海と空

天は高く、海は深し

宗教的狂信について

2005年09月29日 | 宗教一般

哲学者ヘーゲルは宗教的な狂信についてはおよそ次のように論じている。

宗教的な狂信家は言う。
「正しい人間には法律は存在しない。敬虔であれ。敬虔でありさえすれば、あなたはつねにあなたの欲することを欲しいままに行えるのだ。あなたは、自分の欲する意志と情熱に身をゆだねることができる。それによって不法な被害をこうむる他人には、宗教の慰めと希望に頼るように勧め、それでも、困った場合には、彼らを非宗教的であると非難し、呪ってやればよいのだ。」

そして宗教的な狂信家は

「主なる神を求める自分の無教養な思いこみのなかに、すべてを実際に持っていると思いこみ、自分の主観的な思いこみを、さらに真理の認識へと、そして、客観的な義務と権利の知識へと高める努力を自分に課することをしない。そういう人々によっては、ただ、すべての倫理的な関係を破壊する愚行と非行が生まれるだけである。」

このような宗教的な自惚れ屋は、

「思い込みばかりで客観的な真理の認識をあきらめ、また、その能力もなく、時には権威には卑屈になり、時には横柄になり、法律や国家制度がどのようにあらねばならないのか、どのように作られなければならないのかを示すこともできず、それらをすべて自分の信仰のうちに持っていると思いこんでいる。しかし、それは宗教的な感情の強さのゆえではなく、無能力のせいである。


しかし、宗教が、それが真実の宗教であるなら、国家に対してそのような否定的な挑戦的な態度をとるものではない」   (法哲学§270)

ヘーゲルは宗教の否定的な側面も深く洞察していた。日本人は先の太平洋戦争やオーム真理教事件で、政治的狂信や宗教的狂信の結果を体験している。実際、イラクのテロリストや自爆信者、平岡公威や松本千津夫その他の宗教的狂信者、政治的狂信者の犠牲になるのは誰か。いつも無実の国民である。

 

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詩篇第二十四篇註解

2005年09月28日 | 詩篇註解

 

詩篇の本文テキストを一通り音読してから読んでいただけたらと思います。

第二十四篇

ダビデの賛歌

大地とそれを満たすもの、世界とその中に住むものは、すべて主のもの。
主は海の上に礎を据え、潮の上に世界を築いた。
いったい誰が主の丘に上り、誰が聖なる地に立つことができるのか。
それは、清らかな手と素直な心を持つ者、
空しい偶像に心を奪われることなく、偽りの誓いをしない者、彼らは救いの主から恵みと正義を授かる。このような者たちが世々主のもとに来る。
ヤコブの神の御顔を探し求める者たち。
門よ、頭を高く挙げよ。
永遠に閉ざされた扉よ、開け。
栄光の王が入られる。
栄光の王とは誰のことか。
主は強く勇ましい。主は全能の戦士。
門よ、頭を高く挙げよ。
永遠に閉ざされた扉よ、開け。
栄光の王が入られる。
栄光の王とは誰のことか。
万軍を率いられる主、主こそ光り輝く王。

 

第二十四篇   栄光の王、栄光の主 

英語訳には「偉大な王」という標題が付いている。

この篇の冒頭の第一節と第二節は、聖書全巻の冒頭に位置する創世記の要約ともいえる。これらの二節では、壮大な大自然とそこに住むすべての生命が、単なる自然ではなくて、神の創造になるものであるという聖書の根本思想が表明されている。この機会に壮大雄渾な創世記第一章の自然界の創造と第二章の人間の創造の神話を読み直してもよい。

自然や人間を神の被造物と見る思想は、その創造の主体である神についての認識へと駆り立てる。天地万物を被造物と捉える世界観、あるいは、逆に、神が万物の創造者とする見方は、もっとも根源的で統一のある「合理的な世界観」ではないだろうか。

世界とそこに住むものはすべて主のものであるといわれる。この思想は人類の歴史とともにある。ただ現代においては、科学技術の発展と無神論思想などの影響によって、その影は薄くなっているとはいえる。

