海と空

天は高く、海は深し

ヘーゲル『哲学入門』中級 第一段 意識一般  第十二節[感覚から知覚へ]

2023年06月08日 | Myenzklo

ヘーゲル『哲学入門』中級 第一段 意識一般  第十二節[感覚から知覚へ]

§12

Sowohl dieses  Jetzt  als dieses  Hier  ist ein Verschwindendes. Jetzt ist nicht mehr, indem es ist und ein anderes Jetzt ist an seine Stelle getreten, das aber eben so unmittelbar verschwun­den ist. Zugleich bleibt aber Jetzt. Dies bleibende Jetzt ist das  allgemeine,  das  sowohl  dieses als jenes Jetzt ist, als auch  keines  von ihnen ist. — Dieses Hier, das ich meine und aufzeige, hat ein Rechts und Links, ein Oben und Unten, ein Hinten und Vorne ins Unendliche, d. i. das aufgezeigte Hier ist nicht ein einfaches also bestimmtes Hier, sondern ein Inbegriff (※1)von Vie­lem. Was also in Wahrheit vorhanden, ist nicht die abstrakte sinnliche Bestimmtheit, sondern das Allgemeine.(※2)

 

第十二節[感覚から知覚へ]

この「」も、この「ここ」と同じように、ともに消え去るものである。「今」は、他の「今」にその場所を取って代わられもはやなく、しかし、その今もまったく同じようにすぐに消え失せてしまう。しかし同時に「今」は残っている。この残された「今」は、この「今」 でもあれば、あの「今」でもあって、また同じく、それらのいずれでもない普遍的な「今」である。私が思って指し示すところの、この「ここ」は右や左にもあり、上にもあれば下にもあり、後ろにもあれば前にも限りなくある。つまり、指し示された「ここ」は単純に指定された「ここ」ではなくて、むしろ、多くのものを総括した「ここ」である。したがって、真に存在するのは、抽象的で感覚的な確実性ではなくて、普遍的なものである。

 


※1
ein In~begriff 総括、師表、真髄
der Begriff (名詞) 概念、観念、知覚、受胎
begreifen  (動詞)把握する、理解する、思いつく

※2
ここでヘーゲルはとくに指摘してはいないけれども、「私」が感覚的な意識によって、「今」「ここ」「これ」を指し示すときには、「今」「ここ」「これ」という「言葉(記号)」を使って指し示すしかないのであり、「言葉(記号)」を用いて、感覚的な意識の対象を指示するときには、すでに同じく普遍的なものを指示することになる。「言葉」は普遍的なものしか言い表せないからである。

この段階で「感覚的な意識」から、言語をもって対象を把握する「知覚的な意識」へと移行するが、こうした概念の移行の把握をヘーゲルは「概念的把握」といい、その移行をより高い「真(Wahrheit)」として捉える。

 

ヘーゲル『哲学入門』中級 第一段 意識一般  第十二節[感覚から知覚へ] - 夕暮れのフクロウ https://cutt.ly/qweYFozn

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月19日(水)のTW:#現実性、#本質、#根拠、#物事、#定在、#可能性、#結果

2014年02月20日 | Myenzklo

現われ、そこで自分の諸々の力を休息させる。と同時にまた、発動する諸々の力や互いに対立的に働く力の〔二つの力各々の間の、また両面の力の間の〕対立という形、あるいは表面上の活動〔たわむれ〕という形でも現われる。こうして本質は現実性〔力の働き、または結果Wirkungとして生じたもの〕


(Wirklichkeit)になる。※ここでは本質と現実性の関係が的確に述べられている。本質は自分自身を発動させるものとして根拠であり、この根拠によって物事となる。(定在)その意味で、本質としての定在は内在的なものである。ここでは、本質、根拠、定在は同一物である。これが本来の結果


すなわち現実性ということである。ヘーゲル哲学においては、単なる偶然性の集積にすぎない世界を現実性としてはとらえない。こうして本質から根拠、さらに現実性へと論理が進展する。とにかくヘーゲルの読解においては、この論理の進展を自覚的に追求し、確認しながら読んでゆくことが大切である。


