海と空

天は高く、海は深し

日々の聖書(7)――唯一の主

2006年11月30日 | 日々の聖書

日々の聖書(7)――唯一の主

日の昇る所から来る者も、日の没する所から来る者も、私の他に神はないことを彼らは知るだろう。私は主であり、私に並ぶものはない。

私に立ち返れ。そうすれば救われるだろう。地の果てから来る者たちよ。私は神である。並ぶものはない。

(イザヤ書第四十五章第六節および同章第二十二節) 

               
パレスチナから見て、日本は明らかに日出ずるところの国である。イザヤは
やがて全世界から唯一の主なる神を求めて人々の立ち返ることをこうして預言している。

紀元前六世紀頃のユダヤ人たちは、彼らの腐敗と堕落のために主なる神より裁きを受ける。バビロニアの王ネブカドネザルによってエルサレムの町と神殿は破壊され、王たちは拷問を受け、殺される。主だった住民もバビロンに連れ去られた。

しかし、裁きを受けたイスラエルもやがて主に立ち返って贖われ、解放される。上の言葉は主なる神が、ユダヤ人にパレスチナ帰還を許したペルシャのキュロス王に対して、イザヤを介して告げられた言葉である。こうしてバビロンに捕囚されたユダヤ人たちは解放される。

聖書においては神はこのような存在として教えられている。預言者や使徒たちら知恵ある人々によって書き記された、聖書のさまざまな物語や啓示や教訓などを通じて、神について知ることができる。

聖書の神は、絶対的な一者として教えられる。また、神は被造物のように有限ではなく、無限であり永遠の存在である。

また絶対的な存在であるから、唯一である。絶対的なものが二つとしてあるわけがない。二つあるのものは絶対的ではありえない。

神は何ものによっても侵されない。神聖にして人間から隔絶した方である。また、神は万物を創造し、自然と歴史の摂理を通じてみずからの意思を実現する絶対的な力である。その力によって神はまた裁かれる方である。

神はまた恵みであり愛である。それは被造物をそのままに存在を許される方であるから。神は悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせる方である。

日の昇る所から来る者も、日の没する所から来る者も、私の他に神はないことを彼らは知るだろう。私は主であり、私に並ぶものはない。

私に立ち返れ。そうすれば救われるだろう。地の果てから来る者たちよ。私は神である。並ぶものはない。

(イザヤ書第四十五章第六節および同章第二十二節)

 

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日々の聖書(6)――人間の分別と神の知恵

2006年11月27日 | 日々の聖書

日々の聖書(6)――人間の分別と神の知恵

心を尽くして主に頼り、決してあなた自身の分別に寄りかかってはならない。   
(箴言第三章第五節)                

私たち現代人は個性を大事にし、自分たちの自意識と知識を最高の価値として誇っている。何人にとっても自分ほど大切なものはない。そして、自分のもてる知識と教養を誰しも誇る。現代人はお互いに学歴を最高の栄誉としている。受験が戦争と化しているわが国の現実を見よ。

しかし、聖書は必ずしもそうは教えない。現代人が金科玉条のように大切にする個性とは、本当にそんなに貴重なものだろうか。現代教育がモットーとするほどに、人間各自の個性には価値があるのだろうか。人間は弱いもの、間違うもの、過つものとして、自分とはもっとも頼りにならない者であると教える。むしろ、自分の分別に頼ってはならない、と言う。人間の個性など、もっとも価値なきものではないのか。

人間は自分自身が賢明であると思うほどには賢明ではない。だから決して、自分の奇抜な思いつきや思考に思い上がり、自惚れてはならないと忠告する。          (同章第七節)

聖書が教えるのは、惨めで間違いやすい自分の考えにしたがって生きるのではなく、真の叡智である主を畏れ、神の知恵を見出すものが幸せであると言う。

心を尽くして主に頼り、決してあなた自身の分別に寄りかかってはならない。   
(箴言第三章第五節) 

 

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日々の聖書(5)――人間の努力

2006年11月26日 | 日々の聖書

日々の聖書――人間の努力

 

