海と空

天は高く、海は深し

詩篇第六十七篇註解

2006年07月21日 | 詩篇註解

 

詩篇第六十七篇

指揮者たちは、賛美の歌を奏でる。

神が私たちを憐れんでくださるように。
また、私たちを祝福してくださるように。
どうか御顔を私たちの上に輝かせてください。
あなたの道が世界に知られ、すべての異邦の民があなたに救われますように。
神よ、すべての人々があなたに感謝しますように。
人々が皆、あなたに感謝しますように。

すべての国民は喜び、歓びに歌え。
あなたはすべての国民を公平に裁き、
地上のすべての国民を導かれるから。

神よ、すべての人々があなたに感謝しますように。
人々が皆、あなたに感謝しますように。セラ (強調の音符) 

大地は豊かに作物を実らせ、
神が、私たちの神が、私たちを祝福してくださる。

神が私たちを祝福してくださる。
地の果てにいたるまで、すべてのものが神を畏れるように。

 

 

第六十七篇註解                           祝福してください

神は私たちを憐れみ祝福してくださる方であるが、また、怒り裁く方であることも知っている。だから、私たちは怒りや裁きではなく憐れみと祝福を求める。神は愛する方であるから。

父である神の御顔は、イエスの顔にもっともその輪郭をあらわしている。その御顔の輝きに私たちが照らされ、父なる神の意思とイエスの御心が世界中に知られるとき、そのときこそはユダヤ人だけでなく異邦人も救われるときである。

詩人は、すべての諸国民が神に感謝を捧げることを勧める。神は諸国民を偏り見られることなく公平に裁かれ、また地上のすべての国民を教え導かれるから。

また、神は豊かな実りと産物で私たちを祝福してくださる。
この地球はどんなに豊かなことだろう。稲や麦、果実などの大地の収穫と、大海原を覆い尽くすような魚の大群によって、日々の糧を恵んでくださる。
それゆえに詩人は、この慈しみ深い神をすべての人が敬い畏れるように勧める。

勤労感謝の日や感謝祭などに歌われ祈られるべき感謝の詩である。

 

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第三十二篇註解

2006年07月19日 | 詩篇註解

第三十二篇

ダビデの教訓詩。

幸せだ。その咎が取り去られ、その罪を許された者は。
幸せだ。主にその不義を数えられず、心に偽りを持たない者は。

私は沈黙を続けたが、私の骨は終日のうめきによってくたびれ果て、
昼も夜もあなたの御手は私に重くのしかかり、
私の喉も、夏の日照りに涸れ果てた。セラ。

私はあなたのみ前に私の罪を認め、咎を隠さなかった。
私は言った。主に背いたことを私は告白しよう。
すると、あなたは私の罪を赦された。セラ。
だから、神を敬う人はすべてあなたに向かって祈る。
あなたを探し出せる間に。

洪水のあふれるときも、その人には及ばない。
あなたは私の隠れ家。私を苦しみから守られる。
私はあなたに救われて歓びの声をあげた。セラ。

主は言われる。私はあなたに歩むべき道を教え諭し、
あなたを見守り導く。
あなたは馬やラバのように、愚かでかたくなになるな。
くつわと手綱であなたに近づかないように
それらは押さえつけなければならない。

悪しき者には悩みが多いが、
主に依り頼む者は愛に恵まれる。
だから歓び踊れ、正しい人よ。主によって喜べ。
心のまっすぐな人はすべて、歓びに叫べ。

 

詩篇第三十二篇註解            安心して行きなさい

神に反抗したのに、その咎が取り去られ、神の戒めに背いて悪を犯したのに、その罪をとがめられず許された者は、幸いであるという。

神の愛は人間の罪を許し、人間の犯した罪を忘れ、彼の犯した罪がなかったようにみなす。それは、神が愛そのものに他ならないから。その姿はイエスの中に目の当たりに見られる。「娘よ。あなたの信仰があなたを癒した。安心して行きなさい。もう病み患うことはない」とイエスは言われた。(マルコ書5:34)