(Ⅲ)現実性
§48
現実性は自立的な相関関係である。現実性は現象の契機、すなわち自分自身に対する相関関係であるところの定在の契機と、その定在の即自有または本質であるという意味の可能性の契機とをもつ。現実的なものそのものは、可能性と定在との統一であある。 (ibid s 274)


※ここで現実性の概念の論理的な契機(要素Moment))を検討している。現象の集積の中に現実性があるのであり、その現実性は、現象を構成する様々な相関関係にある定在と、その定在に内在する本質として可能性との統一としてとらえられている。だから、現象においては、まだ即自にある本質が


可能性としてとどまっていて、現実性にはなっていない。
(1)実体
§49
現実的なものは実体(Substanz)である。従って現実的なものは本質である。もっともこの本質は自分の定在の諸規定を単純な属性(Attribute)として、また法則として自分の中にもつとともに、


またそれらの諸規定の定在の側での戯れ〔遊び〕(daseiendes Spiel)または自分の偶有性(Accidenzen)として定立するような本質である。だから偶有性の止揚は実体の消失ではなくて、実体の自分自身に帰ることである。※ 現実性から実体への論理の進展。本質の概念が、


属性(Attribute)や法則として具体化されてゆく。しかし、その一方で、それらは様々な偶然性の戯れのなかにある。この偶有性のなかにある定在がどのように止揚されて、自己の本質へと戻ってゆくのか。その論理はどのように説明されているのか。
>>
§50
実体は偶有性の必然性である。


偶有性は自由な定在の形をとるものであるが、そこに他のものに対する本質的な関係をもっている。ただその関係は、そこでは内的な、隠れた関係として即自的(潜在的)にあるにすぎない。そのために、偶有性は外的偶然性と外的な力に支配されていて、自立性を失っているようにも見える。


けれども、真実はこのことはむしろ全体の回復にほかならない。すなわち、全体は偶有性の中で分離されているのを再び自分の中に取り戻すのである。※ここで明らかなように、実体(Substanz)が諸々の偶有性の必然性として説明されていることである。偶有性は外的偶然性と外的な力に


支配されている。そこから自立性を回復することは、自分を取り戻すこととされ、それが必然性である。偶然性の戯れの中から必然性が生まれ、それが実体とされるとき、その実体は原因として認識される。>>
(2)原因
実体が必然性という形で現われると、実体は因果性(Kausarität)


の関係をとる。自由に作用する(wirken)絶対的原因は、活動を自分の中で始めるところの「動かすもの」(das Bewegende)としての実体であるばかりでなく、全内容までも自分の中にもつものである。つまり、実体は全内容を産出するのであって、そこで内容は結果として


定在を持つことになる。※絶対的原因としての実体は、宗教的には神のことである。こうしてヘーゲルは「神」を論理的に、「科学的」に認識してゆく。彼の哲学が形而上学でもあるゆえんである。>>
§52
それ故にこの活動性は、活動性と結果として作り出されたもの(das Bewirkte)との


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月18日(火)のTW:#本質、#発現、#定在、#内的、#外的、#相関関係、#対立、#統一

2014年02月19日 | Myenzklo

質料、力が内在するための質料をもはや条件にもたない〔必要とはしない〕が 、しかしそれでも力を誘発する活動性(die sollizierende Tätigkeit)必要である。(ibid s 272 )


§45
この誘発する活動性はそれ自身力である。従って力は誘発されるように、誘発されなければならない。それで二つの活動性相互の関係は、二つの規定のこのような相互的な交換(dies wechselseitige Äustauschen)であるから、各々は他者の活動性または


発現(die Äusserung)の根拠である。こうして根拠の概念は、自分自身の活動性とこの活動性を発動させる他の活動性との根拠であるような根拠であることになった。
(3)内的なものと外的なもの
§46
本質は自分自身を発動させる活動性であるという意味で、本質は定在の根拠である。


だから、本質の定在の中には何ら外来のものはない。すなわち根拠自身によって定立されないような何ものもない。従って本質と本質の定在は同じものである。前者は内的なもの(Inneres)として、外的なもの(Aeusseres)としての自分に関係する。すなわち、外的なものは内的なものの


