海と空

天は高く、海は深し

五つのソラ

2025年07月13日 | 宗教一般

五つのソラ

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五つのソラ英語:five solae、ラテン語:cinque solas[要出典])、プロテスタント宗教改革と改革神学者たちの神学を要約したラテン語の語句である。「ソラ」は「〜のみ」を意味する語である。

目次

聖書のみ

ソラ・スクリプトゥラ (Sola scriptura) は「聖書のみ」という意味である。ルターシュマルカルデン信条において「神のことばが、教会の教えと信仰告白を確立する。それは天使であっても覆すことができない」と主張した。ルターは、教皇教会会議も最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであると主張したのである[1]。そして、カルヴァンはルター以上に強調した[2]。それに対して、カトリックでは聖書が神のことばであることを認めつつも、聖書が唯一の権威であることには同意しなかった。

信仰のみ

ソラ・フィデ (Sola fide)は「信仰のみ」という意味で、信仰義認とも呼ばれる[3]。ルターは九月訳聖書とも呼ばれる『ドイツ語新約聖書』の「ローマ人への手紙」3章28節の訳語に「のみ」を付け加え、「信仰のみによる」と訳した。これが、ルターの宗教改革の中心的教理である信仰義認のテーマになった。

恵みのみ

ソラ・グラティア (Sola gratia) は「恵みのみ」という意味である。「恵みのみ」の原則は、カトリック教会によって、激しく攻撃された。なぜなら、それは倫理を破壊して無秩序と混乱を生む考えであるという理由であった[4]

キリストのみ

ソルス・クリストゥス (Solus Christus) は「キリストのみ」という意味である。ルターは義認において、救いの確信は人の内側にあるのではなく、キリストのみにあると説いた[5]

神の栄光のみ

ソリ・デオ・グロリア (Soli Deo gloria) は「神の栄光のみ(神にのみ栄光を)」という意味である。

 

脚注

  1. ^ カール・ヴィスロフ著『ルターとカルヴァン』p.66
  2. ^ 『ルターとカルヴァン』p.160
  3. ^ 『ドイツ宗教改革史研究』p68
  4. ^ 『ルターとカルヴァン』p.166
  5. ^ 『ルターとカルヴァン』p.38

参考文献

 
 
※  出典(20180713)
五つのソラ - Wikipedia https://is.gd/3z9RI0
 
 
 
 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第八十節[「祈り」と典礼]

2023年03月09日 | 宗教一般
 
ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第八十節[「祈り」と典礼]

§80

Der Gottesdienst (※1)ist die bestimmte Beschäftigung des Gedankens und der Empfindung mit Gott, wodurch das Individuum seine Einigkeit mit demselben zu bewirken und sich das Bewusstsein und die Versicherung dieser Einigkeit zu geben strebt, welche Übereinstimmung seines Willens mit dem göttlichen Willen (※2 )es durch die Gesinnung und Handlungsweise seines wirklichen Lebens beweisen soll.(※3)



第八十節[「祈り」と典礼]

「祈り」とは、思考と感情をもって神に仕えるための仕事である。「祈り」によって、個人は神と自己との一体性をもたらし、この一体化の意識と確信を自身に与えようとする。神の意思と個人の意思とのこのような合致は、個人の現実の生活における精神と行為の様式によって実証されなければならない。

※1
Der Gottesdienst 
原義は「神に雇われし者」くらいの意か。
「祈り」と訳した。教会などの他者との公同の場においては「典礼」「礼拝」「祭祀」「ミサ」などと訳せる。「礼拝(典礼)とは、思考と感情をもって、神に仕えるために定められた儀式である」

※2
dem göttlichen Willen 神の意思
神の意思の探究は、哲学研究の目的の一つでもある。

※3
ヘーゲル自身はルター主義者をもって任じていた。彼の哲学がプロテスタンティズムを母胎としているのは疑いのないところである。ここからキリスト者の使命  die Bestimmung、die Mission が出てくる。

五つのソラ - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/oDz9pv
 

「第一教程(下級) 法、義務、宗教論」はここで終わり、次の「第二教程(中級) 精神の現象学と論理学」へと進む。
 
 
 
 
 
 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十九節[恵みと和解]

2023年03月02日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十九節[恵みと和解]

