海と空

天は高く、海は深し

目次一覧

2026年07月12日 | 詩篇註解

目次

詩篇註解

  1.  第百二十八篇  2007/03/14  オリーブの実る家
  2.  第三十七篇   2007/07/10  柔和な者の辿る道
  3.  第百三十三篇  2007/01/10   兄弟姉妹たちの宴
  4.  第百十二篇   2006/12/19         恐れず揺るがず      
  5.  第百三篇    2006/12/13         愛と憐れみの冠
  6.  第八十四篇   2006/10/13         太陽にして盾
  7.  第九十篇    2006/08/20         砂漠に咲く草花
  8.     第六十七篇    2006/07/21         祝福してください
  9.     第三十二篇    2006/07/19         安心して行きなさい
  10.     第五十四篇    2006/07/15      救いを求める祈り
  11.     第八十七篇    2006/06/06         神の都に生まれて
  12.     第九十二篇    2006/01/27         そそり立つレバノン杉のように
  13.     第十篇      2006/01/20         主よ、悪人どもの腕をへし折られよ
  14.     第二十二篇    2005/11/10          沈黙する神と詩人の信頼
  15.  第二十七篇   2005/11/05          私を探し求めよ
  16.     第十六篇     2005/10/06          麗しき遺産
  17.     第二十五篇    2005/10/02          導きと保護を求める祈り     
  18.  第二十四篇   2005/09/28          閉じられた門
  19.  第二十三篇   2005/09/26     ダビデ 水際の安息
  20.  第二十篇    2005/09/18     戦場の祈り
  21.  第十五篇    2005/08/21           ダビデ 正しき人

 詩篇の本文テキストを一通り音読してから、読んでいただけたらと思います。

 

日々の聖書

ヨハネ書註解 

  1. イエスの証明について――ヨハネ書第五章第三十一節以下   
  2. ヨハネ書第一章第九節~第十四節註解    
  3. カナの婚礼(ヨハネ書第二章)
  4. ロゴス(ho logos)・概念・弁証法(ヨハネ書第一章)

 

 

 

                 

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詩篇第三十七篇註解

2007年07月10日 | 詩篇註解

 

詩篇第三十七篇

ダビデの詩。

悪事を働く者のことで怒るな。
不義を行う者をねたむな。
彼らは草のように瞬くうちに刈り取られ、
草のようにすぐ枯れるから。

主に堅く信頼し、善きことを行え。
そうすればこの地に留まり、揺るぎなく暮らしてゆける。
そして、主によって深く歓べ。
あなたの心の願いを主はかなえてくださる。

あなたの道を主にゆだねよ。
そして主に依り頼め。
主が取り計らってくださる。

あなたの正しさは光のように輝き、
あなたの正義は真昼の中に明らかになる。

黙して主に向かい、主を待ち望め。
栄え誇る道を行く者や、
悪をたくらむ者のことでいらだつな。

怒りを静め、憤りを捨てよ。
悪をたくらもうとしていらだつな。

悪をたくらむ者は切り棄てられる。
しかし、主を待ち望む者は地を継ぐ。

しばらくすれば悪しき者は、姿を消している。
彼の立っていた場所を見よ。彼はもういない。

しかし、柔和な者は地を継ぐ。
そして豊かな平和に深い歓びを見出す。

悪人は正しい人にむかって、
歯ぎしりし、悪事をたくらむが、

私の主は彼を笑われる。
彼に定められた日の来るのを見るから。

貧しく虐げられた者を倒すために、
悪人たちは剣を抜き、弓を張り、
真っ直ぐな道を行く者を屠ろうとする。

しかし、彼らの剣は自らの心臓を貫き、
彼らの弓は折られる。

正しい人のわずかな持ち物は、
悪人たちの多くの富よりも善い。

悪人たちの腕はへし折られるから。
しかし、主は正しい人を支えられる。

主は無垢な人の日々を知っておられる。
彼らの資産は永遠のもの。

悪しき時にも失望することなく、
飢饉の年にも満ち足りていられる。

しかし、悪しき者たちは滅びる。
主の敵どもは太ったいけにえの羊のように、
煙となって焼き尽くされる。

悪人たちは借りても返さないが、
しかし、義しい人は憐れみ深く貸し与える。

祝福された者たちは地を継ぐ。
しかし、呪われた者は絶たれる。

勇者の歩みは主によって整えられ、
その辿り行く道を楽しむ。

倒れても決して打ち棄てられることはない。
主が彼の手を堅く支えられるから。

若い頃から年老いた今も、
私は見たことはない。
正しい人が打ち棄てられ、
その子供たちがパンを乞い求めるのを。

生涯憐れみ深く、恵み深くあれ。
そうすれば子供たちは祝福される。

悪を避け、善を行え。
そうすれば、永く住み続けることができる。

主は正義を愛されるから。
主はご自分に忠実な者を見捨てることなく、
彼らを永遠に守られる。
しかし、悪しき者たちの子孫は絶たれる。

義しい人は地を継ぎ、永遠に住む。

義しい人の口は智恵を語り、
彼の舌は正義を告げる。

神の律法は心に刻まれ、
彼の歩みは揺らがない。

悪しき者は義しい人を待ち伏せ、
彼を殺すことを狙う。

しかし、義しい人が悪人の手に陥ることを主は許さず、
義しい人は裁かれても罪に定められない。

主を待ち望み、主の道を守れ。
そうすれば主はあなたを高めて地を継がせる。
あなたは悪人が切り倒されるのを見るだろう。

無慈悲な悪人が野の木々のように、
うっそうと繁るのを私は見た。

しかし見よ、時が過ぎるともう彼はいない。
彼を捜しても、彼は見つからない。

純潔な人を覚え、正直な人を見よ。
終わりにはその人たちに平和が訪れるから。

しかし、背く者たちはともに滅ぼされ、
終わりには悪人たちは切り倒される。

義しい人の救いは主から、
主は苦難のときの砦。

主は彼らを助け、悪人どもから救い出される。
彼らは主に遁れるから。

詩篇第三十七篇註解                 柔和な者の辿る道

ダビデの教訓詩といってもよいかも知れない。とくに難しいことが書かれているわけではない。記憶して口ずさみやすいように、いろは歌のように、原詩では各句はアルファベット順に並べられている。拙訳ではそこまで訳しだすことはできない。

聖書全体と同じように、この詩篇第37篇のテーマも、善と悪を巡るものである。創世記のアダムとイブがエデンの園で、りんごの木から智恵の実を食べて善悪を知って以来、人類はそれを知ることによる呪いから免れることはできない。

そして、聖書の人間観というか世界観というものも一貫している。その基本的な思想は、善を行う者は救われ、悪を行うものは滅びるというものである。この見解に賛成するか反対するかはとにかく、これが聖書の、そしてまたこの詩篇の主張であることには変わりはない。

この詩篇の作者ダビデ王自身が、必ずしもこの詩の教訓のように、主なる神に生涯忠実に生きたわけではない。彼はバテシバを自分を妻とするためにその夫である部下のウリヤを殺した。その悪行の結果として、ダビデは愛する息子を失い、やがてその国には内紛がおきるにいたる。

しかし、そうした弱点があったにもかかわらず、ダビデ王が稀有に敬虔な王であり、賢明な指導者であったことは紛れもない。このイスラエル民族を始めとして、多くの聖書民族に共通する特徴は、その指導者たちがたんなる政治的な支配者ではなく、いずれも神に忠実な、敬虔で倫理的な指導者である場合が少なくないことである。

とりわけイスラエルは、その父祖アブラハムに始まり、モーゼという稀有の指導者を抱き、それ以来も多くの王や指導者を持ったが、その多くが神に忠実な敬虔で倫理的な指導者であった。イギリスのクロムウェルなどをはじめ、アメリカやその他の聖書民族もそうである。こうした伝統も他の諸民族と大きく異なるところである。

