神奈川県川崎市のセレクトショップAmie(エイミー)の代表が綴る徒然日記です。

Amieの仕事のことや趣味、綿の栽培日記など多岐にわたり投稿しております。Instagram→amie_inc.2016

何もかも疲れ過ぎた日。

2024-12-26 22:00:00 | 日記
こんばんは。今日は朝から祖母が荒れていて、今も大きな声で「泥棒、泥棒」と叫んでいます。15分にも満たない私の入浴中も「あみは、泥棒ばかりして死んだ」と聞こえてきました。
*何も盗んでおりません。

今日は朝から凄まじく大きな声で叫んでいて、雲行きが怪しいと感じていましたが、それが見事に的中してしまいました。今日は入浴のみで施設に送り出しましたが、そこでも大変だった様子がわかりました。


この一週間、体を酷使することがつづきました。先週の木曜日から風邪で体調を崩している父は2階で生活、祖母は1階と分けていたため、母と私の負担は増していました。父は、クリニックでの検査の結果、コロナやインフルエンザは陰性でした。しかし、ものすごい咳と痰が音で伝わってくるので、配膳や洗濯物など家事が増えました。


他にも年末年始という季節柄、非日常のことがあり、さすがに私も今日は疲れ果ててしまい、泣きたい気分です。


祖母は大きな声で叫ぶので、施設で他の方が眠れないとの訴えがあったと聞きました。そのため、11月の1泊を最後に泊まりはやめています。さらにそのような祖母なので、デイサービスの利用もやめ、今は週に1回の入浴のみにしています。


たとえば、今日は13時過ぎに施設から迎えが来て、14時には帰宅という形です。移乗をして送迎車を見送ったあと、その1時間でシーツや枕カバーなどを洗い、介護ベッドにベッドメイキングをします。それから、洗濯を干し、掃除機をかけます。そして、酸素吸入器に精製水を入れ、ドリンクを飲むカップ2個を洗い、替えの新しいものにストローをセットしておきます。それから施設に提出する書類に印鑑を押し、別紙にサイン。


今日はここで、祖母が帰宅しました。光陰矢の如しとでもいうのでしょうか、あっという間に1時間は過ぎ、休む暇もありません。自由に予定も立てられず、行きたいところにも行けない生活。慣れたといえば慣れましたが、今日のように一日中、祖母が不安な日は、特に疲れが溜まります。


おばあちゃん、お薬、のんで。でも、こういう日は絶対にのんでくれません。先ほど、口に含みましたが、少し溶け出した錠剤をすべて洗い立てのタオルケットにぷっと吐き出しました。あとは、本日ラスト一回(3回目)、今から洗濯物を干します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

介護するうえで意識していること。

2024-12-11 18:43:00 | 日記
こんばんは。師走ですね。祖母が先週の急変から少し持ち直し、今日は久しぶりにトランプで遊ぶことができました。年末年始は、海外組も帰ってくるのでこのまま祖母と「会えるといいな」と心で思っています。


さて、タイトルの件について話をします。在宅介護をして一年、私はものすごいスピードで老けたと思います。人によっては「介護を言い訳にしている」と捉える方もいらっしゃるでしょう。価値観や経験値はそれぞれなので、それはそれでいいと思います。

でも、私は鏡に写る自分やビデオ通話の際の画面に写る自分、写真(今は祖母や家族以外とは本当に写りたくないので撮らない)で感じます。そこで、「なぜ、老けたのか」自分なりに分析しました。


【考察】
①自分の見た目に気を遣う時間が減った。
→家にいるときが一番忙しく、余裕がない。また夏はオムツを替えるだけでも顔から汗が吹き出て、化粧どころではなかった。さらに、一番の原因は目元の荒れが治らず、化粧ができない。

②スカートやワンピースはクローゼットで眠り、選ぶ服装は動きやすく、洗濯機で気兼ねなく洗えるもの。たとえば、ズボンやTシャツ、スウェット。靴はスニーカーの一択。
→オムツ交換や移乗はズボンがマスト。また祖母に洋服を強引に引っ張られたり、車椅子を押したりするので、動きやすく丈夫な服。