表示に他ならない。
§47
根拠はこのような相関関係(das Verhältnis)として、無制約のもの(das Unbedingte)であり、内的なものである。また静止的な自分自身との同等性としての質料と、対立の統一としての形式の統一である。根拠はその定在の中に質料という形で


 
 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月17日(月)のつぶやき

2014年02月18日 | Myenzklo

§44
力は自分の定在、すなわち規定された質を自分で定立するものである。定在がまた他者に対する有または外面性であるという面から見れば、力は同時にこのような定在からは自由であって、この力の現象が消失するからといって無くなるものではない。この面から言えば、力は力の内容であるところの


宮沢俊義による憲法の「8月革命説」。実にこの言葉は同情を誘う。つまりこれは帝国憲法の改正理由が具体的にわからない学者のデスペレートな叫び声。丸山真男もその典型。その理由が「日本の弱体化」しか思い浮かばない怠惰な学者と変わらないレベル。

reviewさんがリツイート | RT

内閣法制局云々。薬はあるけど服用禁止という論理。薬が必要な時に服用できない薬は「無い」と同じこと。彼らに集団的自衛権の国際的解釈などわからなかったのは当然のこと。小学生にも劣る法匪たち。

reviewさんがリツイート | RT

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月15日(土)のTW:#全体、#部分、#根拠、#本質、#定在

2014年02月16日 | Myenzklo

C 根拠と根拠づけられたもの(Grund und Begründetes)
(1)  全体と部分
§ 42
定在がないと本質そのものもないが、しかし本質はやはり定在の根拠である。ところで、この本質〔の定在における形態〕は全体と部分


(Ganzen und Teile)である。全体は部分を定立するものであるが、しかし、また逆に部分からなっている。両面は同じ一つのものである。全体は部分の綜合、すなわち全体であるという意味での部分に等しく、また部分に分けられたもの(Gteiltes)としての、すなわち


部分としての全体に等しい。言い換えると、両面は相互に無頓着なものでもあるが、また〔他面から言えば〕形式としての全体の活動性は質料を制約〔条件〕にもつ。
(2)力とその発展
§43
しかし、部分はただ全体によって定立されたものだという意味でのみ部分である。それで、これらの部分または


部分の関係は、根拠の統一による規定性である。言い換えると、定在の質は形式としての根拠の活動性によって定立される。だから、現象の質料は根拠自身の内容である。従って根拠は自分を発現する力(Kraft)である。【入門 s 272 】


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月10日(月)のTW:#米国、#占領、#歴史

2014年02月11日 | Myenzklo

モバイルの世界。産経新聞「KDDIが19年に「100年分のメールを保存できる」として始めたサービス「au oneメール」が昨年、わずか6年でサービス終了した」
和紙と墨が信頼に足る。

reviewさんがリツイート | RT

小堀桂一郎氏「米軍の占領期に我々は自国の歴史を旧敵国の手に奪はれるといふ事態に陥つた」
ならば米国がなぜ何を以て我が国の歴史を奪おうとしたのか研究すべきだろう。もしそれが「日本人の弱体化」というならそれは思考停止そのものである。
sankei.jp.msn.com/life/news/1402…

reviewさんがリツイート | RT

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月3日(月)のTW:#哲学、#思考、#橡川一朗、#牧野紀之

2014年02月04日 | Myenzklo

「「書評へのご返信」の御礼」書評へのご返信、拝読させていただきました。

「真の愛国心」と「民主主義」の我が国に行き渡るべく、橡川先生が長年にわたる学問のご研鑽に打ち込まれられたこと、僭越な... goo.gl/Mm9vub


[exblog] 「書評へのご返信」の御礼 bit.ly/LqgNc0


哲学という名前はイギリス人の間では一般に今もってこういう規定を持っており、ニュートンは最大の哲学者という名誉を担っている。下の方に下って製造業者たちの価格表の中を見てみると、磁気装置や電気器具といった特殊な標題の下にまとめられないような道具、