日本においても鎌倉幕府などに北條時宗のような禅宗に通じた指導者を持ったが、それはごく例外にすぎない。織田信長や豊臣秀吉をはじめ近代の伊藤博文などにいたるまで、実際の政治的な指導者の多くは本質的に倫理や敬虔とは無縁であった。それは東洋の仏教や儒教などの文化圏の政治の特徴でもあるともいえるし、今日においてもなお、これらの諸国家、諸民族の多くにおいては、政治は宗教的な文化とは無縁な背景において行われている。これも現代の日本の政治が品位を持たない理由のひとつでもあるだろう。

イスラエルをはじめ、多くの聖書民族においては、政治はこのダビデ王のような倫理観と心情を持って執り行われてきたのである。そのために、多少なりとも政治が形而上的な倫理的な色彩を帯びることになった。それは国民の倖不幸にもかかわることである。

もちろん、この詩篇をはじめ聖書そのものは政治や世俗のことについては本質的には無関心である。この第三十七篇においても、国家や民主主義などについて何らかの具体的な政治的な思想が語られているわけではない。しかし、人間に倫理的な敬虔を教えることによって、詩篇や聖書は文化そのものの根底に影響を及ぼしてゆくのである。

人間から悪は断ち切れない。そして、悪人の多くが栄え満ち足り、一方で敬虔な者の多くが苦難に遭い、苦悩に見舞われるのも事実である。それも世界の事実であるだろうし、それがゆえに神の存在が疑われもする。

しかし、そうした事実があるとしても、この詩篇はまた、ついの終わりには、悪人は雑草のように枯れ、大木が切り倒されるように滅びる一方、正義と憐れみに富み、主なる神に遁れる柔和で誠実な者たちは、時が来て主に救われて地を継ぎ、平和に歓び生きることになることを約束して慰めを与える。

 

 

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詩篇注解一覧

2007年05月01日 | 詩篇註解

 

詩篇注解

  1.  第百二十八篇  2007/03/14
  2.  第百三十三篇  2007/01/10
  3.  第百十二篇   2006/12/19
  4.  第百三篇    2006/12/13
  5.  第八十四篇   2006/10/13
  6.  第九十篇    2006/08/20
  7.   第六十七篇   2006/07/21
  8.   第三十二篇   2006/07/19
  9.   第五十四篇   2006/07/15 
  10.   第八十七篇   2006/06/06
  11.   第九十二篇   2006/01/27 
  12.   第十篇     2006/01/20
  13.   第二十二篇   2005/11/10
  14.  第二十七篇   2005/11/05
  15.   第十六篇    2005/10/06
  16.   第二十五篇   2005/10/22
  17.  第二十四篇   2005/09/28
  18.  第二十三篇   2005/09/26     ダビデ  水際の安息
  19.  第二十篇    2005/09/18     戦場の祈り
  20.  第十五篇    2005/08/21       ダビデ  正しき人
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詩篇第百二十八篇註解

2007年03月14日 | 詩篇註解

詩篇第百二十八篇

巡礼の歌

何という幸せか、主を畏れ、主の道を歩むものはすべて。
あなたがその両手で労した果実は、まさにあなた自身が味わう。
あなたは幸せである。善き物に恵まれるだろうから。
あなたの妻は家の奥にあって、葡萄の木のように豊かな房を実らせる。
あなたの子供たちは、オリーブの若木のように、
あなたの食卓を囲む。
見よ、主を畏れるものは、まさにこのように祝福される。
シオンから主があなたを祝福されますように。
そして命あるかぎりエルサレムの恵みを見るように。
そして多くの子供たちや孫たちを見るように。

イスラエルの上に平安あれ。


詩篇第百二十八篇註解    オリーブの実る家

この詩篇にも、「巡礼の歌」という標題が付せられている。エルサレムに祭りがあり、そこへ参る途上で人々が和しながら歌ったものと思われる。ある意味では私たちの生涯も巡礼のようなものである。
それは死へ向かう旅路であり、また私たちは天上のエルサレムに向かう旅人でもある。

キリスト・イエス自身は生涯妻を娶ることもなく独身であったし、また彼自身も独身生活を勧めもしたが、聖書には家庭の幸福を描いている個所は少なくない。この詩篇第128篇もそうである。短い詩の中に、このうえなき家庭の幸福を描いている。このような幸福な家庭像はまさに永遠の理想であって、時間や土地によって、時代や民族によって変化するものではない。どんなにフェミニストたちが、独身女性たちの身分を謳歌しようとも。

わが国でも妻のことを「奥さん」と呼び習わしているけれども、この聖書の詩篇の精神に見事に一致している。妻は、家の奥にあって、葡萄の木々のように豊かな房を実らせている。そして、食卓に連なっている子供たちは、一度もまだオリーブを搾り取られたことのない若木のように青々として幼い。

このような幸福な家庭を手にすることのできるのは誰か。
それは主を畏れ、主の道を歩む者である。彼はこのような家庭に恵まれるという。幸福な家庭を手に入れたものは、すでにこの世にいながらにして半ば、すでに天上にあるようなものである。それほどに幸福な家庭は貴重である。

人は誰も二人の主人に仕えることができないように、幸福な家庭にも主人は一人しかいない。わが国では妻は夫のことを主人と呼ぶが、これも聖書の精神に適っていると思う。しかしそれは厳密には正しくはない。なぜなら、どのような家庭にあっても真の主人はただ一人、それはキリスト・イエスのみだからである。

現代の日本の家庭の多くが、離婚や崩壊に面しているとすれば、それぞれの家庭が、この唯一の主人を抱かず、妻と夫が主人の地位を争うような誤った家庭観に囚われてしまっているからではないだろうか。

 

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詩篇第百三十三篇註解

2007年01月10日 | 詩篇註解

 

詩篇第百三十三篇

都のぼりの歌。ダビデの。

見よ、何と善く、何と楽しいことか。
兄弟たちが仲良く共に座っている。

頭に注がれるかぐわしき油が、
髭に流れ、アロンの髭に滴り、
彼の着物の袖口にまで流れ滴る。

ヘルモン山の露が、
シオンの山々に滴り流れるように。
まことに、そこで主は祝福を永遠の命さえも約束せられた。

 

詩篇第百三十三篇註解  兄弟姉妹たちの宴

すべての詩篇の中で、いや聖書全巻の中でも、もっとも貴重な一篇といえる。ここに人類の理想があり夢が尽きるといってもよいかもしれない。兄弟姉妹たちが仲良く食卓を囲んで語らっている。その楽しさは体験し記憶されているだろう。

人間がただ人間であるということだけで、楽しく食卓を共に囲み、歓談と談笑にふける。そこには宗教の差別も、人種の差別もない。

こうした姿がいつの日か地上に実現される日の来ることを私たちはどれほどに恋い願ったことだろう。しかし、そうした日の訪れはいつことになるか、果たして人類は、罪と涙と共にその日の到来を待ち焦がれることになるだけなのだろうか。それとも、主はそこで永遠の命と祝福を約束されたのだから、それを信じて待つべきか。

たとえ、私たちの幾世代においては地上での実現は難しくとも、天上においてはそうした楽しき食卓は叶えられるにちがいない。

アロンとはモーゼの兄で、主の命によって油注がれて初代の祭司職に任ぜられた。モーゼたちの兄弟に対する主の祝福と見ることもできるが、必ずしも限定的にではなく、一般的な象徴と解してよいと思う。

エルサレムへの巡礼の折などに歌われたらしい。

 

 

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詩篇第百十二篇註解

2006年12月19日 | 詩篇註解

 