③第三者に指摘されるほど、睡眠不足で顔の疲れが出てしまっていること。
→これが一番の原因だと思う。母の顔が特に深刻。

以上。


①の目元の荒れについては、一年以上治りません。皮膚科でステロイドの薬2種類と保湿剤を処方してもらって、治るようにとがんばっているのですが、良くなっては悪化、悪化しては少し良くなるの繰り返しです。2箇所の皮膚科に行ってみましたが、原因がわかりませんでした。ただ、人に感染させるものではないようです。

私の趣味は、コスメ集めやメイクすることでもあるので、この状況は非常にストレスです。
☟好きなアイシャドウパレット🎨


☟赤みがある時の右のまぶた。本当になんなんだーーー😩😩😩



一方で、プロの力を借りてキープできるところは、なるべく意識高く持とうしています。たとえば、美容院。これまでカットは3ヶ月に1度くらいの頻度でしたが、今は1ヶ月半に1度の頻度で通って髪の毛をケアしてもらっています。






スニーカースタイルも大好きですが、私のクローゼットのなかは、圧倒的にスカートやワンピースが多いので、落ち着いたら着たいと思います。

☟ヒール👠昨年、ワンピースというか、黒のドレスを買いました。そのドレスはとても裾が長いものです。そのため、後ろ側のヒールが12cm〜15cm、前側も4〜5cmはないと引きずってしまうので、ネットで買ってみました。



ちなみに、お気に入りのスニーカーは、NIKEのエアマックス90 LV8の少し厚底のもの♩色違いも買ったほどお気に入りです。



それから、気になる美容医療についても調べました。その過程で動画も見ました。しかし、痛々しくてほんの少ししか見られませんでした。そして、結論「今の私には無理だ」と思いました。痛がりで注射が大嫌いな私は10秒で諦めがつきました。



そんなこんなで、好きな美容のことは楽しみたいですし、目元が安定したらファンデーションやアイシャドウを思いっきり使いたいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖母が急変。

2024-12-05 22:56:00 | 日記
こんばんは。昨日は祖母が急変し、気が抜けない一日でした。というのも、朝から呼吸が苦しそうで、パルスオキシメーターで測ると82。80台の時間が長く、呼吸の音を聞いているだけで涙が溢れそうでした。


それでも、ふりかけをかけたお米は食事介助をしながらお茶碗一杯分は食べるし、ノンアルコールビールも飲む。さらに、孫の手でつついてきては笑うし、時々怒る。苦しいから機嫌も悪い。そんな感じでした。


そして、寝ている時に起こさないように測ると93。少し上がったものの、また起きると87。4日前からパルスオキシメーターの値が94〜95と少し下がっているなとは思っていましたが、ここまで一日を通して低かったのは久しぶりで、厳しい日でした。4月、5月、6月とガクンと一気に悪くなった日があるので、「12月にまた来たな」という感じです。


夜間には、オキシマイザーの不具合があり、いくつか持ってきてもらったものの、接続がうまくいかず。オキシマイザーに個体差があり、うまくハマらないものや、形状記憶がなかなかつかないもの、機械の急な故障、新しいものを緊急で届けてもらうまで酸素ボンベを交換しながら命をつないだこと、この酸素吸入に関してはことごとく神経を使います。停電が起こったら、非常に危険な状態に陥ります。


そして、もうひとつ。私は最近、「あれでよかったのかな」と後悔していることがあります。それは、手づくり餃子やみかん、バナナのこと。


祖母は大食漢でした。そのため、身長に対して体重が多く、いわゆる肥満体型。150cmあるかないかで体重は60kgを超えていました。
そのため、心臓や足に負担をかけていました。足は以前、病院で人工関節の手術を片足ずつ時期をずらして受けました。そこから痛みはほぼ無くなりました。それでも、心肥大や高血圧があったので、母と私は祖母の食事管理、主に食べ過ぎないように注意していました。


たとえば、餃子と白いお米のときは、餃子の皮も炭水化物なので、大きな手づくり餃子5個に対して、お茶碗軽く一杯。でも祖母は、もっと食べたがっていました。夜ごはんの後、私たちの目を盗んでバナナを食べていることもありました。