たとえば温度計とか気圧計とかいったものが、哲学の道具と呼ばれているのである。哲学の道具と呼ばれてよいものはもちろんただ、思考だけであって、木や鉄などを組み合わせて作ったものが哲学の道具などではありえないのである。(牧野紀之訳『小論理学上』s 84)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月31日(金)のつぶやき

2014年02月01日 | Myenzklo
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月25日(土)のつぶやき

2014年01月26日 | Myenzklo

第ニ篇  哲学的エンチクロペディー

緒論

エンチクロペディーはもの諸学の全範囲に互って、おのおのの各々の学問の対象とその対象の根本概念とを考察するものである。

一般的対象についての経験の多様が綜合されて、一般的諸表象の統一になったものと、対象の本質の考察から作り出された


諸々の思想とが結合して、ある特殊の学問が生ずる。
§3
経験的素材がこの結合の根拠となる場合には、経験的素材の結合は単なる、綜合的一般性に過ぎないから、その学問はどちらかと言うと記録的な性質(historische Art)をおびる。ところが、普遍的なものが根本規定と


概念の形式で先行し、七特殊的なものがその普遍的なものから導き出されることになると、その学問は本当の意味で学問的性質(Wissenshaftliche Art)をもつことになる。

§四
それぞれの学問の特殊性を構成する諸々の認識の分野には絶対的な限界というものはない。


なぜなら、各々の一般的または具体的な対象はその種または部分に分けられることができ、その種がそれぞれ特殊な学問の対象として考察されるものだからである。
§五
普通のエンチクロペディーでは、現存の諸学がありのままに経験的に取り上げられる。いろいろの学問がその中に網羅されるべきである。


さらにまた類似のものや共通の規定の点で一致するものは、それぞれ類縁に従って括って、秩序づけることが必要である。
§六
けれども。哲学的エンチクロペディーは、概念によって規定された必然的な関連を問題にする学問であり、諸学の根本概念と原則の哲学的由来について論ずる学問である。


§七
哲学的エンチクロペディーは元来、哲学の一般的内容の叙述である。というのは、諸々の学問にあっては理性に基づくものは哲学に依存するものだからである。これに反して任意な、外的な諸規定を問題とするような学問、言い換えるといわゆる実証的な、あるいは制定的な学問や単なる経験的な学問は


哲学の圏外にある。※ここで、ヘーゲルは「制定的な」という言い回しで彼が何を言わんとしてるかと言うならば、要するに哲学的認識というのは概念から演繹的に論じられなければならないということを言おうとしている。ただ問題は事柄を演繹的に論じる方法と能力を獲得することである。それが科学だ。


§8
諸々の学問はその認識方法から言えば経験的であるか、純粋に合理的であるかである。しかし、絶対的に見れば、両者は同一の内容を持つべきものである。単に経験的に知られたものを止揚して真なるものに、すなわち概念にすること、それを合理化し、それによってそれを合理的な学問に合一すること、


これが学問的努力の目標である。 ※ここでヘーゲルは「概念にすること」と言ってるけれども、こうした言い換えの箇所は、彼が「概念」という用語にどのような意味合いを持たせているのか、ということを理解する上で参考になる。要するに「純粋に合理的に」認識することが概念的認識ということである。


§九
諸々の学問は一方では経験的な面で、また一方では合理的な面で広がって行く。ところが、後者は、本質的なものをますます取り入れ、それを普遍的観点の下でみて、単なる経験的なものを概念とすることである。したがって、諸学の合理的拡張同時に哲学そのものの拡張ではある。


※ここでも実証的科学と哲学との違いが述べられている。形式的な面から言うならば、実証的科学が相当と対象を広げるのに対して、哲学は内へその対象を広げていくものだということが言える。つまり、前者は量的広がりであり、後者は質的な深まりを示すものである。(こうしたコメント


を加えていくことによって確かに哲学的修練の役に立つように思われる。 )
§十
学(哲学的学問)の全体は三大部門に分かれる。(1)論理学(Logik)。(2)自然の学(Wissenshaft des Natur)。(3)精神の学(Wissenshaft des Geistes)。