詩篇第百十二篇

主を誉めたたえよ。
何と幸いなことか、主を畏れる人は。
彼は主の戒めをまことに歓ぶ。
彼の子孫は地上の勇士となり、
正しい者たちの世代は祝福される。
彼の家は富と財産に満ち、
彼の正義は永遠に揺るがない。
正直な者たちは、暗闇の中に光輝き、
豊かに恵み、憐れみ深く、正しい。
良い人は、憐れみ深く、物惜しみしない。
彼の言葉は、裁きの場でも受け入れられる。
永遠に揺らぐことなく、義しい人は永遠に忘れらることもない。
彼は悪評を恐れず、
彼の心は堅く主に信頼している。
彼の心は堅く揺るがず恐れることもなく、
ついには敵どもの敗北を見る。
貧しい人々には豊かにふるまい、
彼の正義は永遠に揺らぐことなく、
彼の角は栄光のうちに高く掲げられる。
悪人はそれを見て怒り、
歯ぎしりして消え去る。
神に逆らう者たちの願いは滅びる。

 

詩篇第百十二篇註解      恐れず揺るがず

ハレル(誉めよ)ヤー(主を)ではじまる賛美の歌。また、各句の冒頭は暗記しやすいように、日本のイロハかるたのように、アルファベット順に並べられている。ユダヤ人たちはそうして詩篇を暗記して昼夜口ずさむのだろう。

ここでも幸福な人とは、主を畏れる人である。しかし、たんに主を畏れるという消極的なことではなく、主の教え、主の戒めは詩人にとっては深い歓びと慰めの源でさえある。(1節)

このように主の教えを愛する人の子々孫々は、勇敢で強く、主の教えに従う人たちの世代は祝福された幸福な世代である。そんな彼の家族には豊かな富がある。

旧約では、正義と富とは一致すると楽天的に信じられている。決して間違いではないとしても、往々にして成金的な富は正義に反して得られる場合が多い。しかし、そうした富は長続きしないのだろう。
それは市場原理主義の現代でも同じだと思う。

ユダヤ人にも貧しい人は少なくないが、世界的な長者も少なくない。人口比から言えば、もっとも大金持ちの多い民族だろう。おそらくそれは、この詩篇に歌われているように、ユダヤ人には、先祖代代にわたって主の教えを愛し、正義に生きる人々が多かったことによるのだろうと思われる。キリスト教徒の場合でも同じだと思う。古い家系のキリスト教徒に裕福な家族は少なくない。富や豊かさは、もともとは神からの贈り物なのだろう。


山上の教訓で、イエスが「心の貧しい人は幸いである」(マタイ書5:3)と言ったことから、従来のキリスト教は貧しさを尊ぶ傾向が強いけれども、経済的な貧困自体は不自由なものである。貧困自体は良いものではない。本来の趣旨は、「心の貧しさ」、「謙遜」の価値を語ったものだと思う。ここで良い人、正しい人とはどのような人であるか語られる。それは、憐れみ深く、物惜しみせず与える人だという。(4節5節)そして、彼は法に従って行動するから、裁判所でも彼の言葉は信頼される。そして、何よりも、死後に行なわれる神の前での審判においても、彼の証言は受け入れられる。

また、主に信頼する人は揺るがない。(6節)だから、人から悪評を立てられても恐れない。実際に人から悪口を言われなかった者はいないだろうし、また、人の悪口を言わない人も少ないのではないか。人の口から悪口を絶つことはできないし、人間とはそうした者である。主に信頼して支えられているから詩人は悪評も恐れず、信じる道を歩んでゆく。そしてついには、敵の敗北を目に見る。そうして彼の角は主によって高く掲げられる。角とは、勝どきを上げるラッパのようなもので、それは力と支配を表すシンボルである。

正しい人がそうして主に支えられるのを見て、悪人は憤り歯ぎしりして怒るが、やがては力を失い、彼らの野望も消えてなくなるという。この詩も主の教えに忠実であることの歓びと慰めを歌っている。

 

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詩篇第百三篇註解

2006年12月13日 | 詩篇註解

詩篇第百三篇

ダビデの歌

私の心よ、主を誉めたたえよ。
私の全身で主の聖なる名を誉めたたえよ。
私の心よ、 主を誉めたたえよ。
主の恵みのすべてを忘れてはならない。
主はあなたのすべての罪を許し、すべての病を癒される。
主はあなたの命を墓穴から救い出され、
あなたに愛と憐れみの冠をかぶせられる。
あなたの口を善き物で満ち足らせ、
あなたの若さを鷲のように新たにされる。
主はすべての虐げられたもののために、
正義を行い、裁かれる。
主はご自分の道をモーゼに、
み業をイスラエルの子たちに教えられた。
主は憐れみ深く、豊かに恵まれる。
怒るに遅く、愛に富み、
主は常に責められることはなく、永く怒られることはない。
主は私たちの罪にしたがって扱われることはなく、
私たちの悪にしたがって報いられることもない。
天が地を高く越えるように、
主の愛は、主を畏れる者の上に深く、
東が西から遠いように、
主は私たちから犯罪を遠ざける。
父がその子を憐れむように、
主を畏れる者を憐れむ。
まことに主は私たちがどのようにして造られたかを知っており、
私たちが土くれに過ぎないことを覚えておられる。
人の生涯は草のようなもの、
野の花のように咲く。
風が吹けば、散って消え、
跡形さえも知られない。
だが、主を畏れる者たちの上に、
主の愛は永遠から永遠に至る。
主の正義は子から子へと。
主の契約を守り、主の命令を覚えて行なう者の上に。
主は天に固く御座を据えられ、
主の御国はすべての者を治められる。
主の御使いたちよ、主を誉めたたえよ。
主のみ言葉に聴き、主のみ言葉を行なう強き勇士たちよ。
主のすべての軍勢よ、主を誉めたたえよ。
主に仕え、主の御旨を行なう者よ。
主の御手に造られた物はすべて、主を誉めたたえよ。
主の支配するすべての土地で、誉めたたえよ。
私の心よ、主を。

詩篇第百三篇註解              愛と憐れみの冠

主を誉めたたえる歌である。詩人は主を誉めたたえる。全身全霊で主に感謝している。なぜなら、詩人の犯したすべての罪が許され、すべての病が癒されたから。

罪とは心の病でもある。それが、主の愛と憐れみによって癒され、病から回復して、若い鷲のように全身に力が回復するのを感じる。それゆえ、詩人は主に感謝し、主を誉めたたえざるをえない。
罪からの病のために、死の墓に降ろうとしていたのに、主の愛によって贖い出されたのだから。(第4節)
ここでも、思い出されるのは、死んでから四日もたち、手や足や顔を布で覆われて葬られていたラザロを、墓の穴からイエスが呼び戻されたことである。       (ヨハネ書第11章第38節以下)

また、詩人は何らかの理由で虐げられている。(第6節)
聖書はもともとユダヤ人の本であるが、ユダヤ人はモーゼによるエジプトからの奴隷的な境遇からの解放後も、多くの苦難に見舞われてきた。この詩人もそうした迫害を受けていたのだろう。詩人はみずからの受ける虐げを主の怒り、主への反逆の報いとして受け取っていた。

しかし、主の怒りが永遠に続くことはなかった。父がその子を憐れむように、 主を畏れる者を憐れんでくださるという。(第13節)
イエスが主を放蕩息子を迎える父として喩えたことはよく知られている。詩人もそこに主の憐れみと忍耐を感じている。主の愛は天が地を超えるように高く深い。一度は失われた息子の帰還を歓ぶ父の無償の愛と同じである。それと同じものを詩人は感じたのだろう。

