海と空

天は高く、海は深し

伝道の書第十二章後半

2005年08月30日 | 宗教一般

『伝道の書』最終章でも智者は繰り返して言う。「空しいことの空しさ、すべては空しい。」(12:8)

これは、誰にも避けられない死を描写した前半の後に述べられた結論であり、語るにはあまりにも重い感想である。しかし、この虚無観にもかかわらず、伝道者は絶望にも陥らず、ニヒリストにもならなかった。そして次のように語る。

 

「伝道者は知恵あるがゆえに、つねに人々に知恵を教えた。伝道者は多くの格言を学び、それが真理であるか、心を尽くして吟味した。伝道者は美しい言葉を捜し求めた。彼の書き残した言葉は真実である。智者の言葉は、迷える羊を導く牧童の棍棒のようなもの、集められた格言は、堅く打たれた釘のように、揺らがない。それは、私たちすべての案内者である神から与えられたもの。

我が子よ、肝に命じておかねばならないのは他でもない。本を書くことには終わりがない。激しい勉強は身体を磨り減らす。

帰するところ、言うべきことはただ一つ。神を畏れ、神の戒めを守れ。私たち全ては、そのために造られたのだから。神は私たちの行為のいっさいを、善であれ悪であれ、隠れてなされたことのいっさいも、裁かれるだろう。」(9~14)

こうして、隠れた善悪のすべても裁かれる主なる神を畏れ、信頼して生きることを、全体の結論として『伝道の書』は閉じられる。

単純といえば単純である。素朴といえば素朴である。古代人の骨太な世界観であり哲学であると思う。こうした素朴な世界観、人生観を持って生きたに違いない古代人は、幸福であるといえば言える。近現代人は、果たして、このような伝道者の信仰を背景とする人生観、世界観に共感することができるだろうか。

 

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イスラエルのガザ入植地撤退完了

2005年08月24日 | 宗教一般

 

イスラエルの入植者がガザ地区から撤退したことが報じられていた。遠い中東の出来事で、郵政民営化問題に関する衆議院総選挙で騒いでいる今の日本から見れば、この古くて新しいイスラエル・パレスチナ問題は多くの関心を引くものではないのかも知れない。しかし、聖書の思想に生きようとする者にとっては、パレスチナの地は聖書の母なる土地であって、無関心ではいられない。


パレスチナの土地、すなわち、このカナンの土地は、神の召命に応えたアブラハムに神が約束した土地である。アブラハムはバビロニアのウルから父のテラと一緒にカナンの土地に向かったのであるから、アブラハムの故郷はもともとバビロニアである。(創世記第十一章第十二章)すなわち、今日のイラクが、イスラエルの始祖とされるアブラハムの本来の故郷なのである。しかし、フセインまでのイラクはイスラエルにもっとも敵対する国家だった。皮肉といえば皮肉である。


こうして、アブラハムの子孫がカナンの土地に来て以来、土着の住民たちとの軋轢は今日に至るまで絶えない。聖書に記されている民族同士の殺戮の歴史が現在に至るまで連綿として続いている。イスラエル・パレスチナ問題は聖書に記されているように、四千年来の問題である。おいそれと解決されそうにない。


パレスチナの地は人類の歴史が神の意志と出会う場所である。アブラハムがエルサレムの土地で、パンとぶどう酒でメレキデセクから祝福を受けて以来、この地はユダヤ教にとってのみならず、キリスト教にとっても、イスラム教にとっても聖地である。「神の平和」という名のエルサレムが諸宗教と諸民族が血で血を洗う、もっとも憎悪の深い土地となっている。

 

この土地に永遠の平和は訪れるのだろうか。それは、イスラム教過激派とユダヤ教狂信家たちが、血にまみれた闘争に互いに消耗し尽し、疲れ果て性根尽きるとき、そして人類の最終戦争の瓦礫の上に築かれる永遠の平和であるのか。自らの狂信と憎悪の愚かさに自ら気づくまで、その時まで平和は来ないのかも知れない。