※以前に、この日本語の「学」、ヘーゲルのいわゆる「Wissenschaft」をどのように訳すべきか、を論じたことがある。この「Wissenschaft」「wissenschaftlich」こそへーゲル哲学の根本的特性を示す概念であるということである。概念からの演繹的展開こそが、


へーゲル哲学の方法、科学することそのものである。晩年のマルクスも資本論の研究においてこの方法によって、つまり資本の概念を演繹的に展開てゆくことによって、その概念を明らかにしようとした。真に科学を目指すものは、まず、この「Wissenschaft」の方法論を修得しなければならない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月17日(金)のTW:#新渡戸稲造、#吉野作造、#キリスト教、#神道、#佐藤雉鳴、#国典

2014年01月18日 | Myenzklo

先日にツィートでたまたま【焼野のきぎす @kuzukazura】というツィートを読んでいた時、このツイッター主が「「みことのり」を読む」というサイトをもっていて、そこで明らかにされている憲法論や戦後民主主義観が私に近いように思った。また、そこで展開されている国家研究や


明治憲法研究などの論考も非常に優れていると思った。私自身はこれまでの経緯から、ヘーゲルの「法の哲学」の立場を支持しているけれども、またそこから、現行日本国憲法よりも大日本帝国憲法の優越性を、実定憲法に対する自然憲法の優越性と認めているが、この私の憲法観と佐藤雉鳴氏のそれと一致する


点は多いように観じた。サイト「「みことのり」を読む」で展開されている論考にも優れたものが多く、これからも学んでゆこうと思っている。もちろん、私の立場はこれまでの経緯から言っても、哲学の観点から、とくに、ヘーゲル哲学の研究の一環としての憲法研究、国家学と自然法の研究を目的として


いるので、もちろん「「みことのり」を読む」での憲法観や歴史認識がすべて一致するとは思わない。たといそうであるとしても、私の知る限りにおいては、私の憲法観、国家観にもっとも近い立場であることは推察できる。昭和初期から敗戦に至る国家主義国体論が、従来の伝統的な正統な、


井上毅や伊藤博文によって継承され、大日本帝国憲法として結実した国家観からの逸脱として捉える立場もほぼ同じである。また、論考を瞥見しただけで本格的な検証はまだ行なってはいないにしても、そこに示されている、例えば丸山真男の思想に対する評価なども、殆ど同意できるものである。


これからも、このツィートで、ヘーゲルの各種の文献の抜粋と並行して、この佐藤雉鳴氏のサイト『「みことのり」を読む』からも必要な抜粋をツィートしながら、勉強して行きたいと考えている。とくに、この立場からは全体主義や共産主義は両立しないものと思われる。ここにこれからも国家論や憲法論を


確立して行く上で、多くのものを学びうることが期待できる。とくに過去の経緯からも、西洋哲学に極めて偏ったまま、日本の皇室や民族宗教でもある神道や国学関連の知識や認識が貧弱で不足している現状を、改善してゆく上で大きな意義をもつだろうと思っている。


「政治に対する宗教の使命」では「立憲政治の美果は国民の宗教心の発露によりて結ばるるもの」だが、「余の云ふ宗教が基督教」を指すものであり、「断じて神道や仏教が主張する処の能力を政治の上に貢献するものとは思はない」と(吉野作造は)語っている。1 ※異聞草紙:新渡戸稲造の項


吉野作造の国典について述べた価値ある論文は見当たらない。国典理解が十分でないからこんな乱暴な言葉が出てくるのではないか。

新渡戸稲造が「尊ぶべき伝統の宝庫として、また太古の伝説の最高の解釈者として、神道は保守主義の砦である」と語ったことと比較すれば、 2


同じ基督者でもずい分ちがうものだと思わざるを得ない。吉野作造には井上毅のような天皇統治を正確に語った論文も見当たらない。

興味があるのは我が国基督者の国典理解である。そんな研究をしている人はいるのだろうか。 ibid


 
 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月16日(木)のTW:#本居宣長、#井上毅、#帝国憲法、#国体論、#皇国、#キリスト者