第14節からは一転して、人間の果敢なさ、虚しさが歌われる。詩篇は論文ではないから、必ずしも内容が論理的に展開されるわけではない。全身全霊に感じるままに、心の赴くままに、その奥底から湧き上がる思いを言葉に込めて歌われる。

人間とは大地から土くれをこねて主が造りあげたものである。(第14節、創世記第2章)そして、人間の生涯は、かってモーゼによって歌われたように、野の草のようにはかない。(詩篇第九十篇)
人間の生涯のはかなさは野の草花に喩えられる。朝が来て花を咲かせても、砂漠の熱風に吹かれて夕べには萎れて枯れる。哲学が概念によって世界を把握するのとは異なり、詩はそうした喩えによって、直覚的に人生観や世界観や神を表現する。

主を畏れる者に、主の契約を守る者に対する主の愛は、ここでも繰り返し歌われる。主の契約とは、第7節に歌われているモーゼを介して教えられた、主の道であり、いわゆる主の十戒のことである。それを心にとめて生きる生き方のことである。

第20節で主のみ使いについて歌われているが、主のみ使いとは、いわゆる天使のことであるが、天使とは、ここで述べられているように、主の言葉を聴き、主の御旨を行うものである。その意味では、預言者や使徒たち、また主を信じる人々を考えてよいのだと思う。預言者や使徒たち、さらには主を信じる者たちは、また主の兵士でもある。その軍勢があまりに多いために、彼らを率いて現われる主は、万軍の主とも呼ばれる。

その主は天に玉座を据えられ(第19節)、そこから万物を支配される。イエスも天に上げられ、神の右の座に着かれた。(マルコ書第16章第19節)そうして、この世の国もまた、主と御子イエス・キリストのものとなり、永遠に統治されるものとなる。(黙示録第17章第15節以下)

主を誉めたたえるのは、み使いたちだけではない。主に造られたものすべてが、空の鳥も、海の魚たちも、野の草花も、山も空も、夜空の星々も、創造された万物すべてが主の創造の御業をたたえるようにと言い、何よりも詩人は自分の心に向かって、全宇宙にその栄光を現わされた主を誉めたたえるよう呼びかける。

 

 

 

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詩篇第八十四篇註解

2006年10月13日 | 詩篇註解


詩篇第八十四篇

ギティトの調べにのせて指揮者に。コラの子供たちの賛歌。

どんなに愛されていることか。あなたの幕屋は。万軍の主よ。
主の庭を慕って、私の心は絶え入るばかりです。
生ける神に向かって、私の身と心は喜び歌います。
あなたの祭壇の傍らに、
スズメが宿を見出し、
ツバメが巣を作って雛を育てるように、
万軍の主、私の王、私の神よ。
なんと幸せなことか。あなたの家に住まう人は。
あなたを賛美する彼らは、さらに。セラ
なんと幸せなことか。
あなたの中に力を得、あなたの道を心に見る者は。
涙の谷を過ぎるときも、そこを泉に変え、
初雨もまた祝福となる。
彼らは力強く歩き、シオンで神々の神を見る。
主よ、万軍の神よ、私の祈りを聴いてください。
耳を傾けてください。ヤコブの神よ。セラ
私たちの盾をご覧になり、
あなたが油注がれた者の顔を顧みてください。
まことに、あなたの家の中庭で過ごす一日は、ほかの千日にも優ります。
悪人の天幕に住まうよりは、
私の神の家の門口に立つことを選びます。
まことに、主なる神は太陽にして盾。
主は恵みと誉れをお与えになる。
まっすぐに歩む者に、良いものを拒まれない。
万軍の主よ、
なんと幸せなことか。あなたに信頼する人は。


第八十四篇註解       太陽にして盾

巡礼のときに歌われたらしい。
ギティトとはハープのような楽器らしく、ガトからダビデが持ってきたとも言われる。
主の宮に旅だつ巡礼者は、主の宮の中庭をあこがれ慕って身も心も絶え入るばかりである。主の住まわれる宮はそれほど人々から愛されている。
その憧れ切なさが募るほど、それはやがて生ける神への出会いを予感して歓喜に代わる。恋する者にこがれるように、巡礼者は切ない憧れを歌う。
スズメやツバメがそこに巣を造るように、巡礼者は主の宮にたどり着き、そこに宿り憩う。主の宮に宿る人は、まして、主を賛美する人はどんなに幸せなことか。なぜなら、彼らは主の中に力の源と巡礼で辿り行くべき平安の道とを心の中に見出しているから。

私たちの生涯も巡礼のようなものである。涙の谷もあれば、苦難の山もある。

しかし、主に信頼する者には、嘆きも苦しみもすべて歓びの泉に変わる。雨も恵みの雨となる。
彼らはますます力強く歩み、ついにシオンで神々の中の神にまみえる。そこで私たちの祈りの聴き入れられることを祈る。

第十節にある「私たちの盾」とか「あなたが油注がれた者」とは誰のことだろうか。巡礼者たちを導き上った指導者か、あるいはダビデのような民族の指導者のことかもしれない。キリスト・イエスと読むこともできる。父なる神が独り子キリスト・イエスを顧みられ、永遠にいとおしまれるように。

木立に囲まれた美しい主の宮の中庭で過ごす一日は、他の所で過ごす千日にも優る喜び。まして荒野の日照りに悪人たちと同じ天幕に住まうぐらいなら、主の家に門番に立っていた方がましである。

主は、大地の恵みの源である太陽と私たちの身を護る盾にたとえられる。
主は、正しくまっすぐな道を歩む者に限りない恵みと誉れをお与えになり、良きものを何一つ拒まれない。主に信頼するものは、なんと幸せなことか。

しかし、旧約の人々がこうして憧れ巡礼で訪れたエルサレムの神殿はすでにイエスの死後、予告どおりに崩壊して今はない。今日では「嘆きの壁」として一部が存在しているばかりである。昔の神殿の麗しい面影はない。
イエスは「この山でもエルサレムでもないところで礼拝するときが来る」(ヨハネ書4:21)と言われ、イエスの宿る、聖霊の宿る私たちの身体こそが神殿とされるようになった。(コリント前書6:19)

そして、人間の手によって造られた幕屋、神殿にではなく、イエスは天に昇られて、そこで永遠の祭司としての位に就かれたのである。

こうして地上の神殿は天上に上げられ、私たちは、この天にある神殿に向けて、地上の巡礼の旅を続けることになる。しかし、たとい、神殿の場所が地上のエルサレムから、天上のエルサレムに遷されたとしても、地上の巡礼者が主の宮の麗しさを憧れ慕う心は変わらない。

 


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詩篇第九十篇註解

2006年08月20日 | 詩篇註解

詩篇第九十篇

祈り。モーゼ、神の人。

主よ、あなたこそ、代々に私たちの住み家。
いまだ山々が生まれぬ前から、
あなたが地と世界をいまだ造られぬ前から、
永遠から永遠にいたるまで、あなたは神。
あなたは人を土に帰して言う。
「帰れ、人の子よ」
まことに千年といえど、あなたの目には
まさに昨日の昼のように過ぎ去り、
また夜の見張りの一時のよう。
あなたは人を眠りのうちに流し去る。
朝には草のように萌え出で、
朝には花のように咲き出で、
夕べには、刈られて枯れる。
まことに、私たちはあなたの怒りによって燃え尽き、
あなたの憤りによって恐れ惑います。
あなたは私たちの不正を御前に置き、
私たちの隠された悪をあなたの御顔の光にさらされる。
まことに、我らの日々はすべて、あなたの怒りの中を過ぎ、
私たちの生涯はため息のように尽きます。
私たちの齢は七十年。
たとえ健やかであっても八十年。
しかもそこに得たものは苦しみと災い。
瞬くうちに過ぎ去り、私たちは飛び去ってゆく。
誰があなたの怒りの力を知っているのか。
あなたの憤りを畏れるように。
私たちの生涯の日々を正しく数えることを教えて、
私たちの心に知恵を得させてください。
戻って来てください。主よ、いつまでなのか。
あなたの僕らを憐れんでください。
朝に、あなたの愛に満ち足りれば、
私たちは生涯を喜び歌い、祝うでしょう。
あなたが私たちを苦しめられた日々と、
私たちに災いを降された年々に応じて、
私たちを喜ばせてください。
あなたの僕らにあなたの御業を見させ、
彼らの子供たちのうえにあなたの栄光を現わしてください。
そして私たちの神、主の恵みが私たちの上にありますように。
どうか私たちの事業を確かなものに、
どうか私たちの事業を揺るぎなきものにしてください。