宗教と民族の紛争は全世界至るところに存在している。つい数年前まで、セルビアとアルバニア人が、クロアチア、ボスニアなどの諸民族同士が民族浄化の名のもとに血みどろの死闘を繰り広げていた。それが、NATO軍の武力介入でようやく「平和」を回復したばかりである。スリランカでは仏教徒のシンハラ人とヒンズー教徒のタミル人との間に紛争がある。アフリカではルワンダでツチ族とフツ族の間で痛ましい虐殺行為があった。インドネシアにもかっての東ティモールとアチェで、またロシアとチェチェンでも紛争はいまだ解決せず、テロ行為が絶えない。中国でもチベット問題や台湾問題は、民族問題であり、かつ「宗教」問題でもある。


イスラエルとパレスチナの民族と宗教の紛争は、こうした人類に普遍的な民族、宗教戦争の中のもっとも象徴的な紛争であるということもできる。人類は、こうした紛争の解決のための普遍的な公式をまだ見出せずにいる。もし、イスラエルとパレスチナの民族に平和的な共存が実現できれば、その方式は人類の普遍的なモデルになりうる。


今回のイスラエルのガザ入植地撤退完了は、イスラエルとパレスチナの和平の一つの出発点となりうる。しかし、そのためには、パレスチナの過激派も狂信的な国粋主義ユダヤ教徒も民主主義を学ばなければならない。そして、そして、互いを民主主義的な主権国家として尊重しあうことなくして、エルサレムの平和は永遠の夢に終わるに違いない。それとも最終戦争によって、互いに自滅しあうかである。そして、民主主義の精神は、イエスの精神を自らのものとすることなくして実現できないのである。それは憎悪の果てに気づかれるものなのかもしれない。

 

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詩篇第十五篇註解

2005年08月21日 | 詩篇註解

 

詩篇第十五篇註解   義しき人

「幕屋」とあるように、キリスト教の起源が、砂漠や荒野などの地理、風土を背景とするユダヤ教にあること、特にモーゼの宗教にあることを示している。

 「誰があなたの幕屋に住み、聖なる山にすむことができるか。 」

この詩のテーマは「義しき人」である。「正しい」という日本語の概念とは少し異なっている。正義を行う人である。「聖」(カデーシュ)という観念も、日本人には比較的になじみの薄い観念であるといえる。「聖」は神のもっとも根本的な属性のひとつである。

イスラエル人は、エジプトを出ることによって、神に「聖別」された。聖別されるとは、世俗的な価値観から、神的な価値観に転換することである。人間の欲することではなく、神の欲せられること行うことである。ヘブライ民族も、宗教的指導者モーゼに率いられて、エジプトから脱出してから後、この民族はもっとも宗教的な民族になった。つまり聖別されたのである。以来ユダヤ人は、神の証人となった。神道でも、俗世の汚れや穢れを禊や清めによって清くする。宗教は諸民族の神についての、また悪や穢れに関する思想であり知識である。

イエスは神と等しい存在であるから、イエスには神の属性が余すところなく表れている。だから、新約聖書でイエスの人格を研究することによって、神の属性も明らかになる。イエスは旧約聖書に神の属性を深く学び、それを自分の性質として、生き、かつ死んだ。イエスの神の学びが徹底していたので、イエスと神は同格として、キリストとみなされるに至った。

 「聖」の反対概念は、「俗」である。つまり、聖とは、普通の世間の営みから切り離されていることである。聖書では、神の聖性はどのようなものと考えられているか。それについては、申命記や出エジプト記、特にレビ記などには、汚れたもの、穢れたものについての規定がある。神が何を清いものと考えられているか、モーゼが何を神の聖性として考えていたかは明らかである。流血、殺人、盗み、姦通などは忌むべきものとされる。