§79

Aber die Freiheit des einzelnen Wesens ist zugleich (※1)an sich (※2)eine Gleichheit des Wesens mit sich selbst, oder sie ist an sich gött­licher Natur. Diese Erkenntnis, dass die menschliche Natur der göttlichen Natur nicht wahrhaft ein Fremdes ist, vergewissert den Menschen der göttlichen Gnade  (※3)und lässt ihn dieselbe er­greifen, wodurch die Versöhnung  Gottes(※4) mit der Welt oder das Entschwinden ihrer Entfremdung von Gott zu Stande kommt.(※5)

 

第七十九節

しかし、同時に個人の存在の自由は、本来は自己自身と存在との同一性にあり、あるいは、個人の存在の自由は本来は神的な性質のものである。人間の本性と神の本性は本当は疎遠なものではないのだというこうした認識は、人間に神の 恵み を保証するものであり、そうして人間に恵みを捉えさせることによって、世界と神との和解  が実現し、あるいは、人間の神からの離反が解消するに至る。

 


※1
前節§78で人間が自己を普遍から分離させる自由をもつこと、神から離反する自由をもつ点において、人間の本来性が悪であることが説明されたが、本節の§79においては、同時に人間の個別が本来的に普遍と同質であることが説明される。「人間は神の子である」とも言われるのはこのことである。しかし悟性は、人間の個別と普遍を両立しえぬものとしてしか理解しない。

§ 280b[概念から存在への移行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j9SLmx

※2
an sich    
潜在的に、本来的に、即自

※3
Gnade
慈悲、哀れみ、 慈心、 仁恵、恩寵、 恩恵、 祝福、 恵み、 至福、仕合わせ

※4
Versöhnung
和解、仲直り、和睦、宥和、償い、慰め

※5
恵みを確信させるのは人間性と神性が無縁なものではないという認識である。この神の恵みを捉えることにおいて、人間と神との和解、宥和を実現する。ここにキリスト教の核心が説明されている。ヘーゲル哲学は神学でもある。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十九節[恵みと和解] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/KqFH65

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十八節[個別の本性について]

2023年02月25日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十八節[個別の本性について]

§78

Das Böse ist die Entfremdung (※1)von Gott, insofern das Einzelne nach seiner Freiheit sich von dem Allgemeinen trennt und in der Ausschließung von demselben absolut für sich zu sein strebt. Insofern es die Natur des endlichen freien Wesens ist, in diese Einzelheit sich zu reflektieren, (※2)ist sie als böse zu betrachten. (※3)

 

§78[個別の本性について]

個別が自らの自由によって、自己を普遍から分離するという点において、そして普遍を排除して絶対的に自立してあろうとする点において、とは神から離反することである。この個別性のうちに自らを映し出すことが、有限で自由な存在の本性である点において、その本性は悪とみなされなければならない。

※1
Ent-fremd-ung は、ふつう「疎外」と訳される場合が多い。
要するに「(自己から分離して)他者、他人になること」である。
人間と異なり、動物はこの離反、分離  Entfremdung の自由をもたない。
fremd = foreign
よそよそしい、 見知らぬ、居心地の悪い、外国の、得体の知れない、なじみのない、などの訳語が当てられる。
マルクス主義で、労働者とその労働の生産物との関係を「Entfremdung 疎外」として使うようになって一般化した。

※2
die Natur des endlichen freien Wesens 
「有限で自由な存在」とは、もちろん「人間」のことである。
in diese Einzelheit sich zu reflektieren
自己を個別性に映し出すこと。個別性に固執すること。

※3
マルクス主義やその他多くのユートピア学説、人権論は、この個別の本性を見落としている。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十八節[個別の本性について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/PeBinh

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十七節[神の性質について]

2023年02月18日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十七節[神の性質について]

 

§77

Gott ist, nach den Momenten seines Wesens, (※1)1) absolut heilig, (※2)insofern er das schlechthin in sich allgemeine Wesen ist. Er ist: 2) absolute Macht, (※3)insofern er das Allgemeine verwirklicht und das Einzelne im Allgemeinen erhält oder ewiger Schöpfer des Universums. Er ist 3) Weisheit, (※4)insofern seine Macht nur hei­lige Macht ist; 4) Güte,(※5) insofern er das Einzelne in seiner Wirk­lichkeit gewähren lässt und 5) Gerechtigkeit, (※6)insofern er es zum| Allgemeinen ewig zurückbringt.

