それに対して、ギリシャ哲学やゲルマン哲学は自由を知る。そして、真の哲学は自由のうえにのみ花開く。それがゆえに真の哲学史は古代ギリシャとゲルマン民族のうえにのみ展開される。
それに対して、ギリシャ哲学やゲルマン哲学は自由を知る。そして、真の哲学は自由のうえにのみ花開く。それがゆえに真の哲学史は古代ギリシャとゲルマン民族のうえにのみ展開される。
明けましておめでとうございます。
2006年が去り、新しく2007年を迎えました。
暖かい正月でした。温暖化がいよいよ体感されるようになってきたということなのでしょうか。昨日は小さいけれども真っ白な月が出ていました。
そんな月を見ても私には歌を詠む技量はありませんし、和歌を学ぶだけの余裕もないので、せいぜい、昔に西行などが詠んだ和歌をなぞって、その芸術的な感興を満足させることができるくらいです。もちろん、本格的に和歌を詠む練習などもできればいうことはないのでしょうが。しかし、これ以上恥の上塗りをしないことでしょう。
900年ほど前にこの同じ月を見て西行が詠んだ歌で代えます。
堀河の局 仁和寺に住みけるに、まゐるべき由申したりけれども、まぎるることありて程経にけり。月の頃、前を過ぎけるを聞きて言ひ送りける。
854 西へ行く しるべとたのむ 月影の そらだのめこそ かひなかりけれ
返し
855 さし入らで 雲路をよぎし 月影は 待たぬ心ぞ
空に見えける
堀河の局という知り合いの女性が御室の仁和寺に住んでいたときに、いずれお訪ねしますと申し上げていましたけれど、忙しさにまぎれて時が過ぎてしまった。月の美しい頃、私が、その人の家の前を素通りしてしまったことをその人が聞いて、私に次のような歌を送ってよこしました。
浄土のある西方への旅路の道案内としてお頼み申し上げていたお月様(あなた)でしたが、空頼みでしかなかったのは、甲斐のないことでしたよ。
こんな歌をその人が送ってきましたので、私は次のような歌を詠んで送ってやりました。
お月様が空の雲路を素通りしたように、私があなたの家をお訪ねしなかったのは、私を待ってくれる心のないことが、月の光を待ち望む心がないように、空から見えたからですよ。
西行がこのようなつれない返歌を送った相手の堀河の局は、京都の西山あたりにも住んでいたことが記録されている。西行が上記の歌を詠んだときは、彼女は仁和寺あたりに住んでいたようだ。堀河の局が仕えていた待賢門院藤原璋子が鳥羽天皇の中宮であったことから西行と和歌を通じて面識ができたらしい。西行は北面の武士として鳥羽天皇に仕えていた。堀河の局も女房三十六歌仙の一人に数えられて百人一首に選歌されるほどの歌人だった。
しかし、西行は待賢門院藤原璋子に惹かれたが、この歌に見られるように堀河の局にはさほど魅力を感じなかったらしい。
ただそれでも、堀河の局が西山に住んでいたときには、気にかけて訪れていた。その様子が次のように書き残されている。
ある所の女房、世を遁れて西山に住むと聞きて、たずねければ、住み荒らしたる様して、人の影もせざりけり。あたりの人にかくと申し置きたりけるを聞きて、言ひ送れりける
744 潮なれし 苫屋も荒れて うき波に 寄る方もなき あまと知らずや
返し
745 苫の屋に 波立ち寄らぬ けしきにて あまり住み憂き
ほどは見えにき
西行は堀河の局を訪ねていったが、このときは行き違いで会えなかったようだ。この頃にはすでに藤原璋子の落飾に従って、彼女も尼になっていたらしい。
西行と鳥羽天皇や藤原璋子らの交流に素材を取った辻邦生の小説に『西行花伝』がある。機会があれば読んでみたいと思う。
とはいえ、概念論などを中心的なテーマとしているかぎり、なかなかそんな暇も取れそうにはない。いつのことになるやら。
たぶん今年も特別のことはないと思います。ただ去年よりさらに充実した一年を過ごせることを祈るばかりです。
1254 今はただ 忍ぶ心ぞ つつまれぬ 歎かば人や
思ひ知るとて
本年もよい年でありますように。
公明党の民主主義
北朝鮮の核実験にからんで、それが連鎖的に日本の核武装へと波及することの懸念は欧米の論調でも多く見られる。もちろん、その根本的な理由は、日本の民主主義の成熟度に対する不審によるものだ。
海外からは、北朝鮮とならんで日本もまた、中川政調会長の発言のように「どうみても頭の回路が理解できない国」とまだ見られている。