 何を神は求められているか。聖書では、神の似姿に近づくこと、これが人間の使命であるとされる。人間の使命は何か、これは、信仰者や哲学者が理性的に研究することも可能であろう。しかし、もっとも、それを明白に告知しているのは聖書である。最高の聖性は今のところ新約聖書のイエスにもっとも具体的に示されている。したがって、新約聖書を学ぶことなくしては、事実として、聖性についての認識を得ることができない。非聖書国民が、「聖」について意識に乏しいか、あるいは全くもたないのは当然である。

 「出世をしたい」とか「金儲けをしたい」とか言うのは、もちろん、神の性質であるとはいえない。聖書には、「神と富とに並び仕えることはできない」(マタイ6:24)と書かれてある。イエスは、このように人々に教えた。イエスは、この言葉をどのようにして自分の知恵とし、そして権威あるものとして、それを弟子たちに教えたのか。私たちは、これらのイエスの言葉をどう考えるか。

 富の獲得を至上の命題として生きている多くの人間にとっては、耳障りにも聞こえるかもしれない。彼と同時代に生きたナザレの人々でなくとも、そんな人物は、こんな言葉を吐くイエスを、丘の上から突き落としたくなるのではなかろうか。

 主をおそれ、すべてにおいて神に従う人、友に災いをもたらさず、利息や賄賂を取らない人、そういう人は、永遠に揺らぐことがないと詩人はいう。これが旧約の義人観である。新約では、自己の善性についての確信の揺らぎから、行為よりも信仰に「義」が求められるようになる。

 

 

 

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宗教研究の立場

2005年08月17日 | 宗教一般

 

このブログの目的は、ご覧のとおり宗教を研究することです。しかし、宗教といっても、実際には抽象的な宗教一般として存在するのではありません。実際に存在する宗教は、キリスト教、仏教、神道、イスラム教などの特殊宗教であり、カトリックやプロテスタント、日蓮宗や禅宗、浄土真宗などの個別宗教です。社会に存在するさまざまな個別的特殊的宗教をできうる限り多くの研究することを通じて、宗教の本質、宗教の概念に迫りたいと考えています。

 

ただ、どうしても私個人の趣好から、キリスト教や聖書に比重が行くのは避けられないかも知れません。というのも、私の問題意識は、もともとキリスト教の真理を科学的に認識することにあったからです。それにキリスト教は絶対宗教であって、最終的には「あれかこれか」の倫理的な選択を余儀なくされると思うからです。

とはいえ、この立場はその他の宗教を研究することを妨げるものではないと思います。仏教やイスラム教についても、視野に入る限り論及し、時には比較しながら研究してい行きたいと思います。

 

また、宗教研究といっても、それは本来的に伝道や宣教や教化を目的とするものではありません。もちろん、宗教を科学的に哲学的に研究して行く過程で、宗教に対する認識が深まり、「信仰」に至ることは当然にありうるかも知れませんが、この宗教研究自体は教化や伝道を目的とするものではありません。むしろ「信仰深く」あることには慎重でなければならないという立場に立つものです。

 

宗教を科学的に哲学的に認識するとはどういうことか。そもそも「科学」と「哲学」とはどう違うのか。宗教と哲学の違いについては、私たちは「宗教とは真理の表象的な認識」であり、「哲学とは真理の概念的な認識である」というヘーゲル哲学の立場と定義を承継しています。

 

ですから、私たちにとって、科学も哲学もほぼ同義であると言えますが、ここではさしあたって、さらに「科学とは個別的特殊的な次元での事物の論理的因果関係を認識すること」であり「哲学とは事物のもっとも普遍的な運動法則、弁証法についての研究である」ぐらいに定義しておきたいと考えます。

 

科学とは人間や自然および社会などの事物の存在や運動の因果関係の解明を目的とするのに対して、哲学とは狭義には、形式的には思考についての科学すなわち論理学であり、内容としては、真理や価値を研究対象としその概念的な把握を目的にしていることです。

 

したがって宗教を哲学すること、すなわち「宗教哲学」では、当然に物理学や天文学などとは異なって、単に因果関係の理法のみの認識に留まるものではなく、そこには「真理」や「人倫」などの概念の解明が中心的なテーマになります。このジャンルは特に現代日本人にとってもっとも縁遠い不人気な世界であるようです。