通常、宗教と科学は対立概念として捉えられことが多い。それは特に近代において著しい。しかし、実際は逆で、一神教の宗教はその合理的な説明で、科学の母胎ともなった。一神教の合理的な説明は、魔術や占い、迷信から人間を解放した。今日も御神籤や星占い、またそれに類似する血液型人生占いなどの他愛のない言説に一喜一憂する多く現代人に対して、一神教の聖書は、科学的精神の根本を確立するものである。

聖書の記述は、数千年の昔の人類の世界認識の記憶を留めたものである。他の諸民族の世界創造の神話に比べれば、その合理性は比較にならない。聖書は魔術や占いを禁じている。(申命記第13章以下)しかし、ユダヤ教ではいまだ食事や礼拝において、その形式主義と不合理にとらわれている。それを解放したのは新約聖書である。

私たちは、聖書の中に現代科学の成果を直接に求めることはできない。聖書はただ科学の根源となる合理的精神を育てるものである。奇跡や復活を言い立てる聖書が、合理的精神の根源であるというのは、一見奇異に思われるかも知れない。聖書によって、倫理と合理的精神の根幹が確立されていないとき、その者の科学は表面的で、往々にして品位を失い、科学という名の迷信、科学主義に陥る。

第三節に「主の丘」とあるが、もちろん、「主の丘」とはエルサレムのことである。この詩篇の第二十四篇は、イスラエルの王ダビデが三万の精鋭の兵士とともに「神の契約の箱」を携えて、バアル・ユダの地からエルサレムに上った時のことが背景になっているといわれる。(サムエル記下六章以下)

エルサレムに到着し城門からダビデ王が入場したとき、当時の民衆が、栄光に輝くダビデ王を祝って、第七節以下のように叫びながら迎えたことは想像に難くない。ダビデ王は、エルサレムを回復し、イスラエルの栄光をもっとも高めた名君とされるから。

しかし、その後、エルサレムを喪失し、自分たちの国土を失って以来、さまざまな苦難の暦史にさらされたユダヤの民衆と預言者は、このような詩を歌って、かっての栄光の王、ダビデ王を記憶し、救世主としてのダビデ王の再来を待望した。そして、多くの預言者がダビデ王の再来を予言した。

実際、それは、イエスがエルサレムに入城されることによって実現した。(イザヤ書九章四節、イザヤ書六十二章十節以下、ゼカリヤ書九章九節など)その時も民衆は、ダビデの時と同じようにイエスを歓呼して迎えたことが記されている。(マタイ書第二十一章以下など)

このエルサレムの地に立つことのできるのは誰か、という問いに対して、この詩篇は四つのものを掲げている。

第一に、それは潔白な心と穢れない手を持った者であるという。英語訳では、行動と思考において純潔である者、清い心の者であるという。イエスも、心の清い人は幸いであるといっている。(マタイ書五章など)

とはいえ、現代の日本の社会からは、この純潔についての観念は失われた。その喪失に抵抗する国民に力はない。純潔のことなど、現代の日本人には二束三文のように扱われて意識に上ることすらない。その価値を教える者もいない。

そして、第二は、空しいものに魂を奪われることのない者だという。英語訳では偶像を崇拝しない者となっている。偶像(アイドル)は根本において虚しいものである。

そして第三は、偽りの誓いを、偽証をしない者だという。しかし、この欺瞞や偽証もまた、昔も今も尽きることのないものである。ことに、本来もっとも高潔であるべき政治の世界で欺瞞、偽証がまかり通っている。そして国民もそれが自明のものだと思っている。

そして、第四は、主を求める人、御顔を尋ね求める人であるという。顔は、ものの本質的な存在を言う。私たちが、「その人間の顔が見えない」というとき、その人間の本質がわからないことを意味している。神の顔を捜すというのは、神の本質を探究することである。聖地に立つことができるのは、そのような者であると詩人はいい、主はそのような者を祝福し正義をもって救われるという。

