詩篇の本文テキストを一通り音読してから読んでいただけたらと思います。
第二十四篇
ダビデの賛歌
大地とそれを満たすもの、世界とその中に住むものは、すべて主のもの。
主は海の上に礎を据え、潮の上に世界を築いた。
いったい誰が主の丘に上り、誰が聖なる地に立つことができるのか。
それは、清らかな手と素直な心を持つ者、
空しい偶像に心を奪われることなく、偽りの誓いをしない者、彼らは救いの主から恵みと正義を授かる。このような者たちが世々主のもとに来る。
ヤコブの神の御顔を探し求める者たち。
門よ、頭を高く挙げよ。
永遠に閉ざされた扉よ、開け。
栄光の王が入られる。
栄光の王とは誰のことか。
主は強く勇ましい。主は全能の戦士。
門よ、頭を高く挙げよ。
永遠に閉ざされた扉よ、開け。
栄光の王が入られる。
栄光の王とは誰のことか。
万軍を率いられる主、主こそ光り輝く王。
第二十四篇 栄光の王、栄光の主
英語訳には「偉大な王」という標題が付いている。
この篇の冒頭の第一節と第二節は、聖書全巻の冒頭に位置する創世記の要約ともいえる。これらの二節では、壮大な大自然とそこに住むすべての生命が、単なる自然ではなくて、神の創造になるものであるという聖書の根本思想が表明されている。この機会に壮大雄渾な創世記第一章の自然界の創造と第二章の人間の創造の神話を読み直してもよい。
自然や人間を神の被造物と見る思想は、その創造の主体である神についての認識へと駆り立てる。天地万物を被造物と捉える世界観、あるいは、逆に、神が万物の創造者とする見方は、もっとも根源的で統一のある「合理的な世界観」ではないだろうか。
世界とそこに住むものはすべて主のものであるといわれる。この思想は人類の歴史とともにある。ただ現代においては、科学技術の発展と無神論思想などの影響によって、その影は薄くなっているとはいえる。
通常、宗教と科学は対立概念として捉えられことが多い。それは特に近代において著しい。しかし、実際は逆で、一神教の宗教はその合理的な説明で、科学の母胎ともなった。一神教の合理的な説明は、魔術や占い、迷信から人間を解放した。今日も御神籤や星占い、またそれに類似する血液型人生占いなどの他愛のない言説に一喜一憂する多く現代人に対して、一神教の聖書は、科学的精神の根本を確立するものである。
聖書の記述は、数千年の昔の人類の世界認識の記憶を留めたものである。他の諸民族の世界創造の神話に比べれば、その合理性は比較にならない。聖書は魔術や占いを禁じている。(申命記第13章以下)しかし、ユダヤ教ではいまだ食事や礼拝において、その形式主義と不合理にとらわれている。それを解放したのは新約聖書である。
私たちは、聖書の中に現代科学の成果を直接に求めることはできない。聖書はただ科学の根源となる合理的精神を育てるものである。奇跡や復活を言い立てる聖書が、合理的精神の根源であるというのは、一見奇異に思われるかも知れない。聖書によって、倫理と合理的精神の根幹が確立されていないとき、その者の科学は表面的で、往々にして品位を失い、科学という名の迷信、科学主義に陥る。
第三節に「主の丘」とあるが、もちろん、「主の丘」とはエルサレムのことである。この詩篇の第二十四篇は、イスラエルの王ダビデが三万の精鋭の兵士とともに「神の契約の箱」を携えて、バアル・ユダの地からエルサレムに上った時のことが背景になっているといわれる。(サムエル記下六章以下)
エルサレムに到着し城門からダビデ王が入場したとき、当時の民衆が、栄光に輝くダビデ王を祝って、第七節以下のように叫びながら迎えたことは想像に難くない。ダビデ王は、エルサレムを回復し、イスラエルの栄光をもっとも高めた名君とされるから。
しかし、その後、エルサレムを喪失し、自分たちの国土を失って以来、さまざまな苦難の暦史にさらされたユダヤの民衆と預言者は、このような詩を歌って、かっての栄光の王、ダビデ王を記憶し、救世主としてのダビデ王の再来を待望した。そして、多くの預言者がダビデ王の再来を予言した。
実際、それは、イエスがエルサレムに入城されることによって実現した。(イザヤ書九章四節、イザヤ書六十二章十節以下、ゼカリヤ書九章九節など)その時も民衆は、ダビデの時と同じようにイエスを歓呼して迎えたことが記されている。(マタイ書第二十一章以下など)
このエルサレムの地に立つことのできるのは誰か、という問いに対して、この詩篇は四つのものを掲げている。
第一に、それは潔白な心と穢れない手を持った者であるという。英語訳では、行動と思考において純潔である者、清い心の者であるという。イエスも、心の清い人は幸いであるといっている。(マタイ書五章など)
とはいえ、現代の日本の社会からは、この純潔についての観念は失われた。その喪失に抵抗する国民に力はない。純潔のことなど、現代の日本人には二束三文のように扱われて意識に上ることすらない。その価値を教える者もいない。
そして、第二は、空しいものに魂を奪われることのない者だという。英語訳では偶像を崇拝しない者となっている。偶像(アイドル)は根本において虚しいものである。
そして第三は、偽りの誓いを、偽証をしない者だという。しかし、この欺瞞や偽証もまた、昔も今も尽きることのないものである。ことに、本来もっとも高潔であるべき政治の世界で欺瞞、偽証がまかり通っている。そして国民もそれが自明のものだと思っている。
そして、第四は、主を求める人、御顔を尋ね求める人であるという。顔は、ものの本質的な存在を言う。私たちが、「その人間の顔が見えない」というとき、その人間の本質がわからないことを意味している。神の顔を捜すというのは、神の本質を探究することである。聖地に立つことができるのは、そのような者であると詩人はいい、主はそのような者を祝福し正義をもって救われるという。
聖書では神は、しばしば「主」とか「王」とかという言葉で呼ばれる。「主」という言葉は何か翻訳くさく、なじみにくい感じがする。しかし、封建時代が長く最近まで続いた日本人には、もともとこうした観念に伝統的になじみのないものではない。
「主」とは主君であり、家長制度の主人の主である。唯一神をたんに「神」と呼ぶのと「主」と呼ぶのでは神の捉え方が違う。ユダヤ人が神を「主」と「アドナイ」と呼んだことにも、彼らの神観が現れている。日本語の「カミ」という言葉には、上にあること、超越していること、天に在るものという観念は現われているが、「主」という言葉にあるような、人間に干渉し、命じ、服従させる存在という意味は薄い。
子供は両親に服従する義務がある。会社では部下は上司の命令に従う義務がある。現代国家では法律を遵守しなければならない。命じる者は主人である。国王は国民に命じる。そして、神はすべてを服従させるから、すべてのものの「主」である。国王たちの王、皇帝の皇帝とも言える。「アドナイ」や「主」という言葉にはそういう観念がある。
その意味で、神は絶対的存在である。イスラエルの国王であったダビデが「主」と呼ばれたのも、イエスが「主」と呼ばれるのも、絶対的な存在である神との対比においてである。
かってダビデが「十戒」の石板の入った神の箱を携えてエルサレムに来た時のように、万軍の主、栄光に輝くイエスがロバに乗って神殿に入った。そして、ユダヤ人が待望した「メシア」の入る門は、イエスが入城した後、今も閉ざされて、その門からはもはや誰も入城することができない。メシアはすでにイエスにおいて実現したのであるから。
ダビデがエルサレムを回復してから三千年後の今日、ユダヤ人は再びエルサレムを回復しようとして、パレスチナ人と戦っている。しかし、イエスを認めるまで、ユダヤ人にエルサレムは解放されることはない。聖書の神話は、今日もなお神の力として私たちの眼前に展開されている。日本国も、エルサレムから遠くはないイラクの地に自衛隊を派遣している。