冒頭に「ダビデのマスキール」とある。「マスキール」の正確な意味はわからないらしい。だから、そのまま訳されずに使われている。第8節の冒頭の「スキルハー(目覚めさせる、悟らせる、賢くする)」と語形が似ていることから、教訓や黙想を目的とした詩ではないかと言われている。文語訳では「訓諭(をしへ)のうた」となっている。英語訳には「告白と許し」という標題が付けられている。


この詩篇のテーマは「幸福な者とは誰か」である。それについての教訓を与える。私たちが詩篇を読むとき、単に祈りとしてばかりではなく、その一つ一つの語句の意味について深く考え、黙想し、そこから智恵や教訓を学ぼうとする。聖書の言葉は神の智恵の結晶であるから。ただ、その智恵は奥深く隠され(ヨブ記11:6)、人間の思いとは異なっている(イザヤ書55:8)という。

確かに、それは幸福についての考えにもいえるかも知れない。ここでは「神の戒めに背いたのに許された者、犯した過失を覆い隠された者」が幸せであるという。同じ詩篇の第一篇では、「主の教えを愛し、悪人と共に歩まない者」が祝福された者(アシュレー)、幸せな人とされ、さらに新約聖書においては、「謙虚な人(心の貧しい人)」「柔和な人」「悲しむ人」「正義を切望する人」「憐れみのある人」「心の清い人」「平和のために働く人」「正義のために迫害される人」たちは幸せであると言う。(マタイ書五章、ルカ書六章など)

こうした幸福観は、現代の日本の世間に一般的な考え方と比較してみればまったく異なっているように思われる。とくにキリスト教の幸福観については、まるで不幸が幸福で、幸福が不幸だといっているようにさえみえる。

いずれにせよ、今ここでは詩人は明らかに、幸福ではない。主の戒律に背き、過失を犯してしまったからである。しかもそれを心に秘めて沈黙を守っていたとき、主のみ手が、彼の良心に昼も夜も重くのしかかって来る。骨まで古びるようなその苦痛に詩人はうめき、夏の日照りに会ったように喉も渇ききろうとしている。

そこで詩人は耐え切れず、自分の犯した罪を認め、自分の犯した悪行を主の前に隠さずに告白することを決心する。そして、詩人が「自分の過ちを包み隠さず主に告げよう」と言ったとき、主は彼の犯した不法の罪をすべて許してくださった。だから詩人は忠告して言う。主に忠実な人々はみな、主を見出しうる間に、許しを求めて祈るべきであると。

そのとき困難が洪水のように押し寄せても、その人には及ぶことがない。主は苦難から詩人を守る隠れ場であるから。そして何よりも主は、救いの喜びを与えてくださる。

こうして、詩人は主に救われる歓びを知った。そして主は彼に言われる。あなたを悟らせて、あなたが歩み進むべき道を教えよう。そして忠告して言われる。馬やラバのようになるな。それらは鞭や棍棒でなければ言うことをきかない。分別や悟りもない。また危険だからそれらに近づくことのないようにと。

悪を行う者には悩みが多い。しかし、主に信頼するものは、主の愛によって守られる。罪の許されることがどれほど幸せなことか。だから、主に救われた正しい人は主において歓び踊れ、心のまっすぐな人は歓びに叫べと。


 

 

 

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詩篇第五十四篇注解

2006年07月15日 | 詩篇註解

 

詩篇第五十四篇            

指揮者たちの調べに乗せて。ダビデの教訓詩。
ジフの人々が来て、サウルに「ダビデが私たちのところに身を隠しているのではないか」と告げた。

神よ、あなたの御名によって私を救ってください。
そして、あなたの力によって、私を裁かれよ。
神よ、私の祈りを聴いてください。
私の語る言葉に耳を傾けてください。
私の見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、
凶暴な者たちが私の命を求めています。
彼らには自分の前に神はない。
見よ。神は私を救う者。
主は私の魂を支えられる。
私を狙う者たちに災いを返し、
あなたの真実によって、彼らを滅ぼしてください。
よろこんで私はあなたに生けにえを捧げ、
あなたの御名に私は感謝します。
主よ、それは良いことですから。
主はすべての苦難から私を救い出し、
私のこの眼に敵の滅亡を見せたからです。