聖書では神は、しばしば「主」とか「王」とかという言葉で呼ばれる。「主」という言葉は何か翻訳くさく、なじみにくい感じがする。しかし、封建時代が長く最近まで続いた日本人には、もともとこうした観念に伝統的になじみのないものではない。

「主」とは主君であり、家長制度の主人の主である。唯一神をたんに「神」と呼ぶのと「主」と呼ぶのでは神の捉え方が違う。ユダヤ人が神を「主」と「アドナイ」と呼んだことにも、彼らの神観が現れている。日本語の「カミ」という言葉には、上にあること、超越していること、天に在るものという観念は現われているが、「主」という言葉にあるような、人間に干渉し、命じ、服従させる存在という意味は薄い。

子供は両親に服従する義務がある。会社では部下は上司の命令に従う義務がある。現代国家では法律を遵守しなければならない。命じる者は主人である。国王は国民に命じる。そして、神はすべてを服従させるから、すべてのものの「主」である。国王たちの王、皇帝の皇帝とも言える。「アドナイ」や「主」という言葉にはそういう観念がある。

その意味で、神は絶対的存在である。イスラエルの国王であったダビデが「主」と呼ばれたのも、イエスが「主」と呼ばれるのも、絶対的な存在である神との対比においてである。

かってダビデが「十戒」の石板の入った神の箱を携えてエルサレムに来た時のように、万軍の主、栄光に輝くイエスがロバに乗って神殿に入った。そして、ユダヤ人が待望した「メシア」の入る門は、イエスが入城した後、今も閉ざされて、その門からはもはや誰も入城することができない。メシアはすでにイエスにおいて実現したのであるから。

ダビデがエルサレムを回復してから三千年後の今日、ユダヤ人は再びエルサレムを回復しようとして、パレスチナ人と戦っている。しかし、イエスを認めるまで、ユダヤ人にエルサレムは解放されることはない。聖書の神話は、今日もなお神の力として私たちの眼前に展開されている。日本国も、エルサレムから遠くはないイラクの地に自衛隊を派遣している。

 

 

 

 
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詩篇第二十三篇註解

2005年09月26日 | 詩篇註解

 

ダビデの歌

主は私の牧童。私には欠けるものが無い。
主は私を若草萌える野辺に憩わせ、清らかな水辺へと導き、
私の魂に新たな力を得させる。
主は御名のために私を正義の道へ導かれる。
死の闇の谷を歩むときも、私は災いを恐れない。
なぜなら、あなたが私と共におられるから。
あなたの棍棒と杖は、私には救いとなる。
あなたは、私の敵の眼前で私のために宴を開き、
私の頭に香油を注ぎ、私の杯をぶどう酒で溢れさせる。
生涯の日々、恵みと愛は私のもの。
私は命ある限り主の家に住む。



第二十三篇    主は羊飼い(旅する者の祈り)

「主は羊飼い」と題されるダビデの有名な詩である。ここでは、主なる神は、「羊飼い」にたとえられている。詩人は、自分と主なる神との関係を、牧童と羊との関係のようにみなしている。

日本の気候と風土は、牧畜にふさわしいとは言えず、人々も牧畜に決してなじみ深いとはいえない。羊や牛などを飼う牧畜は乾燥地帯に適した産業である。だから、牧童と羊たちとの関係の比喩も、日本人にはさほど実感として感じられないかもしれない。 

羊飼いの使命は、羊たちの生命を狼やハイエナから守り、草原で豊かに牧草を食ませ、涼しげな池や川のほとりで、水をふんだんに飲ませることである。この羊飼いと同じように、主なる神は、私たちの生命を慈しんでくださるという。主は私たちを草原に憩わせ、水辺で渇きを癒せて、魂を生き返らせ、力を蘇らせてくださる。ここでは神は懲らしめ罰する神ではなく、救い、癒し、慈しむ神である。