 

詩篇第九十篇註解                         砂漠に咲く草花

主なる神の絶対性と永遠性、それに対 する人間の有限と果敢なさ、敬虔な神の人、モーゼの嘆き。

詩篇の中にはダビデ作とされるものが圧倒的に多いが、この第九十篇はモーゼの祈りとされている。モーゼの生涯については、いわゆる『モーゼの五書』の中の「出エジプト記」から、「申命記」に至るまでに記録されている。それによれば、モーゼはエジプトの王女の養子として、当時の最高の教育を授けられて育てられたようである。

いずれにせよ、モーゼはユダヤ教、イスラム教、キリスト教の父といってもよい存在である。これらの宗教は「モーゼの五書」を根底に据えることによって、精神的な類縁関係にある。彼がいなければこれらの宗教もなかった。現代のユダヤ人も現在のような形で存在していたかどうかわからない。モーゼがいなければ、キリストもマホメットも存在しなかった。それほどにモーゼは、人類の歴史の核心に位置する人物である。

モーゼは十戒をはじめとするさまざまな律法の規定を彼自身の民族に課したが、何よりも特筆されるべきは、唯一神教に代表されるこの宗教の世界観であろう。その神は天地、宇宙の創造者として唯一である。唯一であるがゆえに絶対的でありまた排他的である。そうした傾向を、ユダヤ教イスラム教キリスト教は共通の精神的な母胎としてもっている。

モーゼの生涯やその宗教の特質についての詳細についても興味はあるが、ここでは深くは立ち入れない。これからも詩篇に読みとれる限りで、モーゼの精神と思想に触れてゆきたいと思う。ユダヤ教やイスラム教、またキリスト教の精神を研究しようとすれば、当然にその母胎であるモーゼの宗教に、さらには、この民族の始祖であるアブラハムやこの中東地域の伝統的な宗教の司祭であるメルキデセクらの宗教にも触れざるを得ない。しかし、この地域の宗教の歴史的な発展に根本的な影響を及ぼしたのはモーゼである。モーゼの宗教はこれらの民族の宗教の集大成として存在する。

主よ、あなたこそ、代々に私たちの住み家。

主は、世々に私たちの住む所であることをモーゼは歌う。ヤーベ神は、モーゼにとって永遠の隠れ場、住み家、逃れ場である。この神は、天地、宇宙が創造される前から、そして、永遠の昔から未来永劫にわたって存在する神として知られている。モーゼ五書の劈頭の書『創世記』にも記されているように、この神は天地創造の神であり、また、人類の造り主でもある。土から人を造り上げた神はまた、人間にとって「主」としても存在する。この神は、人間に命令し人間を支配する。また人を限り有る存在として土に帰す。主の永遠性に比すれば、人間とは実にはかない存在である。

主なる神にとって、千年や二千年は、人間にとっての一日のように、時間の長さを超越した存在である。それに比して、人間の生涯はなんと果敢ないことか。それは、果敢なく空しいものの象徴である草や花にたとえられる。その生涯は眠りの中の夢のように果敢ない。モーゼは、永遠の存在者との対比において人間の果敢なさ、空しさを歌う。

仏教でも同じように、「朝の紅顔、夕べの白骨」として人間の命の果敢なさは捉えられているが、仏教の基調は無であり空の上に立てられた果敢なさである。そこには、唯一神の存在はなく、また、人間の隠された悪を憤りと怒りをもって裁く「人格」としての神もない。それに対して、モーゼの宗教では絶対者であり永遠者である主なる神を前にして、おそれ慄く人間がいる。

周知のようにモーゼにおいては、神が絶対的唯一神として、かつ人格的、倫理的存在として捉えられていることである。これが、モーゼの宗教を他の諸宗教から区別する隔絶して異なる根本的な点である。モーゼの宗教に比べれば、他の諸宗教の倫理的な意識は、朦朧としたベールのなかにある。

モーゼもその生涯にさまざまな苦難と試練の中を生き抜かざるを得なかった。彼が生涯に出会った苦難は、エジプトにおける彼の同胞たちを奴隷的な境遇から解放するためであった。そのためにモーゼは、彼が育ったエジプトの王宮の快楽に満ちた生活を捨てた。(モーゼの生涯の内容については「出エジプト記」や「民数記」「申命記」などに詳しく記録されている。)そのためにモーゼは、近隣の異民族、異教徒たちに対してだけではなく、同胞たちの堕落とも戦わなければならなかった。モーゼの死の苦しみは、主の怒り、主の憤りによるものだった。

モーゼは生涯の苦しみは、主の御怒りによるものであり、それは、隠された罪のためである。その苦しみのなかに、彼の生涯はため息のように尽き果てようとしている。仏教もまた苦の諦観の中に人間を置くが、しかし、仏教は本質的に無神論であるか多神教であるから、無や空を観照する中で救いを得ようとする。それに対し、モーゼの神は絶対者であるから、その仲介者無くしては救われない。

誰があなたの怒りの力を知っているのか。
あなたの憤りを畏れるように。

モーゼはそうした苦しみの中に人間に与えられた生涯の時間が瞬く間に消え失せてゆく空しさを歌うとともに、絶対的な裁きとして現れる主なる神の威力に対する畏れを教える。

また、人間の生涯は短く、その日数も数えられる。人間はいつか必ず死ぬ。それによって、みずからの有限性を悟り、心に知恵を得られるようにと祈る。モーゼの神は生ける人格神として、人間の精神と直接にかかわることで、その祈りは生きて躍動するダイナミックなものとなっている。

戻って来てください。主よ、いつまでなのか。
あなたの僕らを憐れんでください。

モーゼの生涯も、イエスと同じように苦しみに満ちていた。その苦しみの中から、モーゼは主なる神の愛と憐れみを求め、苦しみに応じて喜びと楽しみを賜ることを祈る。モーゼの詩のこうした祈りを読むとき、これと同じ精神がイエスや聖書のその他の預言者の中にも貫かれていることがわかる。このモーゼの祈りは、その千数百年後に生きたイエスの祈りでもあった。

モーゼは彼の民族に、呪いと祝福を与えたが、呪いが本意でなかったことはいうまでもない。モーゼは彼の子孫のために、主の栄光を、神の摂理を見つめることを祈り、主の喜びが彼らの頭の上に留まることを祈った。

そして最後に、モーゼは彼の仕事が確かなものとなるように祈る。
モーゼの使命とは、彼の民族を宗教的に導き、神の民とすることであった。その使命が永遠に揺るぎなく果たされることを祈る。


このモーゼの祈りは、神に聴き入れられたか。それは人類の歴史を見ればわかる。モーゼの事業は、イエスに受け継がれ、マホメットに受け継がれて、永遠に揺るぎなきものになっている。

 2006年08月18日 

 

 

 

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詩篇第六十七篇註解

2006年07月21日 | 詩篇註解

 