 

しかし、国民や民族が非宗教的であるということは、国民や民族が倫理的ではないことであり、絶対者と自覚的な関係を持っていないことを示しているのであって、これは必ずしも人間にとって名誉なことではないと思います。それは、ある意味では個人や民族の精神的な浅薄さを物語っているに過ぎません。o(*⌒―⌒*)oこうした問題も、宗教哲学の問題として、宗教社会学として論じて行くつもりです。

 

また、一方で最近になってアメリカ人が公教育に関して、聖書の記述が進化論に合致しているかどうかなどと議論しているようです。たしかにアメリカ人は日本人よりは宗教には自覚的ではあると思いますが、ヘーゲルも言うように「真実の宗教や真実の宗教性を人倫的精神の外部に求めるということは無駄なこと(精神哲学§552)」ですから、そうした議論は、私たちにとっては愚かなことであります。しかし、とはいえ、そうした議論がいっそう科学を発展させるという皮肉な現実も忘れるべきではないでしょう。現代世界において一般的にキリスト教民族がもっとも発達した科学技術を保持することになっているのも、この辺に理由がありそうです。もっとも宗教的な民族がもっとも科学的であるという事実によって、事物の弁証法はここでも貫かれているようです。








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JR福知山線脱線事故から一ヶ月

2005年08月05日 | 宗教一般

必ずしも宗教に関する研究とは言えなくても、宗教的意識についての事実を示す論考や小論も掲載して行きたいと思います。まあ、軽い宗教的なエッセイ、評論とでも言うべき内容です。

 

最近起きた事故としては、上の写真に掲げたJR福知山線脱線事故が凄まじい。こうした事故を見聞して改めてわかることは、私たち現代人の生活が、実に危険と隣り合わせに存在しているということである。

この列車に乗車していた人たちも私たちと異なった特別の存在ではなく、違った点といえば、たまたまこの列車に乗り合わせたということだけである。事故に遭われた人が私たちに比べて特別に罪深かったとか、悪人だったためではない。平均的に見れば、私たちとまったく同じ普通の人々だったろう。あたかも市民の日常生活の一区画が突然そっくり切り取られたに等しい。

乗客たちも、まさかこの朝に、通勤や通学の途上で、自分たちの人生が断ち切られるなどとは夢にも思わなかっただろう。大学生などの若者も多く、本人も遺族もやりきれない悔しい思いをされていると思う。言葉が切れる。

現代の生活は確かに便利になった。しかし、この便利さが科学技術の上に成り立ち、現代の科学がまだ極めて未熟なものであることを、この事故は改めて再確認させる。そして、これまできわめて安全な交通機関だと思われていた鉄道が必ずしもそうではなかったこともわかった。また、被害者の方々の怒りや憎しみが、JR西日本という鉄道会社の安全管理の企業の体質や労務管理の問題に向けられ、新聞記者の鉄道会社に対する取材上での行き過ぎた感情移入や、鉄道従業員に対する嫌がらせなど民衆のバッシング騒ぎも取り沙汰されることもあった。日本国民一般の精神における理性の確立の未熟さも教えている。

 

確かに今回の事故は、鉄道会社の安全管理、労務管理上に問題に大きく影響されているようである。列車の乗務員の労務管理に関する情報をもれ聞いても、そこには何か旧大日本帝国陸軍の精神主義を彷彿させるようなものがある。企業の体質として、あるいは日本人の国民の体質としても、そうした弱点を克服して、人間性尊重と技術合理主義をいまだ確立しきれないでいるようである。先進的であるはずの現代の大企業においても、労務管理や人間関係の多くの部面で、相変わらずの旧態依然としたものが少なくないことをうかがわせる。科学技術の導入や変革に比べて、人間関係や労務管理、さらには世界観や価値観などの精神や人倫関係を規定する思想や宗教の導入や確立はそれほど容易ではないのだろう。現代企業が人間性尊重と技術合理主義を確立し定着するためにはまだ歳月が必要なのかも知れない。