 

第七十七節[神の性質について]

神は、その存在の契機からみれば 、 1) 神は自らのうちにおいて全く普遍的な存在であるから、絶対に 神聖 である。神は、2) 絶対的な威力 である。神は普遍を実現し、そうして普遍のうちに個別を保存し、永遠の 宇宙の創造者 であるから。神は、3)  知恵 である。彼の威力はひとえに聖なる力に他ならないから。神は4) 善なるもの である。神は個別をその現実にあるがままにさせておくから。そして、神は 5) である。神は個別を普遍へと永遠に取り戻すから。

※1
den Momenten seines Wesens  
神の存在(本質)の契機
Wesen
実体、存在、性質、本質、実質、実体
Moment
要素、要因、因子、構成要素、動因、 因数

ヘーゲルにとって宗教とはキリスト教のことであったから、神の存在の本質的な性質を聖書の中から具体例を取り上げた。

※2
heilig 
神聖、尊い、聖なる、神々しい

というのも、世界が創造されてからこの方、目に見えない神の性質は、すなわち神の永遠の力と神聖な霊性は、神の働きからも理解され、はっきりと見えるものであったから、人々には弁解の余地はない。(ロマ書1:20)
 
※3
die Macht 
威力、力、強力、暴力、実力

ある日のこと、イエスは教えていた。そしてパリサイ人と律法師たちがそこに座っていた。この人たちはエルサレムから、ガリラヤやユダのすべての村から来ていた。病を癒す主の力が彼のうちにあった。(ルカ書5:17)

※4
Weisheit
wisdom
知恵、叡智、智識、才気、聡明

ああ、神の智恵と知識の富の深さよ。神の裁きはなんと計りがたく、神の道は辿りがたいことか。(ロマ書11:33)

※5
Güte
goodness
良さ、善、 善良

「なぜ私を善いと呼ぶのか。」イエスはお答えになった。「神お一人をのぞいて善い者は誰もいない。」(ルカ書18:19)

※6
Gerechtigkeit
正義、 公正、 裁判、 公平、義、正直

そして、キリスト・イエスにあるあがないを通して、神の恵みによって無償で義とされる。(ロマ書3:24)

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十七節[神の性質について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/cCheBv

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十六節[絶対的な精神について]

2023年01月31日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十六節[絶対的な精神について]

§76

Gott ist der absolute Geist(※1), d. h. er ist das reine Wesen(※2), das sich zum Gegenstande macht, aber darin nur sich selbst anschaut; oder in seinem Anderswerden schlechthin in sich selbst zurück­kehrt und sich selbst gleich ist.

第七十六節[絶対的な精神について]

神は絶対的な精神である。すなわち、神は純粋な存在である。純粋な存在とは自己を対象とするが、しかし、その中でただ自分自身を直観をするだけであり、あるいは、自身がもっぱら他のものへと変化する中で自分自身へと還り、かつ自分自身と等しくあるものである。

 

※1
der absolute Geist(絶対的な精神)は、先の第七十二節の、Dies absolute Wesen と同じ。第二教課の「精神現象論」の第四節においては、Das Subjekt ist der Geist.(主観は精神である)として説明されている。

※2
das reine Wesen
reine
「純粋な」というのは、神は自ら以外を含まない存在だからである。また神を精神(der absolute Geist)として捉えていること、この核心を精確に解明することは註解の目的の一つである。
Wesen (存在、本質)
第七十二節の註解※1参照。「時間を超越した本質的な存在」。少しこなれないかもしれないが「質在」という訳語を当ててもいいかもしれない。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十六節[絶対的な精神について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/wtNJ2N

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十五節[宗教の意義について]

2023年01月30日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十五節[宗教の意義について]

§75

Die Religion(※1) selbst besteht in der Beschäftigung des Gefühls und Gedankens mit dem absoluten Wesen und in der Vergegen­wärtigung seiner Vorstellung, womit die Selbstvergessenheit (※2) seiner Besonderheit in dieser Erhebung(※3) und das Handeln in die­sem Sinn(※4), in Rücksicht auf das absolute Wesen notwendig ver­bunden ist.