そして私は見た。人間の成功をめざして行なうすべての骨折りは、隣人の持ち物を妬んでのことであることを。これもまた空しい、心の虚しさである。       (伝道の書第四章第四節)                

 

現代人は今日もまた働き蜂のように、アリのように勤勉に働きつづける。とくに日本人やドイツ人などは勤勉な民族だと思われている。
砂漠の民やラテン民族などは、日本人ほど几帳面でもなければ、働き蜂でもないかもしれない。

それにしても、いったい人間がこれほど勤勉に働く本当の動機は何なのだろうか。もちろん、それはまず衣食住の充足のためであることは言うまでもない。しかし、ただそれだけだろうか。単に、飲んで食べて着て、そして住まい、交わるだけであるなら、たとえ日本人であっても、こんなに過労死するほどに働かなくても済みそうである。

しかし、いわゆる資本主義社会では、人間の欲望は社会的に作り出されるものである。とくに、社会の構造上からも、企業は利益の追求と獲得とを余儀なくさせられるから、社会的動物で見栄っ張りの人間の欲望はそれでなくとも否が応でも刺激され、駆り立てられる。

欲望とは絶対的なものではなく、相対的なものである。現代先進国の私たちの私有する財産は、アフリカやエスキモーの人々の何百倍に達しても、それでも、先進国の人々はその富を隣人と比較させられるかぎり、貧困感から来る疎外感は避けられず、隣人以上の富の獲得をめざして駆り立てられる。

この人間的な真実は、何も現代人のみに留まらないようである。聖書の『伝道の書』の著者であるコヘレトもすでに数千年前に、富と成功をめざして努力する人々たちの、倦むことも疲れることも知らない人間の骨折り、労苦を見ていた。そこに真の安息から遠い人間の心の営みを見て、人間の心の働きの本来的な虚しさを歌う。日本のつれづれ草の兼好法師も、差し迫る死を忘れてアリのようにうごめきまわる人々を描写していた。

改めて、静かに聖書などを精読、黙考しながら、本能的に刺激されて虚しく働きまわる思考回路を一度は断ち切って、私たちの骨折りや人生の意義を反省する機会を持ちたいものである。

 

 そして私は見た。人間の成功をめざして行なうすべての骨折りは、隣人の持ち物を妬んでのことであることを。これもまた空しい、心の虚しさである。       (伝道の書第四章第四節) 



 
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日々の聖書(4)――私の彼

2006年11月22日 | 日々の聖書

日々の聖書(4)

夜ごと寝床に、私は心より愛している人を捜し求めました。私は彼を捜しました。しかし、見つけることができませんでした。(私は彼を呼びました。しかし、彼は私の声を聴きませんでした。)

(雅歌第三章第一節)
※()内は、七十人訳聖書のみ。

SEPTUAGINT(セプチュアギント)の訳者 Brenton氏の訳

By  night on  my  bed  I  sought  him whom  my  soul  loves :
I  sought  him , but   found   him  not ;
I  called   him,  but  he  hearkened  not  to  me.

私の彼


人間にとって出会うべき人と出会えないことほど哀しいことはない。
生涯に出会うべき愛しい異性に出会えないことは、どれほどつらく悲しいことだろう。だから彼や彼女たちは、自分たちが出会うべき人と出会えるよう、必死になって捜している。

今日のように携帯電話やネットが発達して、出会系サイトなどが繁盛するのも、やはり、人がどれほど出会うべき人に出会うことに憧れているかを示すものだろう。

だから、人は自分の愛する人にいまだ出会い得ないことほど切なく哀しいことはない。彼女はそのとき、夜ごと寝床の上で、切なくため息をつき、愛する人と出会えぬゆえの孤独とさびしさに心で泣いている。

この雅歌の主人公である娘も、いまだ恋い慕う彼に出会うことができなかった。彼女は床から起きだし、部屋を出て、通りや広場に愛する彼を捜し求める。最後には娘は彼を見つけるけれども、彼を見失っているときの彼女の気持ちはどれほど不安で切ないものだったろうか。

