キリスト者にとって、人生に、生活(LIFE)にもっとも切実で不可欠な行為は祈りである。イエスも、倦まず弛まず祈るように教えられた。(ルカ18:1)
どれだけ深く強く鋭く粘り強く祈ることが出来るかは、それも修練の要することだと思う。
この祈りの中で、神と「理論闘争」が行われる。その中で思考と思想が練られる。聖書の中には、イスラエルが神と格闘したことが書かれている。そして、イスラエルは神と人と闘って勝った。(創世記32:29)
私たちもある意味では、神と闘わなければならない。ここでは、神とは「運命」のことである。人間は自分の神、すなわち「運命」と闘って勝たねばならない。そして自分を自分の運命の主人としなければならない。人間にとって、神とはそのような関係にある。
祈りとは、そのための神との戦いの場でもある。もちろん戦闘だから負けることもある。だが、人はこの「祈りの戦場」において鍛えられるのである。その意味では、キリスト者にとって「祈り」は、禅宗の座禅のような意義ももっている。祈りは、キリスト者にとっては精神の修羅場である。