第七十五節[宗教の意義について]

宗教それ自体は、絶対的な存在の表象を視覚化することにおいて、絶対的な存在にかかわる感情と思想をとらえることであり、この克服において自らの特殊な自己を忘却し、かつ、この目的における行為は、絶対的な存在について省みることと必然的に結びついている。

 

 

(※1)
Die Religion
先の第七十四節においても述べたように、「哲学は概念的な認識であり、宗教は表象的な認識である」これはヘーゲルの一貫した宗教観である。

(※2)
 die Selbstvergessenheit
「自己忘却」とは何か。後の※3のdie  Erhebung によって、自己の個別性、特殊性を克服すること、この自己の忘却において、普遍へと、絶対者との合一の高みへと上ることである。

(※3)
 自己の個別性、特殊性を   Erhebung(克服、高揚、追求)することによって、特殊性から普遍性へと高揚すること、ここに有限から無限が出てくる。

(※4)
  das Handeln in die­sem Sinn
 「この目的をもった行為」は、絶対者の存在についての意識と不可分に結びついている。その意識なくしてそうした目的をもった行為、自己忘却は出てこない。

「宗教」についてのさらに具体的な詳細な認識は、もちろん彼の「宗教哲学」を見なければならない。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十五節[宗教の意義について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/KZkPHz

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十四節[理性と悟性]

2023年01月24日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十四節[理性と悟性]

§74

Dies Wissen(※1) muss sich näher bestimmen und nicht inneres Ge­fühl, Glauben an das unbestimmte Wesen überhaupt bleiben, (※2)sondern ein Erkennen desselben werden. Die Erkenntnis Gottes ist nicht über die Vernunft(※3), denn diese ist nur Widerschein Gottes und ist wesentlich das Wissen vom Absoluten, sondern jene Erkenntnis ist nur über den Verstand, das Wissen vom  Endlichen und Relativen.

第七十四節[理性と悟性]

この知はさらに詳しく自らを規定しなければならないし、そうして内的な感情や信仰などの不確かな本質一般のままに留まっていてはならず、むしろ、それらについての一つの認識に至らなければならない。神を認識することは理性を超えることではない。というのも、理性はただ神の反照に過ぎず、それは本質的には絶対者についての知にほかならないからである。ただ、その認識は悟性を、つまり有限なものや相対的なものについての知を超えるのみである。

 

※1
先の第七十二節、第七十三節を受けての「絶対的なものについての知」のこと。

※2
たしかに宗教もまた絶対的なものについての知ではあるが、この知は、きちんと規定もされずに、あいまいな本質のままに留まっていてはならず、一つの認識に至らなければならない。
「哲学は概念的な認識であり、宗教は表象的な認識である」といわれるが、ここに宗教から哲学へ移行する必然性がある。

※3
ヘーゲル哲学にとって重要な概念であるVernunft(理性)とVerstand(悟性)の根本的な差異が的確に説明されている。
Vernunft(理性)は神の反照(Widerschein Gottes)、絶対者についての知であり、Verstand(悟性)は有限のものや相対的なものについての知識である。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十四節[理性と悟性] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/7qiEJR

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十三節[感性と有限の克服]

2023年01月21日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十三節[感性と有限の克服]

§73

Die Erhebung über das Sinnliche und Endliche macht zwar negativ, (※1)von unserer Seite, die Vermittlung dieses Wissens aus,(※2) aber nur insofern, als von Sinnlichem und Endlichem zwar aus­gegangen, es aber zugleich verlassen und in seiner Nichtigkeit erkannt wird. Allein dies Wissen von dem Absoluten  ist selbst ein absolutes  und unmittelbares Wissen und kann nicht etwas Endliches zu seinem positiven Grunde haben oder durch etwas, das es nicht selbst ist, als einen Beweis vermittelt sein.

§73[感性と有限の克服]

感性的なものと有限的なものとを克服することは、たしかに、我々の側からすれば、これらの知識を介して否定的に説明することであるが、しかし、ただ、感覚的なものと有限的なものから出発するものである限りにおいて、しかし、同時に、それは打ち捨てられ、かつ価値のないものとして認識される。しかしながら、この絶対的なものについての知識は、それ自体が 絶対的で 、かつ直接的な知識であるし、また、それ自身が絶対的ではないところの何か有限的なものを、一つの証明されたものとして自らの積極的な根拠としてもつことはできないのである。

 

 

※1
negativ
「〜である」と肯定的に、積極的にではなく、「〜でない」と消極的に、否定的に説明すること。
有限な存在である我々からすれば、否定的な説明から出発せざるをえない。

(※さしあたっては、以上に理解し註解しましたが、「否定的に説明すること」を今ここで具体的事例をもって明確に示すことができません。理解がさらにより明確になれば、追って改稿していきます。)

※2
die Vermittlung dieses Wissens これらの知識を介して

「これらの知識」とは前七十二節に「Dies absolute Wesen ist gegenwärtig in unserem reinen Bewusstsein und offenbart sich uns darin.」とあるように、私たちの純粋意識のうちに存在し、そこに私たちに明らかにされている、これらの絶対的な本質、つまり神についての知のこと。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十三節[感性と有限の克服] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/jaIWum

 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について]

2023年01月09日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について]

§72

Dies absolute Wesen (※1)ist gegenwärtig in unserem reinen Bewusstsein (※2)und offenbart sich uns darin. Das Wissen von ihm ist, als durch es in uns vermittelt, für uns unmittelbar und kann insofern Glauben (※3)genannt werden.

