海と空

天は高く、海は深し

大衆と哲学

2006年09月29日 | キリスト教

 

哲学と大衆の関係について、ヘーゲルは彼の『小論理学』の第三版への序文の中で、キケロの言葉を引用しながら、次のように言っている。

「キケロは言っている。「哲学は少数の批評者に満足して、大衆を故意に避けるから、大衆からは憎まれいかがわしいものと思われている。したがって、もし誰かが哲学一般を罵ろうと思えば、必ず俗衆の支持をうることができる」と。哲学を罵るのに、その罵り方が馬鹿らしく浅薄なものであるほど、一般には受けるものである。というのは卑小な反感というようなものは、難なく共鳴できるものであるし、無知もわかりやすさの点では、これに引けは取らないから、この仲間となるからである。」(岩波文庫版50頁)

これらの文章を見ても、古代ギリシャ・ローマの昔から、ヘーゲルの時代も、哲学などはいかがわしいものと「俗衆」から思われていたことがわかる。何も現代に限ったことではないようである。ヘーゲルもまた彼自身のキリスト教研究を明らかにしたとき、学者ばかりではなく、俗衆からも多くの揶揄や非難をこうむっていたようである。もちろん、彼自身は真理は自己を貫徹するものであること、そして、時が来れば受け入れられることを確信していたが。

ただ何事においても非難はやさしく、創造はむずかしい。ヘーゲルのような哲学の立場に立つものは、神学者と哲学者の両陣営から批判を受けることになる。神学者の立場からすれば、彼の神学はあまりに哲学的でありすぎ、哲学者の立場からは、彼の哲学はあまりに神学的でありすぎると。

もちろん、これはヘーゲル哲学の欠陥ではなく、むしろ、彼の哲学の高さ、正しさゆえである。彼の哲学は神学者からも俗流哲学者からも理解されず、誤解され非難されもした。彼自身はそうした無理解に頓着しなかったけれども。

それにしても、現代においてはキリスト教などの宗教を研究するために、ヘーゲルの哲学が顧みられるということは「大学の府」などにおいてもほとんどないのではないか。クリスチャンやその他の宗教家であっても、この哲学者に論及するものもほとんどいないと思う。そうした問題意識すらもないようだ。彼の哲学の中心的なテーマは生涯キリスト教であったのに。

かって社会思潮を風靡したマルクス主義の関係から、ヘーゲルの「弁証法論理」が流行したこともあったが、そのほとんどは、唯物論者や共産主義者の立場からのものだった。

かって、私自身もブログで宗教について、とくにキリスト教などについてあつかましくも発言しようとしたとき、惜しくもさきに亡くなられたが、モツニ氏こと吉田正司氏から、「その資格として、田川建三氏や丸山圭三郎氏、ニーチェなどの読解が最低限要求される」という厳しい先制パンチをいただいたことがある。キリスト教や聖書の研究の導きとして、細々とヘーゲルを読みかじるぐらいのことしかできない私には、残念ながら、吉田氏とも対等に論議できずに終わってしまったけれども。http://blog.goo.ne.jp/aseas/e/264a6896e3ae29e528fdc97198dbc608

だから、もちろん自慢にもならないが、田川建三氏のみならず、カール・バルトやブルンナー、八木誠一氏、荒井 献氏など国内外の著名な現代神学などについて論じる資格は自分にはない。ただ、二十一世紀においても、今日なお、ヘーゲルの哲学は、キリスト教についての最高にして最深の宝庫であるとは思っている。 

現代のキリスト者で、彼の哲学にかかわるものが少ないのには、ヘーゲルなどを紹介してきた日本の権威主義的な哲学者たちのせいもある。日本ではヨーロッパにおいて以上に、哲学は女性や大衆には取り付きにくく思われているようだ。惜しいことだと思う。ヘーゲル自身は、異性とお酒やダンスも愛好する、世事にも通じた偉大なる俗人だった。

ヘーゲルの哲学は、キリスト教や聖書、宗教一般の研究には必須の登竜門であると考えている。たとえば三位一体の教義などは、キリスト教にとって本質的ではあるけれども、この教義の生成についての歴史的な、論理的な必然性をヘーゲルほどに明確に論証した学説は知らないからである。バルトや八木誠一氏などは読んではいないが、これらの神学者たちには、おそらくヘーゲルほどには、父と子と聖霊の三者の論理を明らかにはできていないだろうと思う。(バルトや八木氏の研究者が居られれば教えてください。学問的な怠惰はお許しを。)