信仰する者が、愛する神を見失ったときの気持ちも同じなのかも知れない。

夜ごと寝床に、私は心より愛している人を捜し求めました。私は彼を捜しました。しかし、見つけることができませんでした。(私は彼を呼びました。しかし、彼は私の声を聴きませんでした。)

(雅歌第三章第一節)


 

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日々の聖書(3)――日曜日(第七日)

2006年11月19日 | 日々の聖書

日々の聖書(3)

第七日めに、神は行っていたご自分の仕事を終えられ、そして、第七日めに、神は行なっていたご自分のすべての仕事から離れて、お休みになられた。     (創世記第二章第二節)

日曜日

今日は日曜日で休日である。キリスト教に言う安息日である。ユダヤ人は、金曜日の日没から土曜日の日没までは、SABBATH(サバス)と呼んで、この時間は完全に日常の仕事から解放される。この安息日のSABBATH(サバス)の語源には、第七日めという意味が含まれているのではないだろうか。SEVENという語と発音も似ている。

それはとにかく、今日の欧米のキリスト教国では、昔ほどにはその宗教的な意義は自覚されていないにしても、それでも人々の意識の奥底には、日曜日のその宗教的な意味合いは残されて底流していると思う。

しかし、わが国のように仏教、儒教、神道の伝統の国では、そもそも一週間や日曜日という時間のサイクルさえなかった。お盆やお彼岸など祝祭日にはもちろん、仏教や神道などの宗教的な意味は残されているが、しかし、今日の日曜日は、キリスト教徒以外には、全く宗教的な意味を持たない。日曜日は単なる休日であって、そこには何の宗教的な色彩もない。

せめてキリスト教徒の間では、日曜日を「聖日」と呼ぶようにすれば、この一週間の中の日曜日という日の貴重さを、もう少し実感できるのかも知れない。少なくとも欧米のようなキリスト教の伝統のある国々のように、日曜日を聖日として、ただでさえ忙しい日常の仕事から日本人も完全に解放されて、家で静かに家族と団欒に過ごす時間を持つようにすればよい。

一週間のうちに、せめて日曜日くらいは家族と食卓を囲み、子供や妻たちと日ごろ話し合えないようなことを話題にしたり、また家族と一緒に音楽を聴いたり、流行の小説を話題にしたり、またできれば聖書の一節を朗読しあったりする時間を持つようにすればよい思う。

週に一度巡ってくるこの日曜日を、神のために捧げる感謝の一日として、子供や妻との団欒の日にすれば、離婚や、その結果として起きる幼児虐待や、さらには子供たちの自殺など、わが国で今日おぞましく流行している悲劇も、少しは防ぐことにもなるのではないだろうか。日曜日を聖日として、神様に倣って、この世のための仕事から完全に解放される時間を持ちたいものである。

第七日めに、神は行っていたご自分の仕事を終えられ、そして、第七日めに、神は行なっていたご自分のすべての仕事から離れて、お休みになられた。     (創世記第二章第二節)

 

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七十人訳聖書(ギリシャ語訳旧約聖書)

2006年11月17日 | キリスト教

 

昨日、七十人訳聖書が届いた。長い間欲しかった本だ。日本ではまだそれほど聖書研究などは普及していないから、なかなか手に入らなかった。洋書を取り扱っている書店などで探せば、すぐに手に入ったのだろうけれども、学者ならぬ世界の狭い私には縁が遠かった。しかし、ネットのアマゾンなどを通じて、自分のような無学の者にも洋書は身近になって、手にすることができた。本人のやる気次第ということなのだろうか。
装丁も美しく、値段もそんなに高くもない。関心のある人には価値ある本だと思う。

このSEPTUAGINT(セプチュアギント)の序言を読んでみた。
最初に出版されたのはロンドンで、1851年だという。この本自体はアメリカで印刷されている。本文の英訳者は、Sir Lancelot Charles Lee Brentonという人である。Sirがついているから、貴族だったのかも知れない。ただ、(1807-1862)と表記されているから、五十五歳程度でこの人は亡くなったらしい。カトリック系の人だったのかプロテスタントの人か今のところそれは分からない。