第七十二節[信仰について]

この絶対的な本質は我々の純粋な意識の中に現われ、かつ、そこで我々に自らを明らかにする。絶対者についての知識は、純粋な意識によって我々に媒介されたものとして我々の中に直接にあり、その限りにおいてそれは 信仰 と呼ぶことができる。

 


※1
Dies absolute Wesen この絶体的な本質(存在)
とは宗教的な概念としてはキリスト教の「神」。

岩波文庫版の武市健人訳においては、「純粋意識の中で我々に啓示される。」と受動態に訳しているために、「(絶体的な本質、「神」が)自らを我々の純粋な意識の中に啓示する」という、絶体的な本質の主体性が十分に明らかにされていない。

Wesen 本質、存在。

ここでは「本質」と訳したが、「存在そのもの」の意味も共有している。日本語には的確な訳語がない。
存在と本質との関係については、「大論理学」の中の「本質」の項に、「存在の真理としての本質」、「本質とは過去の、しかし時間を超越した過去としての存在」として説明されている。

「an und für sich」をどう訳すべきか - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/tPnAPg

※2
in unserem reinen Bewusstsein 我々の純粋な意識の内に。
この「reinen」は「アプリオリ a priori 先天的」と同義で、「感覚器官や経験とはかかわらないもの」だから「純粋」である。カントの「純粋な理性 die reinen Vernunft 」を受け継いでいる。私たちの「意識そのもの」あるいは、「カテゴリーの場としての意識」

※3
簡潔だが、信仰の本質を的確に捉えている。

信仰と知 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ULrTn3

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/EW7ZMR

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について]

2023年01月09日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について]

§72

Dies absolute Wesen (※1)ist gegenwärtig in unserem reinen Bewusstsein (※2)und offenbart sich uns darin. Das Wissen von ihm ist, als durch es in uns vermittelt, für uns unmittelbar und kann insofern Glauben (※3)genannt werden.

第七十二節[信仰について]

この絶対的な本質は我々の純粋な意識の中に現われ、かつ、そこで我々に自らを明らかにする。絶対者についての知識は、純粋な意識によって我々に媒介されたものとして我々の中に直接にあり、その限りにおいてそれは 信仰 と呼ぶことができる。

 


※1
Dies absolute Wesen この絶体的な本質(存在)
とは宗教的な概念としてはキリスト教の「神」。

岩波文庫版の武市健人訳においては、「純粋意識の中で我々に啓示される。」と受動態に訳しているために、「(絶体的な本質、「神」が)自らを我々の純粋な意識の中に啓示する」という、絶体的な本質の主体性が十分に明らかにされていない。

Wesen 本質、存在。

ここでは「本質」と訳したが、「存在そのもの」の意味も共有している。日本語には的確な訳語がない。
存在と本質との関係については、「大論理学」の中の「本質」の項に、「存在の真理としての本質」、「本質とは過去の、しかし時間を超越した過去としての存在」として説明されている。

「an und für sich」をどう訳すべきか - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/tPnAPg

※2
in unserem reinen Bewusstsein 我々の純粋な意識の内に。
この「reinen」は「アプリオリ a priori 先天的」と同義で、「感覚器官や経験とはかかわらないもの」だから「純粋」である。カントの「純粋な理性 die reinen Vernunft 」を受け継いでいる。私たちの「意識そのもの」あるいは、「カテゴリーの場としての意識」

※3
簡潔だが、信仰の本質を的確に捉えている。

信仰と知 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ULrTn3

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/EW7ZMR

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十一節[理性としての道徳律]

2022年12月30日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十一節[理性としての道徳律]

Dritter Abschnitt. Religionslehre.

§71

Das moralische Gesetz  in uns ist das ewige Vernunftgesetz, (※1)das wir unwiderstehlich achten müssen und durch das wir uns un­auflöslich gebunden fühlen. Wir sehen aber eben so unmittelbar die Unangemessenheit unserer Individualität zu demselben ein, erkennen es als Höheres, als wir, als ein von uns unabhängiges, selbstständiges, absolutes Wesen.