現代日本の多くの大衆的なクリスチャンが、ヘーゲル哲学などに論及することなどほとんど皆無であるのは、彼らの多くが信仰の立場に立ち止まり、そこに満足して、真理や学問の立場に進むだけの余力がないからなのだと思う。これは、国家国民の学術・文化における水準の問題としても残念なことではあると思う。(信仰と真理、哲学や科学との関係については、いずれまた論じたい。)

参照  女系天皇と男系天皇──いわゆる世論なるもの

2006年09月28日
 

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イザヤ書第二章

2006年09月07日 | キリスト教

イザヤ書第二章

永遠の平和と終末の日


アモツの子、イザヤがユダとエルサレムについて見た言葉。

終末の日、主の家の山は、山々の頂上に据えられ、峰々を越えて聳え立つ。    そして、すべての国々はそこに流れ来る。
そして多くの民が来て言うだろう。
来れ、主の山に、ヤコブの神の家に登ろう。
主は私たちに主の道を示される。
そうすれば私たちは主の道を歩むだろう。
主の教えはシオンから、主のみ言葉はエルサレムより来るから。
そして、主は国々を裁き、多くの人々に正義を示される。


彼らは剣を打ち直して鋤に代え、
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かってもはや剣を上げず、
戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、来れ。主の光の中を歩もう。

あなたはあなたの民を、ヤコブの家を捨てられた。
ペリシテ人のように東の国から占い師を呼び寄せ、
異邦人の子供らと睦んだからだ。


彼らの土地は銀と金であふれ、
財宝には限りがない。
彼らの土地は軍馬であふれ、
戦車には限りがない。
彼らの土地は偶像であふれ、
自分たちの手で、自分たちの指で造った物を伏し拝む。
こうして人間は卑しめられ、人は低くせらる。
主よ、彼らをお赦しにならぬように。

岩の裂け目に身を隠し、山の中に隠れよ、
主の恐るべき御顔と崇高と威厳を避けて。
人間の高ぶった眼は低くされ、
人間の横柄は卑しめられる。
その日には、ただ主のみが崇められる。


万軍の主が臨まれる日には、
誇り傲る者はすべて、
高ぶる者はすべて、主が恥をかかせるだろう。
聳え立つレバノンの杉とバシャーンの森の樫の木のすべて、
聳え立つ山々と高い丘のすべて、
聳え立つ塔と堅固な砦のすべて、
タルシシュの帆船と満艦飾の船もすべて、
打倒され、破壊され、沈められる。

傲り高ぶる人は引き倒され、
誇る者は卑しめられる。
その日には、ただ、主のみが独り崇められる。
偶像はすべて滅ぼし尽くされる。

主が立ち上がって大地を揺るがすとき、
栄光と威厳をまとった主の御顔を恐れて
彼らは、岩穴に大地の裂け目に身を隠すだろう。

その日には、自分たちが崇めるために造った金と銀との偶像を、
彼らはモグラやコウモリのために投じるだろう。

主が立ち上がって大地を揺るがすとき、
主の恐るべき御顔と崇高と威厳を避けて
岩穴に、崖の裂け目に逃げ込むがよい。

鼻に息するだけの人間に頼ることを止めよ。


イザヤ書第二章註解

アモツの子、イザヤが黙示のなかに幻に視たユダとエルサレムの姿を書き記したものである。紀元前七〇〇年頃にユダの国に生を享けたイザヤは、ユダの国と聖地エルサレムについてその理想を見た。そこでイザヤが視たのは、永遠の平和と終末の日の姿だった。
主の神殿のあるエルサレムの丘に、諸国民が集い来て上る。主の教えと御言葉はエルサレムより来るとイザヤはいう。二十一世紀に生きる私たちには、それがイエスによってすでに歴史的に実現されていることを知っている。

そして、主は国々を裁かれ、人々に正義を示されて、戦争が永遠に止む時の来ることも記している。人類にとって平和は、究極の理想と言える。プラトンやカントをはじめ、多くの哲学者が、人類にとっての平和の条件を研究してきた。カントはその著書『永遠の平和』を書いて、民主主義と世界政府を通じて人類の平和を追求しようとした。しかし、それは今日なお実現されていないことは、歴史の現実を見て周知のとおりである。