詩篇第六十七篇

指揮者たちは、賛美の歌を奏でる。

神が私たちを憐れんでくださるように。
また、私たちを祝福してくださるように。
どうか御顔を私たちの上に輝かせてください。
あなたの道が世界に知られ、すべての異邦の民があなたに救われますように。
神よ、すべての人々があなたに感謝しますように。
人々が皆、あなたに感謝しますように。

すべての国民は喜び、歓びに歌え。
あなたはすべての国民を公平に裁き、
地上のすべての国民を導かれるから。

神よ、すべての人々があなたに感謝しますように。
人々が皆、あなたに感謝しますように。セラ (強調の音符) 

大地は豊かに作物を実らせ、
神が、私たちの神が、私たちを祝福してくださる。

神が私たちを祝福してくださる。
地の果てにいたるまで、すべてのものが神を畏れるように。

 

 

第六十七篇註解                           祝福してください

神は私たちを憐れみ祝福してくださる方であるが、また、怒り裁く方であることも知っている。だから、私たちは怒りや裁きではなく憐れみと祝福を求める。神は愛する方であるから。

父である神の御顔は、イエスの顔にもっともその輪郭をあらわしている。その御顔の輝きに私たちが照らされ、父なる神の意思とイエスの御心が世界中に知られるとき、そのときこそはユダヤ人だけでなく異邦人も救われるときである。

詩人は、すべての諸国民が神に感謝を捧げることを勧める。神は諸国民を偏り見られることなく公平に裁かれ、また地上のすべての国民を教え導かれるから。

また、神は豊かな実りと産物で私たちを祝福してくださる。
この地球はどんなに豊かなことだろう。稲や麦、果実などの大地の収穫と、大海原を覆い尽くすような魚の大群によって、日々の糧を恵んでくださる。
それゆえに詩人は、この慈しみ深い神をすべての人が敬い畏れるように勧める。

勤労感謝の日や感謝祭などに歌われ祈られるべき感謝の詩である。

 

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第三十二篇註解

2006年07月19日 | 詩篇註解

第三十二篇

ダビデの教訓詩。

幸せだ。その咎が取り去られ、その罪を許された者は。
幸せだ。主にその不義を数えられず、心に偽りを持たない者は。

私は沈黙を続けたが、私の骨は終日のうめきによってくたびれ果て、
昼も夜もあなたの御手は私に重くのしかかり、
私の喉も、夏の日照りに涸れ果てた。セラ。

私はあなたのみ前に私の罪を認め、咎を隠さなかった。
私は言った。主に背いたことを私は告白しよう。
すると、あなたは私の罪を赦された。セラ。
だから、神を敬う人はすべてあなたに向かって祈る。
あなたを探し出せる間に。

洪水のあふれるときも、その人には及ばない。
あなたは私の隠れ家。私を苦しみから守られる。
私はあなたに救われて歓びの声をあげた。セラ。

主は言われる。私はあなたに歩むべき道を教え諭し、
あなたを見守り導く。
あなたは馬やラバのように、愚かでかたくなになるな。
くつわと手綱であなたに近づかないように
それらは押さえつけなければならない。

悪しき者には悩みが多いが、
主に依り頼む者は愛に恵まれる。
だから歓び踊れ、正しい人よ。主によって喜べ。
心のまっすぐな人はすべて、歓びに叫べ。

 

詩篇第三十二篇註解            安心して行きなさい

神に反抗したのに、その咎が取り去られ、神の戒めに背いて悪を犯したのに、その罪をとがめられず許された者は、幸いであるという。

神の愛は人間の罪を許し、人間の犯した罪を忘れ、彼の犯した罪がなかったようにみなす。それは、神が愛そのものに他ならないから。その姿はイエスの中に目の当たりに見られる。「娘よ。あなたの信仰があなたを癒した。安心して行きなさい。もう病み患うことはない」とイエスは言われた。(マルコ書5:34)

冒頭に「ダビデのマスキール」とある。「マスキール」の正確な意味はわからないらしい。だから、そのまま訳されずに使われている。第8節の冒頭の「スキルハー(目覚めさせる、悟らせる、賢くする)」と語形が似ていることから、教訓や黙想を目的とした詩ではないかと言われている。文語訳では「訓諭(をしへ)のうた」となっている。英語訳には「告白と許し」という標題が付けられている。


この詩篇のテーマは「幸福な者とは誰か」である。それについての教訓を与える。私たちが詩篇を読むとき、単に祈りとしてばかりではなく、その一つ一つの語句の意味について深く考え、黙想し、そこから智恵や教訓を学ぼうとする。聖書の言葉は神の智恵の結晶であるから。ただ、その智恵は奥深く隠され(ヨブ記11:6)、人間の思いとは異なっている(イザヤ書55:8)という。

確かに、それは幸福についての考えにもいえるかも知れない。ここでは「神の戒めに背いたのに許された者、犯した過失を覆い隠された者」が幸せであるという。同じ詩篇の第一篇では、「主の教えを愛し、悪人と共に歩まない者」が祝福された者(アシュレー)、幸せな人とされ、さらに新約聖書においては、「謙虚な人(心の貧しい人)」「柔和な人」「悲しむ人」「正義を切望する人」「憐れみのある人」「心の清い人」「平和のために働く人」「正義のために迫害される人」たちは幸せであると言う。(マタイ書五章、ルカ書六章など)

こうした幸福観は、現代の日本の世間に一般的な考え方と比較してみればまったく異なっているように思われる。とくにキリスト教の幸福観については、まるで不幸が幸福で、幸福が不幸だといっているようにさえみえる。

いずれにせよ、今ここでは詩人は明らかに、幸福ではない。主の戒律に背き、過失を犯してしまったからである。しかもそれを心に秘めて沈黙を守っていたとき、主のみ手が、彼の良心に昼も夜も重くのしかかって来る。骨まで古びるようなその苦痛に詩人はうめき、夏の日照りに会ったように喉も渇ききろうとしている。

そこで詩人は耐え切れず、自分の犯した罪を認め、自分の犯した悪行を主の前に隠さずに告白することを決心する。そして、詩人が「自分の過ちを包み隠さず主に告げよう」と言ったとき、主は彼の犯した不法の罪をすべて許してくださった。だから詩人は忠告して言う。主に忠実な人々はみな、主を見出しうる間に、許しを求めて祈るべきであると。

そのとき困難が洪水のように押し寄せても、その人には及ぶことがない。主は苦難から詩人を守る隠れ場であるから。そして何よりも主は、救いの喜びを与えてくださる。

こうして、詩人は主に救われる歓びを知った。そして主は彼に言われる。あなたを悟らせて、あなたが歩み進むべき道を教えよう。そして忠告して言われる。馬やラバのようになるな。それらは鞭や棍棒でなければ言うことをきかない。分別や悟りもない。また危険だからそれらに近づくことのないようにと。

悪を行う者には悩みが多い。しかし、主に信頼するものは、主の愛によって守られる。罪の許されることがどれほど幸せなことか。だから、主に救われた正しい人は主において歓び踊れ、心のまっすぐな人は歓びに叫べと。


 

 

 

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詩篇第五十四篇注解

2006年07月15日 | 詩篇註解

 

詩篇第五十四篇            

指揮者たちの調べに乗せて。ダビデの教訓詩。
ジフの人々が来て、サウルに「ダビデが私たちのところに身を隠しているのではないか」と告げた。

神よ、あなたの御名によって私を救ってください。
そして、あなたの力によって、私を裁かれよ。
神よ、私の祈りを聴いてください。
私の語る言葉に耳を傾けてください。
私の見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、
凶暴な者たちが私の命を求めています。
彼らには自分の前に神はない。
見よ。神は私を救う者。
主は私の魂を支えられる。
私を狙う者たちに災いを返し、
あなたの真実によって、彼らを滅ぼしてください。
よろこんで私はあなたに生けにえを捧げ、
あなたの御名に私は感謝します。
主よ、それは良いことですから。
主はすべての苦難から私を救い出し、
私のこの眼に敵の滅亡を見せたからです。