 

第三章  宗教論

第七十一節[理性としての道徳律]

我々の中にある道徳律は、永遠の理性法則 であり、抗し難く我々が畏敬しなければならないものである。また我々はそれに固く結び付けられていると感じている。しかし、同時に我々の個性はそれ自体と直接に一致しないことも 我々は認めている。それは我々よりも高く、我々からは独立し自立する絶対的な存在(本質)であることを知っている。

 

※1
Das moralische Gesetz in uns ist das ewige Vernunftgesetz.
「我々の中にある道徳律は、永遠の理性法則である。」

ここでも明らかなように、ヘーゲルの理性概念は、宗教的な道徳律と関係している。というよりも、キリスト教の道徳律は理性概念そのものであり、我々から独立して客観的に存在する崇高な絶対的本質として捉えられている。性悪な人間の個性はそれに一致しえない。

 
 
 
 
 
 
 
 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第五十、第五十一、第五十二節[家族について]

2022年05月30日 | 宗教一般

§50

Diese Gesinnung besteht näher darin, dass jedes Glied der Fami­lie seine Wesen nicht in seiner eigenen Person hat, sondern dass nur das Ganze der Familie ihre Persönlichkeit ausmacht.

第五十節

この(家族愛の)心情は、さらに詳しくいうと、家族の成員は自分たちの本質を、自分たちに固有の人格のうちにもつものではなく、むしろ、彼らの人格性を造り上げるのは、ただ家族の全体のみであるということに基づいている。

§51

Die Verbindung von Personen zweierlei Geschlechts, welche Ehe ist, ist wesentlich weder bloß natürliche, tierische Vereinigung, noch bloßer Zivilvertrag, sondern eine moralische Vereinigung der Gesinnung in gegenseitiger Liebe und Zutrauen, die sie zu Einer Person macht.

第五十一節

婚姻という男女両性の人格の結びつきは、本質的には単なる自然的な、動物的な一体化でもなければ、また市民的な契約 でもなくて、むしろ相互の愛と信頼による心情の一つの道徳的な一体化であり、それらは一個の人格をつくるものである。(※1)

§52

Die Pflicht der Eltern gegen die Kinder  ist: für ihre Erhaltung und Erziehung zu sorgen; die der Kinder, zu gehorchen, bis sie selbstständig werden, und sie ihr ganzes Leben zu ehren; die der Geschwister überhaupt, nach Liebe und vorzüglicher Billig­keit gegen einander zu handeln.

第五十二節

子供たちに対する親の義務  は、子供たちの 養育 教育 に気を配ることである。子供らの義務 は 自分たちが独り立ちできるようになるまで、親に服従することであり、そしてまた両親をその全生涯にわたって尊敬することである。兄弟姉妹の義務 は一般に、お互いどうしが、愛とすぐれた公正さをもって行為することである。(※2)

 

 

※1
市民社会の段階で分裂した家族は、次の「国家」の段階において、ふたたび相互の愛と信頼による家族的な心情の道徳的な一体化が回復される。

※2
第五十二節において家族への義務の記述を終えて、つぎに「Ⅲ 国家への義務」へと進むが、ヘーゲルの「法の哲学」の体系から言えば、「家族」と「国家」の間には「市民社会」が存在するから、「市民社会に対する義務」が述べられなければならないはずである。しかし、その項目はかかげられてはいない。

ただ「市民社会に対する義務」についてはすでに実質的には「Ⅰ 自己に対する義務」の中において、「職業の義務」として論じられている。

 

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第五十節、第五十一節、第五十二節 [家族の義務] - 夕暮れのフクロウ https://cutt.ly/kJaz6ni

 

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歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン

2010年06月06日 | 宗教一般
 
歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン―――歴史の見方


部分的な真実と全体的な真実


歴史を見る場合でも同じことがいえると思う。真相を把握するためには、単に物事を部分的に見るばかりではなく、全体的に見なければならない。事物について思考し判断する場合と同様に、歴史についても部分を精察するとともに、全体を俯瞰し眺望する必要がある。

先に行われた第二次世界大戦の一環として日米の間で戦われた太平洋戦争についても同じことが言える。二〇世紀も中盤になって太平洋を挟んで日本とアメリカが対峙しあった太平洋戦争も、それを大きな歴史的なパースペクティブで捉えることは欠かせない。