この本には古典ギリシャ語であるコイネーに翻訳された旧約聖書と、その英語訳が併記されている。序言によれば、このSEPTUAGINT(セプチュアギント)は、紀元前285年から247年ごろに、プレトミー・フィラデルフス治世下のエジプトのアレキサンドリアで、七十人もしくは七十二人のユダヤ人学者たちによって当時のギリシャ語に翻訳されたそうである。

英語訳の聖書もたまには読むこともあるけれど、現在私の使っているのは、日本聖書協会から出版されている和英対照の新共同訳聖書だから、誰が訳したのかは分からない。この七十人訳聖書で、サー・ブレントン氏は旧約聖書をどのような英語に訳しているのだろうか。優れた個人訳であれば貴重である。若くして亡くなられたブレントン氏の不朽の仕事なのかも知れない。

それにしても、ユダヤ人ならぬ私たちには、ヘブライ語の旧約聖書を私たちの本とすることができない。私たちの旧約聖書としては、やはり、このギリシャ語訳旧約聖書しかない。七十人訳聖書、SEPTUAGINT(セプチュアギント)が新約聖書とならんで私たちのよるべき最終的な聖書であると思う。

 

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日々の聖書(2)

2006年11月16日 | 日々の聖書

日々の聖書(2)

「かってあったことは、これから先もあり、かって行われたことは、これからも行われる。太陽の下に新しいものはない」(伝道の書第一章第九節)

民族の質

教育基本法の改正が国会の日程に上っている。安部内閣は「美しい国」造りを目指すという。決して、悪いことではない。目指せばよいと思う。しかし、その結末は明らかである。「美しい国」は実現しない。私がそのように考える理由は次のようなものである。

「人は石垣、人は城」と武田信玄が言ったように、国家や民族の質は、それを構成している人間の質によって決まる。そして、その人間がどのような人間であるかは、その人間の崇拝する神によって決まる。この道理は自然の法則と同じで、神の摂理であって真理であるから、人間の恣意で勝手に都合よく変更できるものではない。

ちょうど小泉前首相や安部首相によって行われようとしている日本の政治の改革も、もちろん全く無駄であるとは言わないが、底の浅い改革で、所詮はたいした効果をあげ得ないことは明らかだろうと思う。理想の高い私たちの眼には、そんなものは改革の名にも値しない。だから、そうした改革に希望を託したとしても、失望するに至るだけだと思う。

教育についても同様である。真実の神を教えるという根本を避け、それを外した功利主義的な教育で、人間と国民の質を改革できると彼らは思っている。人間の根本の質を変えないで、どれほど多くのお金と労力を注ぎ込んでも、国民が期待するような成果をあげ得ないことは、日を見るよりも明らかである。

教育諮問会議が安部内閣の許でも持たれる。しかし、それも結局、文部科学省の役人や政治家たちの仕事と飯のネタを提供してやるぐらいの意義しかないだろうと思う。率直に言って税金の無駄である。


かって受験本位の教育を改善しようと鳴り物入りで始まった「ゆとり教育」が否定され、今では諸悪の根源のように非難されている。新しい教育改革で理想の教育が実現できるなら、実行してみればいい。それは「教育の改革」を目指したい人たちに任せるしかない。しかし、真理は頑強である。根本のゆがみが正されるまでは、枝葉末節をいくらいじったところで問題は解決されないだろう。


要するに、国家と国民の質、民族の質、人間の質が改まらない間は、教育基本法であれ憲法であれ、どのような法律を制定し、さまざまな会議、タウンミーティングを開催し、どのような政治が行われようとも、「この世」は昔のままの「この世」でありつづけるだけである。私たちは人間に期待することは止めようと思う。神のみに希望を託そう。それも一つの知恵だと思っている。

 「かってあったことは、これから先もあり、かって行われたことは、これからも行われる。太陽の下に新しいものはない。」(伝道の書1:9)

 

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日々の聖書(1)

2006年11月15日 | 日々の聖書

日々の聖書(1)


