絡まったひどい咳が始まり、背中をさすって痰を吐き出させました。そして、午後は滲出液の処置や口腔ケアを看護師さん2人がやってくださりました。医師の往診もありました。
そして、19日の日曜日。意識はあるものの、頻脈がすごく息もハアハアしていました。リットマンの聴診器で私も聴きましたが、ものすごく心臓が速く鼓動を鳴らしていました。看護師が測った血圧は上が88しかありませんでした。脈は150を超えていました。目の焦点も合わず、ほぼ言葉も発せない状態になりました。辛うじて言ってくれた言葉は「あみちゃん」「おーい」「痛い」でした。
そして、午前2時30分。祖母は目を開けて静かにしていました。心臓の音はいつも通りの速さに戻りました。お昼から替えられていなかったオムツが気になったので、私一人でオムツを替えました。このとき、祖母は自分で柵を持ち、私を手伝ってくれました。そして、とろみをつけたOS1を小さなスプーンで10mlは飲みました。
そして、20日の月曜日。熱が37.9度。同じくとろみをつけたポカリやOS1を自分から口を開けたので、小さなスプーンで飲ませました。顎下をよく観察していましたが、嚥下もできていました。
呼吸が13時ごろから悪くなりました。あまりに苦しそうだったので、年明け早々やめていた麻薬入りのテープ(亡くなった後、すぐに返却しています)を再び貼りました。すぐに看護師を呼びました。頻脈がすごくて、脈や血圧は測れないほどでした。それでも、口の中を綺麗にしている間は、棒を噛んでいたずらをしていました。「あみだよ、わかる?」と聞いたら、「うん」とうなずいてくれました。これは、看護師さんも見ていて、「最後まであまちゃんのことわかっていましたね」と言ってくださりました。
そして、14時58分、私たちに心音が聴こえなくなりました。下顎呼吸が始まってから、本当にすぐに、あっけなく逝ってしまいました。でも、最後の最期、苦しむ時間は短かったようです。私はあまりにもショックで泣きじゃくり、訳がわからなくなりましたが、医師も看護師もおっしゃっていました。
死亡判断は医師のみが行えるので、医師が確認してくださった15時30分に死亡と確定されました。医師が死亡診断書を書いてくださっている間、看護師が祖母の体を綺麗にしてくださりました。
その後、母と私で祖母に着物を着せ、私がエンゼルメイクを施しました。祖母の影響で好きになったメイク。私の大好きなアイテムを使ってメイクをしました。家族は「穏やかな顔で、生きているようだ」と言っていました。21時、祖母は葬儀屋さんにお迎えに来てもらい、自宅からは離れていきました。安置所で面会ができるそうなので、一度祖母と会おうと思っています。
現在、川崎市の火葬場はとても混んでいるようです。155万人かつ日本の自治体のなかでも珍しく人口が増えている川崎市は、人口に対して火葬場が北部に1箇所、南部に1箇所と少なすぎるように感じます。ドライアイス、冷蔵と亡くなったあとも中々天へと行けないこの状況を重く捉え、今後、何かしら働きかけていこうかなと思っております。自宅の近くに火葬場ができることを嫌がる方が多いそうです。でも、死に直面し辛いとき、大変なとき、この状況はもっと辛くさせます。
今は私自身、喪失感に襲われ、二度と祖母とお喋りできないんだという寂しさが押し寄せています。約14ヶ月、介護がある生活だったので、突然終わりが来てしまい、ただただ寂しく、虚しく、私の存在価値すらないような気がしています。今は非常に落ち込んでいて、無気力です。
小さな頃から、祖父と祖母が住んでいた場所が私が一番好きなところでした。時に勉強や習い事から解放される私にとって唯一安心感のある逃げ場でもありました。そして、なによりおばあちゃん大好きっ子だったので、とても寂しいです。
しばらくは私も涙があふれてきてしまう期間がつづくと思います。そのため、静かに過ごしたい気持ちです。でも、時を見て、祖母がずっと行きたいと言っていた香川県の地にお骨と遺影を持って、母と3人で香川県の空気を吸いに行きたいと思います。
おばあちゃんへ
今までたくさん私のお世話をしてくれてありがとう。弟が生まれるときや病気になったとき、いつも遠いところにもかかわらず、駆けつけて泊まり込みで妹と私のお世話をしてくれて、ありがとう。
幼稚園生の頃、くるみ割り人形でネズミ役をやったことをいつも楽しそうに話してくれたよね。その発表会の前に、妹とおばあちゃん家で過ごしていて、母の目がないから、バレエの発表会の前なのに、私だけたくさん食べてぶくぶく太って帰って、すごくびっくりされたよね。そのとき、母に怒られたのはおばあちゃんだったね。私はたくさん食べられて幸せだったよ。
それから、私が受験で第一志望に受からず、絶望的な気持ちで春休みに一人でおばあちゃん家に行ったとき、静かに見守ってくれてありがとう。でも、嫌々ながら通い始めた学校で、心の友といえる友達ができて、今もその関係はつづいているよ。実は、おばあちゃんのこともよく話すんだ。
おばあちゃんと顔に美容パックをしたり、コーヒーを飲んだり、ソフトクリームや焼き芋を食べたり、すごく楽しかった。似た者同士だから、時にぶつかったけれど「それが生き甲斐やった」と言ってくれて、私は救われたよ。
私たちが遊びに行く夏休みや冬休み、春休み、いつもたくさんの作物を育てて待っていてくれてありがとう。それから、ダンボールいっぱいに送ってくれてありがとう。イチゴ狩り、スイカの食べ放題、芋掘り。何でもやりたい放題。食べ放題。あれが贅沢なことだと知ったのは大人になってからだったわ。作物はすぐに育つものだと思っていたけれど、自分でやって初めて、土づくりから難しいものだと知ったよ。
天国では、聴覚と脚があって、好きなところに行って、好きなだけ食べて、楽しく舞ってね。そして、私もそちらに行く日が必ず来るので、そのときは、迎えてね。一緒にカフェオレを飲んで、トランプとオセロをして、旅行にも行こうね。スキンケアとメイクは任せて。あとは何よりたくさん話そう。
月命日には必ずおばあちゃんの好きなものを供えて話しかけるので、夢にでもいいから出てきてくれると嬉しいな。
おばあちゃん、たくさんの愛情をありがとう。必ずまた会いましょう。
あみより
旅行先では、ほぼほぼ祖母と同じ部屋でした。