だから、暗い不安な谷間を過ぎるときも、死と災いを恐れない。主が共にいて正しく導かれることを確信しているから。
私たちの生涯には、平和な時も、戦いの時も、得意の時も、失意の時も、交々に訪れる。そのいずれの時も、牧童が羊の群れの安全に配慮するように、主は導いてくださる。

時には、厳しく杖で打ち、鞭で懲らしめられることがあっても、それは私たち自身の生命の安全を守るためである。牧童が羊たちの安全と健康を気遣うように、主もまた、私たちを食物と水で養われる。主の恵みと慈しみによるものである。
主はまた、敵の見える前で、楽しい満ち足りた宴を用意してくださるほど、私たちを愛してくださる。それゆえ、主の家は、生涯、私たちの家ともなる。

この詩は、旅に出かける時の祈りとしてもふさわしい。旅の平安を祈り、神に保護を求める歌である。そして、苦難を恐れることなく旅に出る。

日常そのものが、歓びと冒険と危険の織り成す旅であるとすれば、日々の祈りともなりうる。古来から多くの人々によって歌い継がれてきた、簡潔で美しい詩である。
芭蕉たちが東北に向かった「奥の細道」への旅路でも、もしこのような歌を知っていたなら、その旅の途上での俳句の詠唱も、よほど違ったものになっていたかも知れない。

 

 

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もし私が聖書を編纂するなら

2005年09月20日 | 宗教一般

 

洗礼を受けていなくとも、また特定の教会に所属していなくても、聖書に価値を認めて愛読している人は少なくないと思います。教会の特定の解釈や教義に縛られることなく自由に研究したいと思う者は、特に、その傾向が強いのではないでしょうか。


それにしても、現行の新旧約聖書は、あまりに大部で、忙しい現代の多くの日本人には質量ともに重過ぎると思います。テキストの形式としてふさわしいとも思えません。新約聖書だけなら、かなり、ボリュームが減るので、取り付きやすくなります。また、ユダヤ人でもない私たち日本人にはそれで十分なのかも知れません。しかし、それでは貴重な旧約聖書の遺産が失われますし、多くのクリスチャンの信仰がユダヤ人のそれよりも劣ることになりかねません。それで、もし私が現代の日本人向きに聖書を編纂しなおすとすれば、どれを選べきか考えてみました。


選択の根拠を詳しく説明するのもわずらわしいので省略しますが、まず、『詩篇』は欠かせないと思います。詩篇は聖書の中の聖書と言えるもので、日常のその朗読と判読は、聖書の宗教の基礎を形作るもので、不可欠だと思うからです。


そして、聖書を多くの現代のクリスチャンのように単なる信仰の書とすることなく、自分の頭で考え直す本とするために、旧約の「知恵の書」に属するテキストも欠かせなと思います。それで『箴言』や『伝道の書』も欲しい。さらに、聖書を芸術の香気豊かなものにしている、『雅歌』も不可欠です。また、旧約聖書の出発点である『創世記』はやはり必要かも知れません。


旧約の中から、最小限選ぶとすれば、これらのテキストを取り上げたいと思います。もちろん哲学書ならぬ宗教の書として、これらのテキストの選択について絶対的な必然性は証明できないのですが。


新約聖書の中からは何を選ぶべきでしょうか。共観福音書の中からはユダヤ教の色彩の薄い『ルカ福音書』と、それからギリシャ哲学の影響の濃い『ヨハネ福音書』を選びたいと思います。


それからキリスト教の教義の基礎を確立したパウロの『ローマ人への手紙』です。新約聖書からは、この三つのテキストで、現代人に必要な信仰と倫理道徳の基礎は十分に養成できると思います。そして、最後に聖書の教えを歴史的に、締めくくるために不可欠な書としてのヨハネの『黙示録』です。
このように聖書を簡易に改めて編纂すれば、現代日本人の多くにとっても「聖書」が『座右の書』となるのではないでしょうか。

ですから、私が私のために現行の聖書を編纂しなおすとすれば、さしあたっては

①創世記
②箴言
③詩篇
④伝道の書
⑤雅歌
⑥ルカ伝
⑦ヨハネ伝
⑧ロマ書
⑨黙示録


のテキストを選ぶことになると思います。そして、これらのテキストのそれぞれに平易な現代英語の対照訳をつけて、日本語と英語で聖書を読めるようにします。そうすれば、日常の聖書の判読が、同時に、英語の習熟と読解のトレーニングにもなります。


個人的にはこのような新編聖書があればと思っているのですが、どこかの奇特な出版社があって、編纂して出版していただければうれしいのですが。それは日本国がキリスト教国となるのにいささか貢献することにもなり、その意義は決して小さくはないと思うのです。もちろん、聖書を本格的に勉強したい者は、オーソドックスな従来の新旧約聖書を利用すればよいのです。


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詩篇第二十篇註解

2005年09月18日 | 詩篇註解

 

第二十篇   戦場に向かう者の祈り

 
この詩篇の主題は第六節にある。戦争を前にして勝利を神に求める祈りである。ダビデはサウルの跡を継いでヘブライ人の指導者になった。当時の王はその王位を継承するときに油を注がれたので、王は受膏者とも呼ばれる。歴代誌にはダビデが当時のエルサレム周辺の住民であったペリシテ人やエブス人と戦ったことが記録されている。(歴代上第十一章以下)今日もユダヤ人はパレスチナ人と戦争しているが、そうした戦を前にして、民衆が不安におののきながらダビデ王の勝利を期して祈った歌である。

 
この詩篇に登場するのは、主なる神、王たるダビデ、歌の指揮者、そして民衆である。指導者ダビデに対する賛歌が歌われる。戦争という苦難や危機は今日の時代にも絶えることがない。今もイラク戦争が戦われているが、逆境や苦難は単に個人ばかりではなく、国家や民族にもこもごも訪れる。個人の苦境は神に頼って自ら切り開くしかないが、国家や民族の窮迫を打開するのは、昔なら国王や将軍、今日のような民主国家では首相や大統領などの指導者である。優れた指導者を持ちうるか否かが国運を左右する。日本においても明治期は比較的に優れた指導者を持ちえたといえるが、太平洋戦争時や今日のわが国の指導者はどうか。  

しかし、指導者といっても共同体の外部から連れてこられるのではない。その内部から選ばれるのである。優れた資質のない国民や民族から優れた指導者が生まれる道理はない。この詩は単に個人の逆境からの脱出を祈る詩というよりも、国家や民族が危機にある時の社会的な祈りとして読まれる。だから、私たちはこの詩を、私たちの中から神が優れた指導者を賜ることを願う祈りとして、彼の指導が万全であることを願う祈りとしても読むことができる。優れた指導者を持ちえる国民は幸福である。

    
聖書においてはダビデはイエスの先駆でもある。だから、ダビデはイエスでもある。父なる主がイエスの戦いに勝利を与えて下さることを祈願する祈りとも読める。そのとき、ダビデの捧げものとは、イエスの十字架上の犠牲に他ならない。この生贄が快く受け入れられ、イエスの心の願いをがすべて実現されるようにと、イエスの勝利の旗を私たちが掲げることができるようにと祈る。イエスは私たちにとっては究極の指導者である。


個人においても国家においても主は、強い砦であり盾である。富者や軍事大国は戦争において自分の財産や戦車や馬の脚力を誇るかもしれない。今日の時代で言えば、核弾頭を搭載したミサイルや原子力空母、潜水艦、ハイテクの塊のような戦闘機に頼るようなものである。しかし、イスラエルの民が頼るのは、固い岩、高き砦にたとえられる神である。

 私たちの神に依頼する限り、個人も国民も支えられ、力に満ちて再び立ち上がる。アメリカ軍やイスラエル軍が強いのは、科学技術の先端をゆく武器もさることながら、聖書によって主への祈りに支えられているからだと思う。 
 
この詩篇は、家族の世帯主や国家の指導者に対する祈りでもある。私たちの王や家長や指導者が神から勝利を賜ることによって得るものは、私たちの救いである。

 

 

 

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