聴く耳のあるものは聴くべし。(マタイ書第13章第43節)


青少年の頃より愛読してきた聖書は、今も、相変わらず私の座右にある。おそらくこれからも終生私の傍らにありつづけるのだろうと思う。

ただ最近、歳もとったせいか、日々の生活の中で聖書を繙読していて、感じたこと考えたことをもう少し簡単に記録してゆきたいと思うようになった。もう少し日常的に、「日々の聖書」という形で聖書についての「感話」というか感想を記録して行こうと思う。もちろん、宗教や哲学に関する学問的な個人的な研究も蓄積してゆきたいと思っている。だから、それら宗教や哲学に関する専門的な記事は、「海」や「夕暮れのフクロウ」といったブログに記録して行くつもりだ。
日々の生活の営みに忙しい人々にそれらが無縁であるとしてもやむを得ない。


それにしても最近、多くの不愉快な事件が、この日本社会にも著しく目に付くようになった。私自身は戦後の生まれであるけれども、おそらく、日本国民の質が、太平洋戦争の敗北を契機として、明らかに変質してきていると思う。戦前や明治期の日本人と明らかに異なってきているという印象をもっている。

よくなっているかと言うと、必ずしもそうはいえないと思う。最近の率直な感想として、一昔前よりも日本人の風貌に「品格と深み」がなくなってきていると思うようにもなった。もちろん、現在の若者たちにはそんな印象も自覚もないだろうと思うけれど、まあこれは、私のアナクロニズムがはなはだしいせいだけかも知れませんが。

たしかに現代の大人たちの多くは、自分たちの金儲けなどに必死で、青少年のことを決して本当に考えて行動しているとはいえない。むしろ、青少年たちが大人たちに金儲けの食いものにされている。


そうしたなかで私が青少年の頃より人生の指針としてきた聖書の言葉に、現代の青少年たちの目にも触れ耳にして、またそれが彼らの人生の何らかの指針にもなれば、決して無意味ではないとも思う。

幸いにして、こうしてブログなどの形で、容易に発信できる時代になったのだから、これを活用しない手もないだろうと思う。そこで、彼らの間に何らかの議論も広がれば、そして、それが少しでも将来の国家や国民の何らかに役立つならば、決して無意義ではないかも知れない。


「聴く耳のあるものは聴くだろう。」(マタイ書13:43)

 

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イエスの証明について―――ヨハネ書第五章第三十一節以下

2006年11月10日 | ヨハネ書註解

イエスの証明について―――ヨハネ書第五章第三十一節以下

もし私が私について証言するなら、私の証言は真理ではない。
私について証言する方は他にいる。そして、その方が私について保証される証しこそ真理であることを、私は知っている。
あなた方はヨハネの許へ人を遣わした。そのとき彼は真理について証しをした。
しかし、私は人からの証は受けない。それにもかかわらず、あなた方が救われるように、これらのことは言っておく。
ヨハネは燃えて輝く明かりだった。
あなたたちは、しばらくの間、彼の光の近くで楽しもうとした。
しかし、私はヨハネに勝る証言を持っている。
父が私に成し遂げるようにお与えになった仕事が、私が行っている仕事そのものが、父が私をお遣わしになったことの証しである。
そして、私をお遣わしになった御父ご自身が私についてお証しになっておられる。あなた方は父の声をかって聴いたこともなければ、その姿を視たこともない。
そして、あなた方の中に父の言葉を留めていない。というのは、父がお遣わしになったその人を信じていないからだ。
聖なる書を調べよ。その中にあなた方は永遠の命を得ると考えているからだ。まことに、それらは私について証しをするものである。
しかし、あなた方は命を得るために私のそばに近づこうとしない。
私は栄誉を人から受け取らない。
むしろ、あなた方の中には神への愛のないことを私は知っている。
私は父の御名において来た。しかし、あなた方は私を受け入れようとしない。もし、他の者が彼自身の名において来れば、あなた方は彼を受け入れるだろうに。
どうしてあなた方は信じることができるだろうか。お互いの栄誉は
受け取るのに、ひとり神からの栄誉だけは求めようともしない。
私があなた方を父に訴えるだろうなどと考えるな。あなた方を訴える者がいる。それはあなた方が信頼しているモーゼその人である。
というのは、もしあなた方がモーゼを信じていたなら、あなた方は私をも信じていただろうから。彼は私について書いたのだから。
それなのに、あなた方が彼の書いたものを信じないなら、どうして私の言葉を信じるだろうか。