さる十五日のあるテレビ番組で、自民党の中川昭一政調会長が、「核があることで攻められる可能性は低いという論理はあり得るわけだから、議論はあっていい」との認識を示したそうである。私もそうした意見は、自由な国民の中から当然に出て来てよいと思うが、今なおこうした問題では、「議論さえするな」という意見があるようだ。
これを報じていた朝日新聞の記事は以下の通りである。
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自民政調会長「核保有の議論必要」 首相は三原則を強調
2006年10月15日18時50分
自民党の中川昭一政調会長は15日、北朝鮮の核実験発表に関連し、日本の核保有について「核があることで攻められる可能性は低いという論理はあり得るわけだから、議論はあっていい」との認識を示した。安倍首相は国会で「我が国の核保有という選択肢は一切持たない」と答弁している。だが、日本も核武装するのではとの見方が海外の一部で出る中での与党の政策責任者の発言は、波紋を広げそうだ。
テレビ朝日の報道番組などでの発言。中川氏は非核三原則は守るとの姿勢を示したうえで、「欧米の核保有と違って、どうみても頭の回路が理解できない国が(核を)持ったと発表したことに対し、どうしても撲滅しないといけないのだから、その選択肢として核という(議論はありうる)」と語った。
一方、安倍首相は15日の大阪府内での街頭演説でも「北朝鮮が核武装を宣言しようとも、非核三原則は国是としてしっかり守っていく」と明言。中川秀直幹事長も記者団に「首相の発言を評価している」と語り、党として議論するつもりはないことを強調した。
また、公明党の斉藤鉄夫政調会長は同じ番組で「議論をすることも、世界の疑念を呼ぶからだめだ」と反論。民主党の松本剛明政調会長も「今、我が国が(核を)持つという方向の選択をする必要はない」と述べた。
http://www.asahi.com/special/nuclear/TKY200610150124.html
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この記事で気になったのは、公明党の斎藤鉄夫政調会長が「議論をすることも、世界の疑念を呼ぶからだめだ」と反論したとされていることである。
このようにして人はタブーを作り、自己規制し、思考停止に陥るのだ。そうして頭だけ布団に隠したつもりでも、危険は消えてくれる訳でもない。
この記事が真実なら、やはり公明党員らしい発言だなと思った。というのは、公明党は本来的に民主主義政党ではないと思っていたからである。もちろん、公明党が「民主主義」をその政党の基本的な原理にするかどうかは、公明党やその支持者の自由である。ただもし、多くの国民が公明党を民主主義政党であると考えているなら、再考の余地があるのではないかと言いたいだけである。そして、それが真実なら、民主主義を支持する国民はこの政党を支持しないだけの話だろう。
「議論することもだめだ」と言うのは、もちろん、「言論の自由」とその価値を知っている人の発言ではありえない。この報道が真実なら、公明党の政策責任者の「自由と民主主義観」がどのような程度のものであるかが、そこに計らずも露呈したのだろう。ふだんから民主主義が血肉になっている人には、ケガにもこうした発言は出てこない。こうした事実にも、公明党が本質的に民主主義政党ではないことを証明していると思う。もちろん、先にも述べたように、公明党が民主主義政党でなければならないということはない。日本の憲法は共産党などの全体主義的な政党も合法として存在を認めている。
ただ、近代現代を通じての人類の歴史的体験からも、自由と民主主義を原理としない組織は、それがたとえ政党であれ、国家であれ現代の組織形態としては、国際的にも公認されにくいというのが歴史的な事実ではなかろうか。そして実際、そうでない政党や組織、国家は事実として歴史からも姿を消していっている。
いずれにせよ、こうした事実からわかることは、宗教的に自由に解放されていない国民や民族が民主主義を標榜することは、やはり茶番や喜劇に過ぎないことである。これは何も公明党員のみに限らない。今イラクでアメリカは民主主義的な国家、政府の樹立を目指して、軍事的にも苦闘しているが、その困難の背景には、やはり、イラク国民、イラクの民衆の多数がいまだ自由な宗教に解放されていないという歴史的な現実がある。宗教改革を経ないそのような民族や国民が、そのままで国家や政府を民主化することはできないのである。少なくとも内在的に民主主義国家を形成することはむずかしい。
日本国がまだ事実として半民主主義国に留まっているのも、この公明党の斎藤鉄夫政調会長に見るように、国民の多数としては、いまだ自由の宗教へと解放されてもおらず、また「宗教改革」も経験していないからである。この事実は、いわゆる左翼であっても右翼であっても変わりはない。
もちろん、ある歴史的な段階にある国民や民族にとっては、民主主義的な統治形態が必ずしも適切であるとは限らない場合もある。それは先のタイで起きたクーデター事件でもみた通りである。ただ、そうした後退があるとはいえ、それでもやはり人類の進むべき歴史の方向は、自由と民主主義であることは認めてよいと思う。
季節の変わり目を深く実感する今日のような日は、西行の歌を思い出す。秋の紅葉や春の花に触れては、西行の歌を介して世界を眺めたくなる。芸術家ならぬ私には、私の感性を芸術に形象化する技量はない。
日本にも歌人や俳人は多くいるが、その生涯の思想と行動について深く知りたいと思う者は少ない。西行はその数少ない一人である。私の見た西行の伝記をいつか書いてみたいというのは、いまだなお見果てぬ夢である。
松尾芭蕉や与謝野蕪村にないものが西行にはあると思う。芭蕉などは、私にとっては漢意(カラゴコロ)が強く、また現世的で、永遠の余韻が弱い。西行は仏教の影響を深く刻した歌人であったからだと思う。仏教思想が西行の和歌を深くしている。彼の歌には仏教の形而上学がある。
西行もまた多くの花を題材に詠んでいる。桜はいうまでもなく、紅葉、藤、なでしこ、菊、おみなえし、萩、桔梗、橘などそれぞれの季節に西行の思いを添えて詠んでいる。荻もまた秋を象徴する植物である。西行が秋風にそよぐ竹と荻に題材に取った和歌。二首。
おそらくこのふたつの歌は、同時に詠まれたものだろう。
山里へまかりて侍りけるに、竹の風の荻に
紛えて聞こえければ
1146 竹の音も 荻吹く風の 少なきに たぐえて聞けば
やさしかりけり
ある山里に参りましたところ、秋風が強くもなく、竹林の葉ずれの音も、あたかも荻の上を吹く風のように錯覚するほど、やさしいものでした。
世遁れて嵯峨に住みける人の許にまかりて、
後の世のこと怠らず勤むべき由、申して帰りけるに、
竹の柱を立てたりけるを見て
1147 世々経とも 竹の柱の 一筋に 立てたるふしは
変らざらなむ
出家して嵯峨野に住んでいる人の許を訪ねて、怠らず仏道修行に勤め励むことなどを語らって帰りましたが、その人がわび住まいをしている庵に、竹の柱を立てていたのを見たことを思い出して詠みました。
西行は親友が出家して嵯峨野に隠棲している庵をひとり訪ねてゆきます。秋も深まりつつあります。よく晴れた日も夕暮れて、しかも、風もほとんど吹くか吹かずです。いつもなら、竹林のこずえを吹き渡る風も凄まじいけれど、今日は荻の上を吹く風のように、やさしく柔らかい。竹林に差し込む秋の夕日が、友を思いつつ道行く西行のわびしさをなおいっそうつのらせます。
友だちは、嵯峨野の山里に粗末な竹の庵を結んで暮らしていました。久しぶりの再会に、いろいろ話もはずみましたが、お互いに西方浄土に救い取られることを願って出家した身の上、この世の執着も煩悩も強いけれど、互いに仏道修行を勤めようと励ましあって別れました。その帰途、友だちの庵にまっすぐな竹を柱に据えていたのを思い出して、次のような歌を詠んだことでした。
あなたのお住まいになる庵の、竹の柱がまっすぐ一筋に立っていたように、あなたが悟りをめざした仏道修行の志も、いついつまでも変らないでほしいものです。
こうした歌からも、西行などが生きた時代―――平安、鎌倉期――に、人々がどのような世界に生きていたかを垣間見ることができる。当時の人々にとって、生は決してこの世限りで終わるものではなく、むしろ、死後の生のために現世を生きていたことがよくわかる。
嵯峨野は今もいたるところに竹林におおわれている。秋も深まった頃に荻の花の上を吹き抜ける風は西行の当時と同じだろう。
今までに見たもっとも美しい荻野原は、遠州灘近くにあった公園の、池のほとりで、秋の風に荻の穂花がそよいでいた光景。