アメリカ大陸の東海岸に―――彼らがその地を後にニューイングランドと名付けたように――上陸したピューリタンたちを端緒として、イギリスからの本格的な入植が始まった。やがて、それも産業革命にともないイギリス本国の産業の発展によって、当時のイギリスの植民地としてアメリカ大陸への入植はいっそう活発になった。入植者たちは新しい新天地と富を求めて、西へ西へと向かう西部開拓を押し進めてゆく。やがてカリフォルニアに金鉱が発見され、いわゆるゴールドラッシュによって、アメリカの西部開拓はさらに加速される。

しかしすべてに終末があるように、いわゆるWASPの後裔たちが、西へ西へと活路を求めていった西部開拓も、彼らがやがて北アメリカ大陸の西岸、カリフォルニアにたどり着いたとき、もはや大陸本土での新天地はなくなった。しかし、工業力の発展に伴って彼らが豊かに生み出すようになった商品や植民地での産物の販路を求めるためには、必然的に太平洋の大海原に乗り出さざるを得ない。北アメリカ大陸からは太平洋の大海原の向こうにあるユーラシア大陸の極東岸にも、遅かれ早かれ彼らもたどり着く。そこに日本は地理的に位置していた。

こうしたいわば歴史的な必然のもとに、ペリー提督が神奈川県沖の浦賀に到達したのである。このとき日本は、まだ江戸幕府300年の太平の眠りについていた。北アメリカ大陸においては、西部開拓の途上で、彼らに敵対していた先住民であるいわゆるインディアンたちは、すでにその牙もすっかり抜かれて、ほとんどの部族は消滅させられていた。彼らは土地を奪われ、狭い居留地に押し込められてゆき、多くのインディアンたちは、西洋人の持つ近代的な武器の前に殺されていった。

アメリカ合衆国人の立場からすれば、太平洋を乗り越えて極東で出逢うことになった日本人もまた、二〇世紀における新たなインディアンに他ならない。このことは、俳優の渡辺兼やトム・クルーズらが登場して、西洋人が彼らの視点から日本人を描いてひととき話題になった映画『ラストサムライ』を見ても明らかである。この映画と、アメリカ・インディアンの視点から合衆国軍との戦いを描いたケビン・コスナー監督主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の二つの映画の本質的な同質性からも見てとれるものである。アメリカ合衆国人から見れば、十九世紀のアメリカ・インディアンも二〇世紀に太平洋戦争を戦った私たち日本人も本質的に異なるものではない。
 
すでに日本人は相応の文化を保持していたから、もちろん、アメリカ・インディアンとは異なって、簡単には部族を消滅させられることはなかった。むしろ、黒船来航を機に、日本人は明治維新をやり遂げて強力な軍事力を持つ近代国家を確立して、欧米列強と互角に対峙し得るまでになった。とはいえ、すでに歴史に見るとうり、日本人もまたアメリカインディアンと同様に、最終的には原子力爆弾の投下によって力ずくで壊滅させられ、そして、アメリカ合衆国軍による日本の占領統治は現在にいたるまで事実上続いている。

歴史を大きなパースペクティブから見つめるとき、つまり世界史の視点で自己を客観視するとき、あるいはヨーロッパ人やアメリカ合衆国人の視点で日本と日本人を見つめるとき、アメリカ・インディアンも日本人もさしたる違いはないのである。日本人は二〇世紀のインディアンに過ぎない。これからの世界史を私たちが生き抜こうとするとき、こうした歴史の教訓と立場を自覚しておく必要があるだろう。
 
 
 
 
 
 
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反日と愛国

2010年03月13日 | 宗教一般

 

反日と愛国


在日の外国人に参政権を付与することに積極的な民主党が、昨夏以来に国会で多数を占めたところから、「外国人参政権付与問題」がとみに現実性を帯びるようになった。それに応じて、この問題をめぐっても賛成反対の議論がかまびすしくなってきている。

もちろん、言うまでもなく在日の外国人の人権がおろそかにされてよいわけではない。基本的な人権においては日本人と同じよう尊重されるべきであることも言うまでもない。外国人とは友好の関係にあるのが理想で、だから北朝鮮による拉致問題の対応などで朝鮮学校に通う生徒に嫌がらせなどをすることがあってはならないのも今さら言うまでもない。しかし、残念ながら日本人のすべてが聖人君子の紳士というわけにも行かない。そうした醜い行動をする日本人のいるのもたしかだ。これはしかし日本人だけではなく、現在の人類一般のモラル水準の現実がそういうものであるにすぎない。