ヨハネ書第五章後半註解

イエスが神の子であることを、一体誰が証明するのだろうか。イエスがユダヤの人々の間に、みずから神の子と名のり、多くの奇跡を行われていたときである。みずから神の子と名のるこの驚くべきイエスの言葉をユダヤの人々が聞いたとき、彼らがイエスの言葉に反発したことは容易に察しつく。「彼はヨセフの息子のイエスで、我々はその父も母も知っている。」(第六章)イエスが神の子であるなど、信じることができようか、誰が、イエスの言葉が真理であることを証明するのか。

それについてイエスは自分勝手に神の子であることの証を行っているのではないと言う。自分で自分を証しするのは真理ではありえない。
そこでユダヤ人たちは彼らが信じていた洗礼者のヨハネの許に人を遣わして、彼の意見を訊こうとした。そのとき洗礼者ヨハネは「自分はメシアではない。御父は御子を愛してすべてをその手に任せられた。聖霊によって洗礼を授けるイエスこそが神の子である」と言って証言した。(第一章)

ここにイエスと彼に先行した洗礼者ヨハネとの人格的な思想的な類縁関係を見て取れる。

確かにヨハネは世の光ではあったが、しかしイエスは人間ヨハネによる証を求めなかった。イエスが神の子であることを証明するものは何か。それは死すべき人間などによって証をされるものではない。イエスはその証を人間に求めようとはしなかった。イエスはご自身の仕事がそれであると言う。イエスの言葉と行い、その全生涯が神の子であることを証しているという。

そして継いで、イエスが神の子であることは聖書が証明していると言う。このとき、まだ新約聖書は成立していなかったから、聖書とはモーゼの五書などをさすが、聖書の中に永遠の命があるとユダヤ人たちは考えて、熱心に聖書を調べていた。それをイエスは、自分を知ることが永遠の命を得ることであると言い、聖書はそれを証していると言う。

それなのに、人々はイエスのところに来ようとはしない。なぜか。それは彼らの心に神への愛がないからであり、人からの栄誉は求めるのに、ただひとり神からの栄誉は求めないからであるとイエス言う。イエスはただ神からの誉れのみを求めていた。その純粋と徹底のゆえに彼のみが神の子と認められた。

そして、同胞のユダヤ人からも受け入れられないイエスは、最後に、
ユダヤ人が砦と頼むモーゼ自身がユダヤ人たちの不信を告発するだろうと言う。モーゼの書いたのはイエス自身についてであるから、モーゼの書いたことを信じていないからこそ、イエスの語ることも信じられないのである。父なる神から遣わされた使命の孤独と悲しみをイエスはこのとき深く感じたことだろうと思う。

イエスのこの言葉は、もちろんイエスご自身の存命時だけの話ではない。イエスに出会うとき、イエスから人はすべてこのイエスの言葉をなげかけられる。
「もしあなた方がモーゼを信じていたなら、あなた方は私をも信じていただろうから。彼は私について書いたのだから。
それなのに、あなた方がモーゼの書いたものを信じないなら、どうして私の言葉を信じるだろうか。」

06/11/14追加

イエスが神の子であることを証言するのは、こうして、それぞれの信仰者の精神であるが、ここでは神が、抽象的な父なる神としてではなく、神の子として、イエスという歴史的にして現実的な一個の人間として認識されている。だから、キリスト教の立場からは、イエスを知らない者は神を知らない。キリスト教だけが人間イエスのみを神の子として、神的な存在として認めている。