2014年01月17日 | Myenzklo

「本居宣長の発見した我が国の道は、井上毅を通して帝国憲法に表現されている。それを蹂躙したのが矢内原忠雄のいう昭和戦前の国体論である。矢内原はこのからくりを、本居宣長を中心としてどう説明できるだろう。」佐藤雉鳴:皇国の基督者 p.tl/injT


・・・・迷路に入り込むだけではないか。本居宣長から井上毅、そして帝国憲法を理解せず、昭和戦前の憲法蹂躙という深刻な事態を分析もせず、「日本精神への反省」を語って自家撞着に陥っている。」佐藤雉鳴:皇国の基督者 p.tl/injT


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月11日(土)のつぶやき

2014年01月12日 | Myenzklo

『入門』2014年平成26年1月11日(土)晴
§2我々の認識の第一の源泉は経験である。一般に経験にとって必須なことは、我々が或るものを自身で知覚したということである。しかし、知覚と経験とはまた区別されなければならない。まず第一に知覚は、今は偶然にこういう状態にあるが、(S23)


他の場合には異なった状態にあり得るところのただ一つの対象をもっている。ところが私が知覚を繰返し、その繰り返した知覚の中に、これらのすべての知覚の中で同じにあるところのものを認め、それをはっきりとつかむとき、これは一つの経験である。経験はまたいろいろの法則をもつ。


それはすなわち、一方が存在する時には何時でもまた他方が継起するというような二つの現象の結合を意味する。しかし、経験はただこういう現象の一般性を表わすにとどまり、関連の必然性は示さない。経験はただ、或るものがこうあること、またそれがどんな風にして起るか、またどんな形で存在しているか


ということを教えはするが、しかしまだ根拠(Gründe)または何故に(Warum)ということを教えない。そこで、例えば過去というような、我々がそれについて自分で経験することのできない非慈雨に多くの対象があるから、我々は他人の権威(Autorität)に


頼らなければならないことにもなる。我々が他人の権威に基づいて本当だと考えるような対象もまた経験対象である。我々は真らしい(wahrsheinlich)ところのものを他人の権威に基づいて信じる。我々は事実真らしくないものを、しばしば真らしいものと考える。しかし、


まさに真らしくないもの(das Unwahrsheinliche)こそが、しばしば、真なるもの(das Wahre)である。――とくに或る出来事は、我々がそれらについて自分で経験したいろいろの事情の帰結から、またそれらの事情の多様の関を通して証明される。だから、(S 24)


何かを物語る人々は信ずるに足るだけのもの(Glaubewürdigkeit)をもたなければならない。すなわち、事柄(Sache)についての知識をもち得るような事情にあったことが必要である。我々はその人の調子から、彼らの誠実さ、すなわち彼ら真面目なのか、それとも何かそれに


利害関係をもつのかを推定することができる。著作家が或る暴君の統治の下で執筆し、暴君に賛辞を呈するときには我々はこれがヘツライであることを知る。誰かがその中に自分を織り込んだ何事かを物語るのを聞くときは、我々はもとより彼が自分の利益のために物語っていることを知るだろう。


しかし、誰かが敵の良い性質とか行為を非常にほめている場合には、我々は言われたことをむしろ信ずるにちがいない。(S 24)


経験はそれ故に諸々の対象が如何なる状態にあるかと言うことだけを教えて、それらが如何にあらねばならないかということも、如何にあるべきかということも教えはしない。後者の認識はただ事物の本質または概念からのみ生じる。だが、この認識のみが真実なものである。我々は概念からして


対象の諸々の根拠を認識するのだから、法律的、道徳的、宗教的諸規定についても、概念を認識しなければならない。(S 25  )


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月7日(火)のつぶやき

2014年01月08日 | Myenzklo

経験的な世界を思考するとは、本質的にその経験的形式を改めて、それを一つの普遍的なものに変えることを意味する。思考は同時にかの基礎に否定的な働きをなし、知覚された素材は、普遍によって規定される場合、最初の経験的型態にとどまっていない。殻が取り除かれ否定されて、知覚されたものの


中身が明らかにされるのである。神の存在の形而上学的な証明が、世界から神への精神の上昇の不完全な解釈であり記述である理由は、それがこの上昇のうちに含まれている否定のモメントを明白に述べていないからである。もし世界が偶然的なものであるとすれば、それは当然に無常なものであり、


現象であり、それ自身空無なものにすぎない。精神が神にまで上昇して行くということは、絶対の真理は現象の彼方、神のうちにのみあり、神のみが真の存在であることを意味する。この上昇は移行であり、媒介ではあるが、神を媒介するように見える世界はむしろ空しいものとされるのであるから、


それは同時に移行および媒介の揚棄でもある。世界の存在の空しさのみが我々を神へと引き上げる綱であり、したがって媒介者として存在していたものは消失して、媒介そのもののうちで媒介は揚棄されているのである。【小論理学§50(S192 )】


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月6日(月)のつぶやき

2014年01月07日 | Myenzklo

その現存在がその概念と異なっているということが、しかもただこのことのみが、実際にあらゆる有限なものの本質なのである。これに反して神は明らかに「存在するものとしてのみ考えられるもの」でなければならず、神においては概念が存在をそのもののうちに含んでいる。小論理学§51


概念と存在との統一こそ、神の概念を構成する。――このような規定はもちろんまだ神の形式的な規定にすぎず、したがって概念そのものの本性を言い表しているにすぎない。しかし、概念が、まったく抽象的な意味においてもすでに、その内に存在を含んでいるということは極めて明らかである。a


なぜなら、概念は、その他どう規定されるにせよ、少なくとも媒介の揚棄によって生じるところの、したがってそれ自身直接的な、自己関係であるが、存在とはまさにこうした自己関係であるからである。――精神のもっとも内奥のものである概念が、存在というような貧しい規定、否、もっとも貧しい、 b


もっとも抽象的な規定すらその内に含まないほど貧しいとしたら、それは全く不思議と言わなければならない。(このことは自我についても言えるし、まして神のような具体的な統体についてはなおさら言えることである。)思想にとっては、内容から言えば、存在という概念ほど貧弱なものはない。 c


もっとも、もっと貧しいものがあるにはある。それは、存在と言うときまず思いうかべられるもの、すなわち私の目の前にある紙のような外的な感覚的存在である。しかし、有限で消滅しうる事物の感覚的存在というようなものを、この場合問題にしようという人はあるまい。(ibid s 197 )


―――とにかく、思想と存在とは別なものだというようなつまらぬ批判は、人間の精神が神の思想から出発して神が存在するという確信に到達する道を妨げることはできるかもしれないが、それを奪い去ることはできないのである。直接知あるいは信仰の見地は、a


この移行、すなわち神の思考とその存在との不可分を回復したものであるが、それについては後に述べることにする。b
(ibid s 197 )


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月21日(土)のつぶやき

2013年12月22日 | Myenzklo

第三点であるが、これを認識させるものとしては、ヘーゲルの書いたもののうち、ひとり政論あるのみなのである。(s 361)※解説者の金子武蔵氏はいうが、これはあまりにも早とちりの断言だろう。今手許に無く確かめようがないが、小論理学のどこかでヘーゲル自身が、c


真理を目的とする「論理学」はもっとも「役に立つものでもある」と述べていた個所があったと思う。理性は功利主義と両立することに確信を持っていた。もちろん、ヘーゲルにとっては真理が唯一であって、「功利」は付録であり、非本質的な論理的帰結に過ぎない。絶対的な目的はあくまでも真理である。c


国家にとっては必ずしも必要ではない社会的な結合とは、『法哲学』における市民社会のことであり、これには自治が許されるが、これと政治国家との媒介機関を担うものが議会である。郷国がヴェルテンベルグであった関係上、さらにはイギリスに深い関心を抱いていたために、議会制度が近代国家にとってa


不可欠のものであることを、ヘーゲルは十二分に認識していた。しかしそれだけに選挙法が彼を苦しめる問題になり、これは政論四において一応の解決に到達することになる。これによると年齢や税額によって選挙資格を決めるフランス的方法は地方団体や職業団体の役員選挙の場合に用い、これに対して国会の