詩篇第五十四篇注解                救いを求める祈り

ダビデのこの詩の生まれた背景は、旧約聖書サムエル前書第二十三章第十五節以下に書かれてある。
ダビデの名声が高まるにつれて、ダビデの主人サウルは自分の地位に不安を抱くようになり、ついにはダビデの命さえ付け狙うようになった。そのため、ダビデは荒野に逃れ、その要害の地にひそみ、ついにはジフの森に身を隠さなければならなかった。そのとき、ダビデを励ましたのが、サウルの長子ヨナタンだった。

そのときジフの人々は、サウルの許に来て、ダビデが自分たちの所に身を隠していることを告げた。それで、サウルは従者を引き連れ、ダビデの命を求めてジフの森の要塞にまで来た。そうした絶体絶命のときに、ダビデが主なる神に救いを求めて祈ったときの詩である。敵との戦いや苦難のときに救いを求める時の祈りとして読むことが出来る。

「教訓詩」と訳した「マスキール」の意味はもともと教えとか賢明なという意味らしく、そうした意義のある詩をマスキールと呼んだと思われる。

「御名によって私を救ってください。」
名は体を表すというが、神の御名は、神そのものでもある。だからユダヤ人は神の御名をみだりに唱えなかった。神みずから、ご自身で救ってくださるようにとダビデは祈る。

「力によって裁き」
裁きとは、力の行使に他ならない。歴史とは神による力の行使であり、また裁きでもある。ダビデは祈りと言葉によって、神の裁きを願う。
ダビデにとって異邦の民ジフの人々は、ダビデに抗って立ち、いまやダビデの敵サウルを案内してやってくる。ジフの人々は神を知らず、神を前にして祈ることもない凶暴な人々である。

しかし、祈りに応えて、神がダビデを助けられる。それは言葉ではなく確かな事実である。その恵みは現実である。だから、その事実を「見よ」(ヒネー)という。

「あなたの真実によって、彼らを滅ぼしてください。」
主は誠実な方、だから、真実にしたがって報いられる。これはダビデの変わらぬ確信だった。このときも、使者が来てペリシテ人が侵入してきたことをサウルに告げたために、サウルはダビデを追跡することを中止して急きょ引き返さなければならなかった。

救われたダビデは、喜んで神に感謝の犠牲を捧げる。感謝の祈りといけにえとを捧げられるのは素晴らしいことである。なぜなら恵み深い主は、すべての苦しみと悩みからダビデを救い出し、敵の敗北をダビデの眼に見せたからである。

 

 

 

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詩篇第八十七篇

2006年06月06日 | 詩篇註解

 

詩篇第八十七篇

賛歌。コラの子供たちの歌。

主の礎は聖なる山々の中にある。
主はシオンの城門を、ヤコブのどんな住まいにも優って愛される。
あなたの、神の都の栄光は語られる。セラ。
エジプトもバビロニアも私を知る者として思い起こす。
エチオピアと共にパレスチナとティラを見よ。
彼らもこの都で生まれた。


シオンについては言われている。
この人もあの人も主の都で生まれたと。


いと高き方ご自身がこの都を堅く定められた。
諸国の人々を記録するとき、主はその者たちをここで生まれたものとして
数えられるだろう。セラ。


歌う者も、奏する者もすべて言う。
シオンこそ私の泉であると。

 

詩篇第八十七篇注解          神の都に生まれて――命の源である 全人類の神

ここでは、イスラエルの神の特殊性と普遍性が告げられている。イスラエルの神、モーゼの神は、シオンの山々をユダヤの民の幕屋に優って愛され、この山に礎を置かれている。そして、その栄光はあらゆる人々に語られる。

このシオンの山々は、ただにユダヤ人のみならず、エジプト人もバビロニア人もすべて、主を知る人々として、そして、この都に生まれた者として主に記憶されている。

パレスチナ人もフェニキア人もエチオピア人もすべての国民が、このシオンの都で生まれた者として、主に記録され数えられている。こうして主は単にユダヤ人の神であるばかりではなく、全人類の神であることを示される。
このシオンの都から、命と恵みのすべてが湧き出てくる。

文中の「セラ」 (CELAH)の意味はよく分からないらしい。強調の音符とも言われている。

 

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詩篇第九十二篇注解

2006年01月27日 | 詩篇註解

マスコミの寵児が一夜にして拘置所の住人になる。企業の生存を掛けた競争も、
デジタル家電の競争もますます激しくなるのに、企業の利益はなかなかでない。忙しない世の中ではある。有用無用の情報が飛び交い、マスコミも右往左往する。

こうした時代にあって、いたずらに情報に流されることなく、静かに、自分の城を守って生きてゆくのは容易なことではない。世の浮き沈みにできうる限り翻弄されることもなく、自分のペースを守り、着実に生きてゆきたいと思う。

そんなときも、詩篇の言葉は、心の拠り所になる。それは世と転変を伴にしない。移り気な女の恋心のように、秋の菊の花のように、世間の毀誉褒貶は移ろい色あせる。

今日は日曜日ではないけれども。

詩篇第九十二篇


賛美。安息日の歌。                 


どんなに良いことか。主に感謝することは。
あなたの御名を、いと高き方を誉めたたえることは。
朝ごとに、あなたの愛を語り、
夜ごとに、あなたの真実を語ることは。
十弦の琴を弾き、竪琴を奏でて、琴の調べにあわせて歌うことは。
主よ、あなたの御わざはまことに私を楽しませる。
あなたの御手の働きを私は喜び歌います。
主よ、あなたの行いは何と大きく、
あなたの考えはどれほど深いことか。
心の鈍い人はそれに気づかず、
愚かな人はそのことを悟らない。

悪人どもがたとえ青草のように芽生え、
不義を行う者のすべてが花を咲かせても、
それは彼らが最後には滅ぼされるためです。
しかし、あなたはいと高き方、永遠に主。
まことに見よ。あなたに敵する者は、主よ
まことに見よ、あなたに敵する者は滅び、
不義を働く者はすべて散らされます。
そして、あなたは私の角を野牛のように高く上げ、
清らかな油を注がれる。


私は見た、私の敵が打ち負かされるのを。
私は聞いた、たくらむ者たちが悲鳴をあげるのを。
正しい人は、ナツメヤシの花のように咲き、
レバノン杉のようにそそり立つ。
主の家に植えられた者たちは、
私たちの神の家の庭に花を咲かせます。
彼らは白髪になってもなお、実を結び、
青々としてみずみずしい。
主は正しく、私を守る岩。その内に不義はない。

 

詩篇第九十二篇註解               そそり立つレバノン杉のように

主に感謝することは良いことだと言う。良いことというのは、楽しいこと、価値あること。神は、人間からは遠く高きに住まわれる方。人間の想像を絶する方。
詩人は満たされた安息日(キリスト教徒には日曜日)の朝に、神の働きに感謝し、賛美歌を奏でる。その楽器は、琴であったり、ハープであったり。
主はその御わざ、自然の摂理によって詩人に幸福をもたらした。それに応えて詩人は言う。
「あなたの御手の働きを私は喜び歌います。
主よ、あなたの行いは何と大きく、
あなたの考えはどれほど深いことか。」