しかし聖霊が降った後は、神の子であることを証言するものは、イエスの業である奇跡ではもはやなく、イエスが真理であることについての人間の理性的な精神の絶対的な確信である。その確信は信仰する人間の精神そのものである。しかし、それはまだ信仰であり、絶対的な感覚的な確信であって、概念的な証明にまでは達していない。もちろんその証明は哲学の課題であって、宗教はただ人間の精神に神の表象を啓示し、人間の精神に神の精神を知らせ、その境地へと高めることにある。この信仰における知識の絶対性についての主観的な確信が証言となる。ただカトリック教においては教会の教義がその証言になる。

 

 

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『薔薇の名前』と普遍論争

2006年11月08日 | キリスト教
 

 

もう何年が過ぎただろうか。『薔薇の名前』という小説が、世界的なベストセラーになり、また、ショーン・コネリーの主演で映画化もされたことが記憶に残っている。

この小説の主人公である修道僧アドソの師はイギリス人のフランチェスコ会修道士でバスカヴィルのウィリアムといい、同じイギリスのフランチェスコ会修道士で唯名論者として知られていたオッカムのウィリアムと友人であったという舞台設定になっている。そして、異端審問官であり学僧でもある彼はまた、イギリスの経験論の祖ロジャー・ベーコンにみずから弟子として私淑していることになっている。

この小説は小説家ならぬイタリアの記号論言語学者にして文献学者でもあるウンベルト・エコの手になる作品である。それは一見書籍誌らしい小説で重層的な構造になっているらしいことである。ヨーロッパの修道院や教会の建築のように、石造りの城郭のように堅牢な歴史の風雪にたえうる小説のような印象を受ける。

それにしても興味をそそられるのは、もちろんこの作品が文献学者が書いた小説であるといったことよりも、この小説の中で、主人公アドソの師バスカヴィルのウィリアムの友人として、実在の唯名論者オッカムのウィリアムが取り上げられていることである。

唯名論というのは実在論の対概念であって、ヨーロッパの哲学・神学史においては、この二つの哲学的な立場から行われた論争は―――いわゆる「普遍論争」として―――歴史上もよく知られている。もちろん、こうした論争は、ソクラテス・プラトン以来の西洋のイデア論の伝統の残された世界でしか起こりえない。

私たちが使っている言葉には概念が分かちがたく結びついている。中には、ゲーテの言うように、概念の無いところに言語が来る人もいるとしても。

この概念は、「普遍」と「特殊」と「個別」のモメントを持つが、はたして、この「普遍」は客観的に実在するのかということが大問題になったのである。

たとえばバラという花が「ある」のは、もちろん誰も否定できない。私たちが菊やダリアなどの他の植物から識別しながら、庭先や植物園で咲き誇っている黄色や赤や白いバラを見ては、誰もその存在を否定することはできない。

バラの美しい色彩とその花びらの深い渦を眼で見て、そして、かぐわしい香りを鼻に嗅いで、枝に触れて棘に顔をしかめるなど私たちの肉体の感覚にバラの実在を実感しておきながら、バラの花の存在を否定することなどとうていできないのは言うまでもない。それは私たちの触れるバラの花が、個別的で具体的な一本一本の花であるからである。

それでは「バラという花そのもの」は存在するのか。「バラという花そのもの」すなわち「普遍としてのバラ」は存在するのか。それが哲学者たちの間で大議論になったのである。

この問題は、「バラ」や「船」「水」のような普通名詞であれば、まだわかりやすいかもしれない。それがさらに「生命」や「静寂」、「正義」や「真理」などの、私たちの眼にも見えず,手にも触れることのできない抽象名詞になればどうか。「鈴木さん」や「JACK」などの一人一人の人間や「ポチ」や「ミケ」などの犬猫の個別の存在は否定できないが、それでは「生命そのもの」「生命」という普遍的な概念は客観的に存在するのか。あるいはさらに、「真理」や「善」は果たして客観的に実在するものなのか。

この問題に対して、小説『薔薇の名前』の主人公アドソの師でフランチェスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムは、唯名論者オッカムのウィリアムらと同じく、「バラそのもの」は言葉として存在するのみで、つまり単なる名詞として頭の中に観念として存在するのみであるとして、その客観的な存在を認めなかったのである。