 

現代の企業は、市場競争でぎりぎりの所まで追い詰められている面がある。市場の競争によって、消費者、利用者の利便が著しく向上することも確かである。旧国鉄の解体と再編は絶対的な必要として行われた。それに大きな意義のあったことは否定し得ない。しかし、その「効率化」の追求が、消費者や利用者の安全を犠牲にせざるを得ないというのであれば、本末転倒としか言いようがない。列車の運行の安全も、運転手の職人的な技術に依存する点が大きく、自動列車停止装置(ATS)などの機械装置による安全確保もまだ十分に行き届いていなかったようである。早急な改善が望まれる。

 

しかし、どんなに安全に配慮しても、神ならぬ人間には、完全を期することは永久に不可能かも知れない。私たちの世代にうちに完全な安全を期待するのは不可能であると考えたほうが合理的である。20年前の過去にも日本航空機が、群馬県多野郡上野村・御巣鷹の尾根に墜落する事故があった。そして今回も被災者の遺族、関係者が生きている間は、事故の痛みは決して風化することはない。

 

死は避けられない。それは突然やってくるかもしれない。それは運命次第、神様の思し召しひとつのところがある。だから私たちにできることは、人間としてできることには万全を尽くし、その上で、常に次のような覚悟をしておくことかも知れない。

「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」 (ルカ伝12章)

「何もかも物憂い。かってあったことは、これからもあり、かって起きたことは、これからも起きる。太陽の下、新しいものは何一つない。昔のことを心に留めるものはない。これから先にあることも、その後の世には誰も気にも留めない。」(伝道の書 第一章)

ニュース源

 

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復活の問題について

2005年08月04日 | 宗教一般

 

日記にヨハネ書の読後感を書いていたら、「復活」について考えることになった。もう少し、深く考えたくて、こちらのブログに移して考えることにする。

「復活」の観念はもちろんキリスト教独自のものである。しかも、それはキリスト教の核心を成す概念である。

「復活」とは、十字架の上で処刑されて死んだイエスが、弟子たちや支持者たちの間に再び現れたと言う伝承に基づくものである。この復活の伝承が今日にまで至っている。

復活したイエスの肉体は、次のような特色を持っていた。

「マグダラのマリヤは復活したイエスを庭師と間違えた。(ヨハネ第20章第15節)」

「ユダヤ人を恐れて鍵で閉ざしていた部屋に復活したイエスは入ってこられた(20-19)」

「実際に復活したイエスを見るまで信じなかったトマスに対して、イエスは『私を見ることなくして信じるものは幸いであると言われた』(20-29)」

「夜が明けたころ、イエスは岸に立っておられたが、弟子たちはそれがイエスであることに気がつかなかった(21-4)」

「エマオに向かいつつあった二人の弟子は、目が遮られていたために同行しつつあった者がイエスであることに気がつかなかった(ルカ24:16)」

 

「弟子たちは復活の話をはじめて聞いたとき、たわごとのように思われたので、婦人たちの言葉を信じなかった。(ルカ24:10-12)」

「弟子たちは、はじめは亡霊を見ていると思ったが、イエスの手足を見、触れて初めて、復活したイエスが肉も骨もある身体であることがわかった。(ルカ24:37-39)」

「イエスの復活を信じきれない物分りの悪い弟子たちに、イエスは、モーゼと預言者たちからはじめて、聖書全体についてご自分の語られているところを説明された。(ルカ24:25)」

しかし、

「彼らの目があけられるまでは、イエスであることがわからなかった(24:31)」

以上の記事からわかることは、「心眼が開かれる」ことによってイエスのご肉身の復活が信じられるということである。この心眼が開かれることが悟ると言うことである。

こうして、「イエスは弟子たちの間に復活され、復活されたイエスは、天に上げられた。(ルカ24:51)」

 

「あなたたちは主のなされた奇跡と驚くべきことを見た。しかし、主は今日に至るまで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。(申命記29:2)」とある。

 

 

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