また広島や長崎で「永遠の平和」の誓いは、毎年述べられるけれども、それが夢想にすぎないことを、人類は現実と歴史によって教えられるのである。「平和主義者」がどれほどばら色に人類の未来を描こうと、戦争を無くせぬ人類の業の深さに、いずれ厳粛に頭をたれざるを得ない。

豹がその皮の斑点を消せないように、たとえ頭の中でどれほど平和を願おうと、人類はそのみずからの本性の中から戦争を消し去ることができないのである。人類の実際の歴史と厳粛な現実の前に、「永遠の平和」を語る空しさをやがて思い知らされることになる。                            
とすれば、科学技術を局限にまで発展させた二十一世紀の今日、軍事力を核兵器として実現した人類は、人類の最終戦争を戦わざるを得ないのかもしれない。この第二章の中で、イザヤが「主の日」として述べている「終末の日」とは、イザヤが人類のこの最終戦争を予見して語ったのだ。それは「怒りの日」「裁きの日」とも言われているからだ。

もちろん中国とアメリカ、あるいは、日本と中国が戦争するとしても、それはまだ人類の最終戦争ではないに違いない。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても惑わされてはならない。それらは起きざるを得ないが、まだ世の終わりではない」ともイエスは語っているからである。(マタイ書24:6)

イザヤ書によれば、人類が「永遠の平和」を手にするのは、哲学者の理論や政治家の構想した「世界政府」などによるのではなく、主が国々を裁き、正義を示されるときである。(第四節)

「あなたはあなたの民を、ヤコブの家を捨てられた。」

この一節は、前節とのつながりがよく分からない。前節でイザヤは、人類の恒久平和を預言しながら、ここから一転して、ユダヤ人の腐敗と堕落を告発しているからである。おそらく、イザヤの言葉の断片を編集して「イザヤ書」が造られたからかもしれない。
いずれにせよ、現代のユダヤ人である巨大な富と軍事力をもつアメリカが、その傲慢を募らせるとき、このイザヤの言葉は、その国と民に対する主の審判としての預言となる。

そして、「終末の日」、「万軍の主の日」には、岩の洞窟や大地の裂け目に身を隠すよう忠告している。主の恐るべき御顔を避けるためにである。

「鼻に息するだけの人間に頼ることを止めよ。」

いずれ日本も、膨張する共産主義中国と民主主義アメリカの超大国の狭間で、国家としての自由と独立をいかにして確保してゆくかという切実な難問を突きつけられることになる。かってイザヤの祖国ユダも北の大国アッシリアの圧力の前に、国家の自由と独立を守るために苦闘したのである。そのときに、イザヤは、自由と独立を保つために、エジプトを頼らず主なる神にのみ畏れ待ち望むよう警告した。しかし、ユダ国はそのとき西の大国エジプトに頼った。そして結局、国家の滅亡は防ぎきれなかったのである。

このイザヤの政治学は、共産主義中国と自由民主主義アメリカの狭間におかれた日本の取るべき態度を示唆している。現代のエジプトである超大国アメリカにどこまで頼りきれるのか、わが国の政治家は政策を誤らないことである。

 

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わたしは離婚を憎む

2006年09月01日 | 宗教一般

 

わたしは離婚を憎むと、主なるイスラエルの神は言われる。
お前は邪悪を衣のように身にまとっている。だからお前の心が裏切ることのないように気をつけよ、と万軍の主は言われる。
(マラキ書第二章第十六節)

離婚とはある意味では裏切りである。結婚は神の前に交わした契約である。離婚はそれを破ることであり、裏切ることであるから。人間は心に悪を衣のようにまとっている。だから、その心が裏切って離婚という不正を犯すことのないように忠告する。主なる神が、離婚を憎むのは、人間に対する愛ゆえである。離婚がもたらす罪悪は深く、それは殺人にまで、母や父や娘や息子を殺すところまで行き着くから。秋田連続児童殺害事件

聖書の結婚観については、マルコ書第十章に、イエスの語った言葉として次のように明確に書かれてある。


①神は天地創造の初めから、人を男と女にお造りになった。
②それゆえ、父と母を離れて、男は妻と結ばれて、二人は一体になる。
③だから、彼らはもはや二人ではなく一つの身体である。
④神が結び合わせられたものを、それゆえ、人が離してはならない。

 

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