話をわかりやすくするために、「バラそのもの」や「善」などの「抽象名詞の普遍性」を「概念」と呼び、そして、「バラ」の概念や、「善」といった概念は、客観的に実在するのか、という問いとして整理しよう。

この問題に対して、マルクスやオッカムのウィリアムなどの唯物論者、経験論者、唯名論者たちは、概念の客観的な実在を認めない。それらは「単に名詞(名前)」にすぎず、観念として頭の中に存在するだけであるとして、彼らはその客観的な実在性を否定する。唯物論者マルクスたちの概念観では、たとえば「バラ」という「概念」ついては、個々の具体的な一本一本のバラについての感覚的な経験から、その植物としての共通点を抽象して、あるいは相違点を捨象して、人間は「バラ」という「言葉」を作ると同時に「概念」を作るというのである。

だから、経験論から出発する唯物論者や唯名論者は、マルクスやオッカムのウィリアムたちのように、概念の客観的な実在を認めないのである。

しかし、ヨーロッパ哲学の伝統というか主流からいえば、イデア論者のプラトンから絶対的観念論者ヘーゲルにいたるまで、「概念」すなわち「普遍」は客観的に実在するという立場に立ってきたのである。(もちろん、私もこの立場です。)

これは、「普遍」なり、「概念」なりをどのように解するかにかかっていると思う。マルクスやオッカムのウィリアムのような概念理解では、唯名論の立場に立つしかないだろう。唯名論者に対して、プラトンやヘーゲルら実在論者の「普遍」観「概念」観とはおよそ次のようなものであると思う。

それはたとえば、バラの種子の中には、もちろん、バラの花や茎や棘は存在してないが、種子の中には「バラという植物そのもの」は「観念的」に実在している。そして、種子が熱や光や水、土壌などを得て、成長すると、その中に観念的に、すなわち普遍として存在していた「バラそのもの」、バラの「概念」は具体的な実在性を獲得して、概念を実現してゆくのである。そういう意味で、「バラそのもの」、バラの「普遍」、バラの「概念」は種子の中に客観的に実在している。

これは、動物の場合も同じで、「人間そのもの」、人間という「普遍」、人間という「概念」は、卵子や精子の中に、観念的に客観的に実在していると見る。

ビッグバンの理論でいえば、全宇宙はあらかじめ、たとえば銀河系や太陽や地球や土星といった具体的な天体として存在しているのではなく、それは宇宙そのものの概念として、無のなかに(あるいは原子のような極微小な存在の中に)観念的に、「概念として」客観的に実在していると考える。それが、ビッグバンによって、何十億年という時間と空間的な系列の中で、宇宙の概念がその具体的な姿を展開してゆくと見るのである。プラトンやヘーゲルの「普遍」観、「概念」観はそのようなものであったと思われる。

唯名論者や唯物論者たちは、彼ら独自の普遍観、概念観でプラトンやヘーゲルのそれを理解しようとするから、誤解するのではないだろうか。

小説『薔薇の名前』の原題は『Il nome della rosa 』というそうだ。この日本語の標題には現れてはいないが、「名前」にも「薔薇」にも定冠詞が付せられている。定冠詞は普遍性を表現するものである。だから、この小説は「薔薇そのもの」「名前そのもの」という普遍が、すなわち言葉(ロゴス)そのものが一冊の小説の中に閉じ込められ、それが時間の広がりの中で、その美しい花を無限に咲かせてゆく物語と見ることもできる。主人公の修道僧メルクのアドソが生涯にただ一度出会った少女のもつ名前が、唯一つにして「普遍的」なRosaであるらしいことが暗示されている。

それにしても、小説『薔薇の名前』はまだ本格的には読んでいない。何とか今年中には読み終えることができるだろうと思う。書評もできるだけ書いてみたい。映画もDVD化されているので鑑賞できると思う。年末年始の楽しみになりそうだ。

写真の白バラはお借りしました。著作権で問題あれば、削除いたします。 

2006年11月04日

 

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