あまり食べすぎないように気をつけることは、その時は当然だと思っていました。しかし、ほぼお米しか食べなくなった今、さらには食べない日・食べられない日もある今、高齢だった祖母に「我慢させることが良かったのか」私は分からなくなってしまいました。「もっと好きなものを好きなだけ、食べていた方が幸せだったのではないか」と。


先日、餃子を作りながら悲しくなってしまいました。今は餃子を作っても全く見向きもしません。みかんやバナナを剥いても全く手をつけません。


たまらず母にどう思っているか、聞きました。母は、「肥満で心臓に負担がかかっていたから、食べ過ぎないようにしていて良かったんだよ」と言いました。救われました。


母は母で、母の父(私の祖父)と最後となってしまった(その時が最後だとは思っていなかった)外食で「もっといいものを食べさせてあげれば良かった」と思うことがあるそうです。「でも、考えても仕方ないから考えないようにしている」と。それもよくわかります。ただ考えたくなくても、感じてしまう。勝手に頭に浮かんでしまう。これは、結局のところ、自分で心の整理するしかないんだなと思いました。


そして、今日。酸素濃度は90くらいにはなりました。しかし、苦しそうなので、訪問医師から酸素機器の会社に電話してもらい、7ℓ吸入できる機械を持ってきていただきました。在宅では5ℓが最大だと思い込んでいたので、念のために聞いて良かったです。


ちなみに、さらに上は5ℓの機械を2つ繋いで10ℓ、3つ繋いで15ℓ流している方もいらっしゃるそうです。ただ、10ℓも流すと酸素の勢いがすごいので、鼻が痛くなる可能性が高いとのことです。たしかに、5ℓでも音がすごかったので、10ℓは想像できます。今日のところは、5.5ℓにオキシマイザーで90台後半まで上がってきたので、鼻息が荒く苦しそうですが、様子を見ようと思います。



介護が私の生活の比重を大きく占めるので、介護に関する投稿が多くなっています。しかし、介護をするうえで気分転換や息抜き、休息をとることの重要性を知りました。頭ではわかっていても、少しくらい自分ががんばればいいんだと思っていました。しかし、介護が終わったときに、自分が立ち上がれないほど自分を追い込んでしまっていてはならないのだと気がつきました。そこで、可能な範囲で私なりの楽しみ方をしているので、以前のように楽しかったことも記事にしていきたいと思います。


いつも私のブログにお付き合いいただいている皆さま、ありがとうございます。救われ、励みになり、あたたかな場所だなと感じています。これからも大切にしていきたい場所なので、よろしくお願いいたします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖母の弟が他界したことを認知症の祖母にも伝えました。

2024-12-03 17:24:00 | 日記
こんにちは。一日一日を大切にしながらも祖母も母も私も必死に生きています。自分で「必死」と書くのもどうなのかと思いながらも、命と向き合って、気の抜けない緊張感がある毎日なので、この言葉も妥当かなと思って選びました。


さて、在宅介護を始めて一年になりました。ここまで本当に色々とありました。酸素吸入が在宅でも始まったり、オムツ交換や清拭など清潔に保つためのスキルを身につけたり、祖母の怒りや悲しみに寄り添いつつも、「脚を返せーーー」と激しい罵りに心折れそうになったり。

さらに、時に各セクションと折り合いをつけたり、グッとこらえたり、話し合ったり。夏のある日、ひどいめまいがして医師に伝えたら「慢性疲労と睡眠不足ですね」と言われて、「あー。慢性疲労っていう言葉があったな。」と身に染みて感じた日もあれば、頻繁に起こる腹痛に我慢ならず、予約をとって消化器内科に駆け込んだ日もありました。30代でも体のあちこちに異変が生じることがあり、肉体的にも精神的にも介護する側の大変さを身をもって知りました。


ところで、祖母は今月91歳になります。その誕生日を迎えられる可能性が高くなってきました。奇跡としか言いようがない生命力です。先日の血液検査の結果を見ると、間質性肺炎をみるKL-6は正常範囲内ではないものの、前回よりは良くなっていました。NT-proBNPという心不全の値は、変わらずとても悪かったです。


一方で、今月はすでに悲しいお別れがありました。祖母がかわいがっていた弟が12月に入って亡くなりました。母の従兄弟から私の携帯に着信履歴があったときに嫌な予感がしましたが、残念ながらその予感はあたっていました。


幼かったころ、私と妹が香川県の祖父と祖母の家で過ごすことがよくありました。私は「◯◯おっちゃん」と呼んでいて、色々とよくしてもらっていました。最後に会ったのは祖父の四十九日に行ったときなので、もう6年も前になります。その頃は、おっちゃんも祖母も元気で、たくさんおしゃべりしていました。


祖母は四人きょうだいで、兄、祖母、弟、妹です。兄と妹はだいぶ前に亡くなっており、この度、弟も他界したので、きょうだいで生きているのは祖母ひとりだけになってしまいました。祖母がとてもかわいがっていた弟だということを母も私もよく知っていたので、伝えるか否かを考えたうえで、祖母に筆談で伝えました。認知症の祖母にもきちんと伝わり、理解し、涙していました。


でも、伝えたあと数分後には忘れてしまったと思います。これは仕方のないことです。本当は、母も私も香川県に行って通夜と葬式に参列したいところですが、仕事と在宅介護(現在、デイサービス利用は諸事情があり、週一回程度に絞っている)があるので、日を改めてお墓と仏壇に手を合わせに行くことにしました。


それがいつになるか、今はまだ決められません。でも、必ずおっちゃんに感謝を伝えに行こうと思います。そして、その時に祖父のお墓にも手を合わせに行こうと思っています。


香川県。羽田から高松までは1時間と少しの空の旅です。車や新幹線でも行ったことがありますが、時間がかかるので、いつも飛行機を選んでいます。通常の生活なら、日帰りでも飛行機で往復できます。しかし、介護がある今の私にはすぐに行動に移せる場所ではなく、香川県が遠くに感じます。


祖母の容体が日々変わるので、先を読むことができません。そのようななかで、羽田までの道のり、高松空港でレンタカーを借りる時間、そこから西に向かう道中。そして、帰り。先日、羽田から伊丹まで飛び、日帰りで神戸に行きましたが、ずっと祖母のことが気にかかり、それだけで疲れてしまいました。スイッチを切り替えることが難しいことを痛感しました。


心を落ち着けて行きたいので、いつの日にか香川県を訪ねたいと思います。



追記
祖母の場合、在宅介護を行ううえでも「特別、大変かもしれない」と言われています。

これまでも書いてきたとおり、

1.施設を姥捨山と思い込んでおり、施設で大きな声を上げたり、手が出たりすることが多いようで、施設の利用を極力少なくしています。

2.中途失聴で耳が聞こえなくなってから、人の様子を細かく見るようになりました。そのため、被害妄想に陥っているときもあります。

3.急性下肢動脈閉塞症により、右脚の太ももから切断手術を受けました。そのため、寝たきりの生活で、認知症を発症しました。また、ベッドから車椅子、車椅子からベッドへの移動には必ず移乗が必須なので、介護する側の人間が最低2人は必要です。

4.下肢切断によりPTSDも発症したことや認知症で自分の感情をうまく言語化できないことから、大きな声で叫んだり、罵ったりするようです。感情のコントロールが難しく、よく泣き、よく怒ります。特に「脚を返せ」「誰が切ったんや」「切るときは本人に確認をとるべき」と言います。
*当時、祖母は血栓が詰まった痛みや入院生活のなかで認知症が入ってきていたのか、意思疎通がはかれる状態ではありませんでした。病院でもあまりの痛みでモルヒネもフラッシュするほどでした。

5.私の個人的なことですが、いつも祖母は母ではなく、まず「あみちゃーーーん」と呼びます。そしてヒートアップすると、「あみーーー💢」となります。そのため、深夜でも早朝でも私を呼ぶ声がするので、私は必ず目が覚めてしまいます。施設でも私の名前を呼んでいるそうで、施設のスタッフも皆さん「あみちゃーーーん」はよく聞くとおっしゃっています。


など。

祖母が施設でも静かにおとなしくしてくれていれば、ここまで大変ではなかったと思います。なので、祖母の在宅介護の大変さは、ほんの一例で、個人差がものすごくあると思います。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正解は何?正しい答えは?

2024-11-12 20:12:00 | 日記
こんばんは。ブログを書く気力がないまま、時が過ぎ、11月も12日になっていました。相変わらず、要介護5の祖母の在宅介護とデイサービス利用をつづけています。祖母の肺や心臓は小康状態なのか、血中酸素飽和度やバイタルは安定しています。そこで昨日は、2ヶ月半ぶりに泊まり1泊をお願いして、母と私の休息に充てました。


祖母には、認知症、せん妄、PTSDがあり、暴れて手をつけられない時間が非常に増えました。それでも、母や私には叩く力もある程度セーブしている気がします。でも、毎日、祖母と生活するなかで、もう何が何だかわからなくなってきました。


何が正解なの?
それは不正解?
何が正しいの?
これまでの選択は合っていたよね?
間違えた?  
どうしたらいいの?


明確なことは、母も私も極度に疲れていることです。今日は、施設からの連絡帳にも胸が痛む言葉が並んでいました。気疲れが一番かもしれません。


看取る覚悟を決めて在宅介護をつづけてきました。祖母が今、生きているのは病状からして奇跡のようなことだそうで、複数人の医師から言われていた想定よりは長く介護していることになります。それに伴い、このまま在宅介護をつづけるか。正確には、つづけられるのか。見極める時期が来ているのかもしれません。


私は祖母の状態で療養型病院には抵抗があります。理由は、祖母が自宅にいることを願っていること、病院では身体の拘束や抑制をかける薬を使う可能性が非常に高いこと、中途失聴の祖母にどこまで筆談してくれるかわからないこと、私たちの目の届かないところでどのようにされるかわからない不安などです。しかし、母は近頃、よく「もう療養型病院にお願いしようよ」と口にします。他にも私が聞きたくない言葉も言うので、そのあたりはシビアな関係性になることがあります。


65歳を高齢者とするならば、母が祖母を介護することは老老介護ということになります。元々力持ちだった母の力は、明らかに弱くなりました。足も踏ん張りが効かなくなっているようです。私は、その点はまだ大丈夫なのでカバーしています。元々力はある方なので、祖母を乗せた車椅子と酸素ボンベ(80kgくらい?)を20cmほどの段差があっても、上げ下げできます。バスタオルを使っての移乗は、もはや得意です。福祉車両の扱いも覚えました。


何より祖母が自宅でも施設でも「あみちゃーーーん」とよく呼びます。施設のスタッフも毎回聞いているそうで、それが私の情に訴えかけてきて、療養型への話に首を縦に振ることができません。このような状況で、色々なことが頭に浮かび、私の頭の中はいつも曇っています。

「ここまでみてきたから、最期まで。」

「病院に行ってもらうならば、最初から転院という形で行ってもらっていた方が情にほだされることなく、気持ちが楽だったかも。」

「でも、体のあちこちが悲鳴をあげているし、心にゆとりも余裕もない。いつも気忙しくて急いでいる。」

「どうしたらいいの?わからない。助けて。」


など。母と私の二人しか自宅で介護をできる人がいないのも痛いところです。


それから、祖母は頻繁に「脚を返せ」と大声で叫ぴます。これも聞いていると、辛い言葉です。

あの日、それは血栓が詰まっていると医師から言われたとき。壊死を待つか、右脚切断の二択しか選択肢がありませんでした。他に治療法はないのかと母と私はいくつかの病院に問い合わせました。しかし、無念にも選択肢は広がりませんでした。


祖母本人は詰まった血栓の痛みで喘ぎ、モルヒネを投与され、判断できる状態ではありませんでした。そのため、父、母、私の3人で後者を選びました。その時、その時で最善を選んできたつもりではいますが、祖母が大きな声で「脚を返せーーー。」と叫び、嘆き、泣く姿をほぼ毎日見聞きしていると、「これでよかったのか」、わからなくなります。


そして、脚を失ったことが祖母の相当のストレスになり、その表現をうまくできず、乱暴的になっている節も確実にあります。


「祖母は今、生き地獄なのだろうか。」
「でも、100歳まで生きるで。」
と言っているし・・・。

考えても答えはわかりません。間質性肺炎に侵された肺で酸素吸入(濃縮するオキシマイザー)をしながら祖母は、その日その日を精一杯生きているんだと私は思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする