海と空

天は高く、海は深し

悲しき教育現場

2007年09月25日 | 時事評論

悲しき教育現場

教師がいじめ認識? 生徒ら漏らす 神戸・高3自殺(神戸新聞) - goo ニュース

「下半身写真ネットに」神戸自殺生徒、遺書に記す(産経新聞) - goo ニュース

相変わらず、教育現場で「いじめ」はなくならないようだ。「石川や浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ。」で人間から悪の種は尽きることはない。それにしても、こうした事件は、防ぐことはできるし、自殺に至るまでに何とか手を打つ手立てはあったはずであると思う。とくに生徒の教育管理に直接当たる学校関係者の責任は重大である。

以前にもこうした問題についていくつか論じたが、その原因の大きな根本は、国家がその共同体としての性格を敗戦をきっかけに失ってしまったこと、それ以来、国家として、国民に対する倫理教育ついての配慮をほとんど行ってこなかったことにある。いまだ国家としての倫理の基準を確立できないでいるためである。

こうした問題について、いまさら「教育勅語」を復活させることができない以上、「民主主義」を倫理として確立する以外にないことは、これまでにも繰り返し語ってきた。しかし、いまなお、今日の教育関係者のほとんどにはそれを切実な問題意識としてもつものはいない。これでは、いつまでたっても教育現場にその根本的な治療改善は望むべくもない。しかし、長期的な取り組みとしてはそれ以外に改善方法はないのである。それを放置して、いつまでも問題の解決を遅らせ、多くの児童、生徒を悩ませ続けるか。

ただ、短期的な対策としては、不幸にもこうした事件が生じた時には、今回の生徒の遺族は、加害生徒、保護者、学校関係者に対して、法的な責任を民事的にも刑事的にも追求しうる限り、徹底的に追及してほしいと思う。

それは、今日の学校教育関係者の――校長や教頭などの現場教員のみならず、文部科学大臣、教育委員会などの教育公務員の無責任、無能力を改善してゆくためにも、必要な措置であると思う。ご遺族の方々は、悲しみを乗り越えてそうしてほしいと思う。

民主主義を倫理教育としての観点から教育するという問題意識を今日の教育者はほとんどももっていない。その研究も行われていない。今一度正しい民主主義教育を、その精神と方法の両面にわたって充実させていってほしい。そして、いじめの問題などは、クラス全体の問題として、民主主義の精神と方法によって解決してゆく能力を教師、生徒ともども向上させてゆくべきなのである。

クラス全体にそうした問題解決能力のないこと、失われていることを、今回の事件も証明している。しかし、教師、児童、生徒たちの倫理意識の低さは、やがて結局は、自分たち自身がその責めを負うことになる。

         「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ

                 民主主義の人間観と倫理観

          学校教育に民主主義を

 

 

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理想の恋愛、理想の結婚

2007年09月11日 | 時事評論
 

畠山被告が娘への殺意否認 秋田・連続児童殺害初公判(朝日新聞) - goo ニュース

理想の恋愛、理想の結婚

人間であれなんであれ動物にとって、子孫を残すというのはその存在の根本的な使命と考えてよいと思います。そして、人間にとっては、その使命は結婚において家族をつくることによって果たされます。

聖書にもありますように、人は結婚することによって、それまで育てられた両親に別れを告げて、新しい伴侶と家族を形成することになります。そして、新婚の伴侶とともに生活の多くの時間を共同で過ごすことになります。生まれも育ちも違うそれぞれの自我をもった二人の人間が、一つ屋根に生活することからさまざまな問題が起きざるを得ないということなのでしょう。

だから、やはり人間の幸福ということを考えるとき、その結婚生活が幸福なものであるかどうかは、その人の人生を大きく左右するといえます。結婚の失敗は人生の失敗と言ってもよいくらいです。

もちろん、「成功」がすべて幸福であるというような浅薄な幸福観は持ちませんし、キリスト教でも、「悲しむ人は幸いなり」といった自虐的とも思われかねない幸福観もありますから、現代の多くの女の子たちが願うような、絵に描いたようなマイホームの小さな幸せがすべてだとは思いません。しかしそれでも、幸せな結婚生活は、多くの人が願ってしかも、なかなか手に入れることのできないものなのでしょう。

久しぶりに、家族の問題に関係のあるいくつかのブログやサイトを覗いたりしましたが、やはり、さまざまな家族があり家庭があるものだという感想をあらためてもちます。時々テレビニュースなどでも、立派な家庭のその豪邸が画面に写されてながら、一方でその家庭内殺人事件などが報じられているのを見聞きすると、それぞれの家庭内の事情というのは、なかなか外見からは、分からないものだということにあらためて気づきます。

昔、瀬戸内海を行く船のデッキの上で、アンナ・カーレニナの文庫本を読んでいた記憶があります。その本はその以前から長く読み続けていて、ちょうど終局に差し掛かっていて、もう第7巻目ぐらいに入っていた頃だと思います。

すでに多くの人に取り上げられてはいますが、この本の冒頭に、「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」ということばがあったことをその時思い出したことを覚えています。瀬戸内の深緑の海と、背後に流れゆく松島の美しい景色とともに記憶に刻まれています。

幸福な家庭はみんな似たようなものだけれど、不幸な家庭にはいろんな形の不幸があるということなのでしょう。結婚生活の悲劇を描いてこれほど印象深い作品はすぐには思い当たりません。もちろん、家庭や恋愛の悲劇を描いた文学作品は無数にあります。小説などの文学作品は、むしろ、それらがテーマだと言ってもいくらいです。シェークスピアの「ハムレット」も、漱石の「こころ」も恋愛の悲劇を描いたものです。

実際、誰しもが理想の出会いを願い、理想の恋愛と理想の結婚を求めながらも、その多くは悲劇に、時には喜劇に終わってしまいます。それほど、男女の人間関係は難しいということなのでしょうか。

しかし、もちろん結婚生活や恋愛の失敗は決して侮ることはできません。それが人生の破綻につながることも多いからです。自分の拳銃で恋人を殺した警察官の事件もそうですし、数年か前に秋田で、自分の子供を殺すことになった女性も、つきつめれば最初の男性との結婚に失敗して離婚したことが、事件を犯すことになった最大の理由だと言うことがわかります。また、ついこの間も、仙台でスーパーで働いていた女性が、後輩の女性に好きな男性との結婚を横槍され妨害されたことを恨んで、おそらく彼女自身も想像することすらなかったに違いない事件を起こしています。

               秋田連続児童殺害事件

ネット上でも、結婚の問題がどのように取り扱われているのかちょと調べてみても、そこにはいろんな夫婦関係が記録されていて、なかには「こんな夫もいるのか」など驚かされることもあります。こんな夫と結婚すれば、奥さんも耐えられないだろうなと同情心も起きたりします。

それでも、その多くの記事について読んでも、やはり昔から「夫婦喧嘩は犬も食わない」ということわざもあるように、イラクやアフガニスタンに比べれば、日本は平和だな、くだらない、と感じることも少なくありません。

          ※ ラファエロ 聖母子像  写真先

 

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