詩篇第五十四篇注解                救いを求める祈り

ダビデのこの詩の生まれた背景は、旧約聖書サムエル前書第二十三章第十五節以下に書かれてある。
ダビデの名声が高まるにつれて、ダビデの主人サウルは自分の地位に不安を抱くようになり、ついにはダビデの命さえ付け狙うようになった。そのため、ダビデは荒野に逃れ、その要害の地にひそみ、ついにはジフの森に身を隠さなければならなかった。そのとき、ダビデを励ましたのが、サウルの長子ヨナタンだった。

そのときジフの人々は、サウルの許に来て、ダビデが自分たちの所に身を隠していることを告げた。それで、サウルは従者を引き連れ、ダビデの命を求めてジフの森の要塞にまで来た。そうした絶体絶命のときに、ダビデが主なる神に救いを求めて祈ったときの詩である。敵との戦いや苦難のときに救いを求める時の祈りとして読むことが出来る。

「教訓詩」と訳した「マスキール」の意味はもともと教えとか賢明なという意味らしく、そうした意義のある詩をマスキールと呼んだと思われる。

「御名によって私を救ってください。」
名は体を表すというが、神の御名は、神そのものでもある。だからユダヤ人は神の御名をみだりに唱えなかった。神みずから、ご自身で救ってくださるようにとダビデは祈る。

「力によって裁き」
裁きとは、力の行使に他ならない。歴史とは神による力の行使であり、また裁きでもある。ダビデは祈りと言葉によって、神の裁きを願う。
ダビデにとって異邦の民ジフの人々は、ダビデに抗って立ち、いまやダビデの敵サウルを案内してやってくる。ジフの人々は神を知らず、神を前にして祈ることもない凶暴な人々である。

しかし、祈りに応えて、神がダビデを助けられる。それは言葉ではなく確かな事実である。その恵みは現実である。だから、その事実を「見よ」(ヒネー)という。

「あなたの真実によって、彼らを滅ぼしてください。」
主は誠実な方、だから、真実にしたがって報いられる。これはダビデの変わらぬ確信だった。このときも、使者が来てペリシテ人が侵入してきたことをサウルに告げたために、サウルはダビデを追跡することを中止して急きょ引き返さなければならなかった。

救われたダビデは、喜んで神に感謝の犠牲を捧げる。感謝の祈りといけにえとを捧げられるのは素晴らしいことである。なぜなら恵み深い主は、すべての苦しみと悩みからダビデを救い出し、敵の敗北をダビデの眼に見せたからである。

 

 

 

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雅歌第八章

2006年07月03日 | キリスト教

雅歌第8章

1.(娘)
もしあなたが、私の母の乳房を吸った私の兄弟でしたら、
外であなたを見つけて口づけしても、誰も私をさげすまないでしょう。

2.私が育った母の家に、あなたをお連れして、
ぶどう酒やざくろ酒の、かぐわしい飲み物を差し上げましょう。

3.あなたの左手は私の頭の下に、右手は私を抱きしめて。

4.エルサレムの娘たちよ。私はあなたたちに誓ってお願いします。どうか、愛がおのずから望むまでは、ことさら起すことも目覚めさせることもないように。


5.(女たちの合唱)
恋する者に抱かれて、荒れ野から上ってくるのは誰ですか。

(娘)
りんごの樹の下で、私はあなたを呼び覚まします。
あなたの母はここでみごもり、苦しみのなかから、あなたを産みました。


6.
あなたの心に、私を印章のように刻み、
あなたの腕に、 私を印章のように刻んでください。


(女たちの合唱)
愛は死のように強く、妬みは墓のように残酷です。
愛は炎をあげて燃える石。激しく火花を散らす。

7.どんな大雨もそれを消し鎮めることは出来ない。
どんな洪水もそれを流し去ることは出来ない。
もし人が、住む家を抵当に入れて愛を買おうとするなら、
その人はさげすまれる。