詩人は朝ごとに神の愛を黙想し、夜ごとに神の真実を語る。ここでも、詩人にとって、神は、愛と真実の方である。

詩人は自然の営みを単なる自然の営みとしてではなく、その奥に、神の働きを、神の愛と真実を、「人格の存在」を感じている。詩人は科学者ではなく詩人であるから、その神の摂理に対する驚嘆を詩で表現するしかない。
自然の神秘は、宇宙の創造の秘儀は、被造物である人間の想像を絶しており、どれほど偉大で深く神秘であるかは、言葉に表しきれない。ただ心の鈍く愚かな者にはわからないと言う。しかし、その点では、どんな人間も似たり寄ったりである。

自然として現れたこの世界を、すべて解明しきれるものではない。
それでも、今日でも人間は宇宙のただなかに、太平洋の深海に、神の創造の神秘を探求する衝動は抑えがたい。

そして、神の働き、神の摂理はただに自然の中に現れるだけではなく、それは人間に、人間の社会の中にも、現れているという。
人間社会の中での「神の御手の働き」とは、神に背く者は敗れ滅び、従順な者は栄えるということである。悪は滅び、善は栄える。
たとえ、悪人には悩みも病気もなく、この世の栄華を誇るかのように満たされ、健康で平穏であるように見えても、それでも詩人は神の摂理を疑わない。なぜなら、神に背く者の繁栄は、それがどんなに隆盛を極め、永久に続くかのように見えても、結局は、最後には打ち萎れ滅びてしまうという。

それに対し、神に忠実であった詩人は、時が来れば、野牛の角のように強く高く上げられ、悪を為す敵に打ち勝っている。そして、新しく絞られたオリーブ油で、祝福されるという。
そして、神に従う人、正しい人はナツメヤシの花のように咲きほこり、レバノン杉のようにそびえるという。これらは、いずれも中東においては繁栄の象徴である。日本であれば、さしずめ桜の花や、常緑樹である松の木にたとえられるのかもしれない。
そして、神に従い守られる者は、いつまでも若々しくみずみずしい。なぜなら、命の源である神に結ばれているから。詩人はこの真実を、詩に歌う。

 

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詩篇第十篇注解

2006年01月20日 | 詩篇註解

詩篇第十篇

なぜ、主よ、あなたは遠く離れて立たれるのか。
なぜ、あなたは身を隠されるのか。苦しみ悩む時に。
悪しき者どもは驕り高ぶって、柔和な人をしいたげる。
どうか彼らのたくらむ罠に自らが捕らえられるように。
悪しき者は自分の欲望を誇り、貪る者を祝福して主を侮る。
悪しき者は鼻を高くして、主を求めず、
彼のすべての企てに神はいない。
あなたの裁きは彼から離れて遠く、
彼は自分に逆らうすべての者を追い散らす。
そして、彼は心の中で言う。
「私は揺らぐことなく、世々に災いに遭うこともない」
彼の口は呪いと欺きと脅しで満ち、
彼の舌には毒と悪が隠れている。
彼は村里のはずれに潜み、
隠れたところで罪なき者を殺す。
彼の目は不運な者を探し、ライオンのように茂みに隠れて待ち伏せる。貧しい者から奪い取るために。貧しい者を網に捕えて引いてゆくために。
貧しい者は砕かれ屈まり、そして、その惨めな者は眼を閉じて倒れる。悪しき者は心につぶやく。
「神は忘れられた。神はその顔を隠して決して見ることはないだろう」


立ち上がってください、主よ。
神よ、御手を上げてください。
貧しい者を忘れないでください。
なぜ、悪しき者は神を侮り、心でつぶやくのか。
罰せられることはないと。
まさに、あなたは悩みと苦しみをご覧になり、御手に引き受けて顧みられる。
不幸な人はあなたに自分をゆだねる。
あなたがみなし児を助けられますように。
悪人の腕をへし折り、彼の隠された悪をことごとく罰せられますように。
主は永遠に王。
異邦の民は主の国から消え失せるでしょう。
あなたは柔和な者の切なる願いを聴き、彼らの心を強められ、みなし児と虐げられた者のために裁き、耳を傾けられる。
この地で再び人がもう脅かすことのないように。

 

第十篇注解   主よ、悪人どもの腕をへし折られよ

前第九篇が神の正義が実現されたことに対する、感謝の祈りであったのに対し、この篇は、第七篇と同様に、正義を求める祈りである。特にキリスト者にとって、正義の実現こそ切望するものである。

この詩篇第十篇でも、詩人は様々な苦難に遭遇している。おそらく、この詩の背景には、ユダヤ人のバビロン捕囚などの一種無政府的な状況があったのであろう。先の第二次世界大戦におけるホロコーストのような時代的な背景があったことが想像される。そうした状況にあっては、剥き出しの暴力がはびこる。戦争下における奪略、暴行といった事態もそうである。

その意味では、この詩篇が歌っているような状況は、現代においても、決して無縁ではない。先年の旧ユーゴにおける「民族浄化」などにおいても、この詩で描写されているのと同じような事態が再現されたに違いないのである。人間の悪は、その時期と状況さえそなわれば、いつでもどこでも発現する点において、二千年三千年という時間は、人間性が改革されるためには、決して長くはない。というより、人間の本性は変わらないのかもしれない。テロ行為は現代においても日常茶飯事である。彼は、物陰に身を潜めて、何の罪もない者を、狩を楽しむように銃で狙い撃ちする。そして、心に神はいないと言う。人間の自然状態は、ルソーが言ったような理想郷ではなくて、暴力のはびこる世界である。そのような状況下で、詩人は、神に正義の実現を祈る。

正義を教えることについては、今日の文科省の審議会も学校教育もまったく無力である。まず国家という観念が希薄である。神がいない。正義の観念も教えられていない。あるのは、剥き出しの欲望である。小手先の知識教育は過分に教えられ、多くの小者を育成する教育には事欠かない。しかし、「正義」という教育の根幹が教えられていない。その結果、現代日本社会には、多くの企業と個人の詐欺と腐敗にまみれている。この哀れむべき状況について、国民は深く考えてみるべきである。

悪に対して正義を実力によって行使するために国家や共同体が形成された。国家の法律による刑の執行は、正義の実現という使命をもっている。神に代わって、国家は地上において、その正義を実現するのである。

しかし、神の意思を執行する代理人であるべき国家そのものが悪を実行するとき、もはや、人間的な救済は不可能である。北朝鮮を見よ。歴史的に見ても、国家がいつも正義の代理執行人であるとは限らない。むしろ、多くの国家は腐敗し堕落した。そのような状況においては、法律も、裁判も「正義」の実現には何の役にも立たない。だが、これほどに絶望的な状況のときにも、詩人は「神は困難と苦悩に必ず気づかれて、顧みられる」ことを信じ、自分自身をすべて、神にゆだねる。

キリスト者は、国家における正義の実現に献身するべきである。キリスト者は、検事や裁判官や弁護士や政治家という職業を通じて、正義の実現に尽くすべきである。キリスト教的な哲学者や思想家は、その哲学や国家学、憲法学などの科学と法体系の建設を通じて、真理に貢献し、神の国としての国家を完成させるよう努めるべきである。そうして今日の日本社会から詐欺師や悪徳官僚、ゴロツキ、腐敗政治家たちが追放されるように。

ソクラテスは彼の信じる「正義」が国法によって断罪されたとき、「悪法もまた法である」として、従容として毒杯を仰いだ。イエスも、武器をもって反抗することなく、十字架刑を耐え忍んだ。人類の歴史の中には、そのような無垢の人の死が、無罪の死が無数にあったはずである。しかし、主は、そのように踏みつけにされた貧しい柔和な者に対して、「耳を傾け、願いを聞き、勇気づけ、こうした虐げに再び脅かされることはない」という。 悪人は主の国から消え失せるという。

 

 

 

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