外国人にも日本人と同じように参政権を与えるのというのが理想的であるのかもしれない。しかし、それは理想であって、人間一般の傾向を見ても、また私自身の心の内面を振り返って見ても、なかなか人間性悪説を捨てきれない立場からすれば、民主党の小沢一郎幹事長や赤松農水相などが最近になって韓国や民団などの会合で「外国人に参政権を付与する」ことを明言していることについて、拙速ではないかという懸念を捨てきれない。外国人に参政権を付与することについてもどうしても慎重な姿勢を崩せないのである。

在日の外国人がすべて善意の人間ばかりであれば、そもそも何の問題もないのである。しかし、現実がなかなかそうではないから問題なのである。外国人の中には敵意と憎悪に満ちた者もいる。それが問題なのである。

外国人のすべての者がもちろんそうであるわけではないが、中国人や在日朝鮮人たち、あるいは帰化日本人たちの中に、日本人や日本に対する憎悪や敵意に満ちた者もいる、それが事実だろう。

とくに中国人や朝鮮人で、何らかの事情で日本に帰化したものの、彼らがすべて日本人や日本国に好意的であるとは限らない。むしろ、彼らの中に反日の敵意と憎悪に満ちた者がいる。彼らは、帰化して国籍を取得することによって、国籍は一応は「日本人」であるのに、日本に対する本当の愛国心を持たない。それどころか、彼らの内心は、日本に対する敵意と憎悪に満ちている。

それでいながら、国籍上はまぎれもなく彼らは「日本人」であるし、また、日本語しか話すことができず、また容貌上も普通の日本人とまったく区別が付かない。だからこそ、まったくの困り者なのである。このような偽日本人が「日本」や「日本人」についての憎悪に満ちた偏見や悪意を、時に触れ折に触れヨーロッパやアメリカなどにまき散らす。彼らの「日本人像」や「日本像」ほど、世界において日本に対する諸外国の誤解や偏見の種になるものはなく、まったくに始末に困るものである。

とくに、もともと本当に日本を愛することもない悪意に満ちたもと在日朝鮮人などの帰化「日本人」が、日本人面したジャーナリストなどになって、従軍慰安婦問題や南京事件などめぐって、諸外国の日本に対する偏見を助長するような記事を書いて、悪魔的な歓びに浸るということもある。

外国人参政権の問題についても、日本在住の外国人がすべて日本に対する善意の保持者であれば問題はない。もちろん、私たちは外国人に対して愛を特別に要求することはできない。普通の常識的な好意を示してくれるだけで感謝し満足すべきであるだろう。しかし、一方で理由もなく日本や日本人に敵意と憎悪を示す外国人や国籍だけが「日本人」という者もいる。これが現実である。だから、日本自身が祖国防衛の観点から、外国人に対する参政権付与の問題について慎重であるのも当然である。外国人の基本的な人権問題との関係においても、あらゆる角度からその利害得失について検討を加え、拙速を招かないようにすべきである。

また、GHQの占領政策が功を奏したのか、敗戦のトラウマか、反日日本人も少なくない。日本人でありながら自国の文化にいちじるしい劣等感と拒絶反応を示し、その一方で盲目的に欧米文化を崇拝して、欧米人たちの傲慢な優越感情に悪のりし、父祖伝来の日本の伝統文化や生活様式を悪し様に罵る。また、自虐的なほどに日本の弱点欠点を外国に向けて吹聴して、欧米人に媚びを売る。

結局は愛の問題だと思う。どれだけ本当に日本を愛しているか、それが判断の基準である。外国人であっても、また帰化日本人であっても、そこら辺の戦後の「植民地日本人」以上に深く偽りなく心の底から日本と日本人を愛している者もいる。彼らはみな日本の友人である。聖書のルツ記にもあるように、たとえ異民族出身の女性であっても義母を愛したルツは、やがてユダ族に嫁いでダビデ王の曾祖母になった。かってみずからが外国の寄留者であったモーゼは、寄留者、外国人を虐げてはならないと命じた。(ルツ記、出エジプト記第23章など)

その言動の根本に日本への誠実な愛を欠くとすれば、それは単にやかましい銅鑼の音や太鼓の音と変わらない。たとい全財産を日本のために施そうと、それは空しい。また、たといわが身を神風特攻隊員のように祖国のために死に渡そうとも、そこに真実の愛がなければ、単なる虚しい物語にすぎない。

 

 

 

 

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