場合には、被選挙権をも、選挙権をも、これら団体の役員に与うべしというのであるが、ヘーゲルの推奨するこの団体主義にも、地方団体と職業団体との関係をどうするか、それぞれの団体にどれだけの議席を与うべきかなど様々な問題があるだろうが、この点については十分な反省を欠いている。(s361)


ただ彼が議会に託した使命のうちで注意すべきは、それをもって平和的な漸進的な改革の場としているということである。政論の四は、民会側で作成した憲法草案には、この草案によって変更されていない公国の法律はすべて効力を保有する旨の但し書きが付加せられているのに関連して、この但し書きをもって


他愛もない気休めと評し、世界精神がすべての現行憲法に附するところの真実の但し書きは、およそいかなる憲法といえども絶対に確乎不動のものではなくして、議会によって持続的に平和裡に形成し直されて行くべきものであるということに存するとしている。(一七一頁)。ここにヘーゲルが決して


絶対主義者ではなく、議会の討論によって漸進的改革を行なわんとするものであり、そうすることによって実質的自由を次第に実現して行くことをもって常道とするものであったことがよく示されている。政論の五のとる態度もこの立場から解されるべきものである。フランスでは特権の盾となるような


ポジティーフなものが久しきにわたって放任されたため革命が勃発したが、イギリスにも同様なポジティーフなものが多くあるから、革命の混乱に陥らぬようにするために、選挙法のみならずその他の問題に関しても速やかに議会によって改革を開始すべきであるというのが彼の要求しているところなのである。


政論は人間の自由を、実質的自由を実現せんとするものであるが、しかし、実現は道義心によるというよりか、むしろ適切なる制度の設定によっている。だから個別的なるもの、個人的なるものを、むろん問題にしないわけではないにしても、その取上げ方はあくまでも普遍的なものの立場からなされている。


政論は実質的自由を普遍的利益として、公共的善として実現せんとするものであるといえる。だからアリストテレスのいわゆる""すなわち「大概の場合は」という立場がとられているのであって、自ずと個人の個別的な問題は残ることになるのだが、この問題の解決は宗教に譲られていると見るべきだろう。


チュビンゲン時代の『民族宗教』という手記では、宗教は政治――正確には、さらに歴史と芸術――と共に民族精神の契機をなし、両者は相互に含み含まれる密接な連関にあった。しかるに政論三以来両者は分離せられたが、これは近代国家の一つの基本指針に従ったことであると共に、


またヘーゲル自身も所属していた新教がただ個人的利害しか顧慮しない町人根性がおのれを「正当化」(上巻117頁)し絶対的承認を得んとするところに生じたものとして、根源的な「ドイツ的自由」と結託して国家的統一を破壊し、その後、統一は「外的な法的な紐帯」(上巻125頁)に求めるほか


なくなったことによっている。しかし、それだけに「外的な法的な紐帯」だけでは、自由に関しても益々個人の個別的な問題が残ることになるが、この問題の解決は人倫的なる心情と行為とを支える宗教に求められていると見るべきであろう。(ibid s 363 )


ヘーゲルの政論は、人間の自由を、実質的自由を実現せんとするものであって、ここに西欧的近代的性格がある。しかし、実現を適切な制度の設定に求めるところから、一方において το ως επί το πολύ の観点から、個々人の個別的なる問題をなおざりに附さざるをえない。


他方ではヘーゲルの目ざす自由をしてあくまでも社会(広義)における自由であるにとどまらせており、この点でもフランス革命の影響は決定的である。しかし、現実的自由には社会における自由のほかに、自然における、自然に対する自由があるが、しかし、この意味における自由を主題として


取上げられることは、ヘーゲルには、社会における自由を求める立場のしからしめることとして、殆ど見られない。これは、イデーの外化として自然を安易に定立する『エンチュクロペディー』の自然哲学がとる態度に応じるものである。自然に対する自由と正面から取組むところのないところに


産業革命のもつ意義に対して彼が盲目であったゆえんがあり、また彼のイギリス観の適切でない究極的原因もまたここに存するのである。(ibid s 364 )


※  το ως επί το πολύ  ト-ホース-エピ-ト-ポリュ 「大概の場合は」「かなりの程度まで」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする