モロッコ、アンダルシア、中東、コーカサスの野生種の薔薇の中に Rosa damascenaに特徴的なDNAを見出だすことができます。
自然崇拝の多神教を採用する社会の中に Rosa damascena が受け入れられたと思われます。そして、自然崇拝の原イラン多神教を母体としたゾロアスター教の中でも。
即ち、古代ペルシャ帝国であるアケメネス朝、アルサケス朝、サーサーン朝の時代まで Rosa damascena は生き残ったようです。問題はその先です。サーサーン朝時代の、633年にアラビア半島に興った新興宗教イスラム教を報じるアラブ人がイランに侵攻してきます。そして、Rosa damascena は、イスラム教の教義の儀式の一部としてローズウォーターとして使われることで生き残ります。このあたりでしょうね。Rosa x damascenaは生き残ったのですが、それはローズウォーターを産する植物としてであって、本来の Rosa damascena ではすでに姿を消しつつあったのかもしれません。自然交配ではなく人の手が加わった可能性を拭い去ることはできません。
ダマスクローズを挿し木、吸枝で殖やす限り、遺伝情報は変化しません。オイルの収量を増やすために、即ち、花びらの数を多く、花びら自体を大きくするための何らかの手が入ったのではと考えられます。
サーサーン朝( Sassanid、226-651)に続く時代は化学が発達した時でもあり、ガレノス(129-216)が活躍した時代とも重なります。しかし彼は Rosa damascena に関する記述を残してはいません。彼よりも少し前に『薬物誌』を描いたディオスコリデス(40-90)はたくさんの Rosa damascen aに関する文書を残しているというのに。
2015年にモロッコで Rosa x damascena の栽培に関する調査が行われました。
ペルシャ時代と違って現代のイランでは、モロッコのアトラス山脈南のサブサハラ砂漠で北アフリカの古代先住民であるベルベル人が Rosa x damascena を栽培しています。
ベルベル人の住む地域は、西暦632年のムハンマドの死後、イスラム征服の対象となりました。アラビアのイスラム教徒は642年までにメソポタミアとエジプトを統治し、アルメニアを侵略してペルシャ帝国の征服を終わらせました。 エジプトの西側にある北アフリカ地域へのアラブ軍の遠征が開始され、イスラムが西側に広がったのはこの時点です。 以前の宗教や文化の征服とは異なり、アラブ人によるイスラム教への改宗は、アフリカの北西部のマグレブ( モロッコ、アルジェリア、チュニジア、西サハラの北アフリカ北西部に位置するアラブ諸国を指す言葉 )に広範かつ長期にわたる影響を与えました。
Cat. 21. Miniature. “ユスフとズレイカ(Yusuf and Zulaykha)”、ウズベキスタン ブハラ( Bukhara); 1683 から。 足元に選りすぐりのローズウォーターのボトル、香炉、ローズウォータースプリンクラー、ダマスクローズのアレンジメントが並んでいます。(ウズベキスタンは、アムダリヤが流れ込むアラル海の南半分を占める国です。現在、人口の約90%がムスリムであり、5%がロシア正教会に属しています)
イスラム諸国がダマスクローズを受け入れた背景には、ムハンマドが政治および宗教の指導者であったことが大きく関わっています。一方キリスト教はダマスクローズの存在を排除します。そのことは多神教だったローマ帝国が、キリスト教を国教と定めたコンスタンティヌス帝による313年のミラノ勅令前からすでに始まっていたようです。遅くともヘリオガバルスの時代あたりから。そのことはガレノスの『De curandi ratione ; 癒しについて』に薔薇が登場しないことで明らかです。
“心を癒す“力を持つダマスクローズの存在が、キリスト教の布教の足かせになることを嫌ったのでしょう。キリスト教が安定した地位を確立した後も、秘かに教会内で栽培を続けていましたが、一部分の人たちの間で知られる程度で広く活用されるには至りませんでした。イヤむしろダマスクローズを含め、そのほかの薔薇たちを卑しい存在と看做してきたようです。そのことはあの、「薔薇物語」の最後で見ていただいた、あの”開き戸“( 3/21、ダマスクローズ 26 前述 )に象徴されています。覚えておいででしょうか?