8.(娘の兄弟たち)
私たちには幼い妹がいる。まだ乳房もない。
妹が求婚された日には、私たちはどうすればいい。

9.もし妹が城壁ならば、その上に銀のやぐらを建てよう。
もし妹が城門ならば、レバノン杉で打ち固めよう。

10.(娘)
私の胸は城壁で、乳房は二つの塔。私の愛しい人の眼には、それは歓びと安らぎです。

11.(女たちの合唱)
ソロモンはぶどう園をバアル・ハモンというところに持っていた。彼はそれを農夫に貸した。彼はぶどうの収穫のためにソロモンに銀貨一千を納めた。

12.(農夫たち)
ぶどう園は私たちのもの。ソロモン様、ぶどう園からの銀一千はあなたに、銀二百は農夫たちに。

13.(若者)
園に住まう愛しい人よ。友はあなたの声に耳を傾けています。どうか、どうか私にもあなたの声を聴かせてください。

14.(娘)
急いで、愛しい人。香り草の生える山にいる雄鹿や小鹿のように。

 

雅歌第八章注解


雅歌は、「ソロモンの歌」とも訳される。全篇はギリシャ歌劇のように、小さな戯曲としても味わえるのではないだろうか。

登場人物

若者(ソロモン)

合唱するエルサレムの女たち 

娘の兄弟たち

農夫たち

第八章はその最終章。とうとう最後になって、愛し合っている若者(ソロモン)と娘はお互いを見つけ出す。それまでは二人は互いを求めても見出せず、恋の病に冒され患ってさまよっていた。

とうとう恋する憧れの人ソロモンを見つけた娘は、彼を自分の生まれ育った母の家にいざなう。ソロモンは娘の本当の兄弟のようで、街角で口づけしても気にとめる人はいない。

娘は、母の家、自分の育った部屋に、取って置きのザクロ酒やぶどう酒をソロモンに用意している。それは彼女の愛の証し。しかしまた、娘は愛みずからが望むまでは、ことさらにそれを眼ざませることのないように、エルサレムの女たちに誓わせる。

娘は若者にいだかれて荒れ野を上って来る。そこに一本のりんごの樹があった。知恵の実をつけるりんごの樹。そのりんごの樹の下は、若者の母が身ごもったところ。そこで、娘は自分の愛が若者の身と心に刻まれることを願う。

愛とはどのようなものか。エルサレムの女たちは歌っていう。
愛は死のように強く、愛の妬みは墓のように残酷であると。
その熱情は炎のように燃え、大雨も洪水も消し鎮めることができない。
その愛を金で購おうとする者は軽蔑される。


娘の兄弟たちは、妹の純潔を心配してどう守ろうかと気遣う。しかし、娘は自分の乳房が若者を慰めることを知っている。
ソロモンはぶどう園をもっていた。そして、その管理を農夫たちに任せていた。そこから、地代としてソロモンは銀貨一千枚を得、農夫たちには労賃として銀貨二百枚を手渡す。

若者は、ぶどう園に住まう娘のきれいな声を聴きたいと思い、娘は早く若者が羊を世話する山から、小鹿のように自分のもとに駆け降りてくることを願っている。

ユダヤ人たちはキリスト者と同じように、自分たちを娘になぞらえ、若者ソロモンの愛を、父なる神の彼らへの愛の象徴と見る。若いソロモンの愛はまた、イエスの愛の前表でもある。


雅歌も黙示録のように、シンボルとして比喩として事柄を表現しようとしていて、その注解は難しい。どこまで正確を期せるかどうか。

 

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