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イエスの証明について―――ヨハネ書第五章第三十一節以下

2006年11月10日 | ヨハネ書註解

イエスの証明について―――ヨハネ書第五章第三十一節以下

もし私が私について証言するなら、私の証言は真理ではない。
私について証言する方は他にいる。そして、その方が私について保証される証しこそ真理であることを、私は知っている。
あなた方はヨハネの許へ人を遣わした。そのとき彼は真理について証しをした。
しかし、私は人からの証は受けない。それにもかかわらず、あなた方が救われるように、これらのことは言っておく。
ヨハネは燃えて輝く明かりだった。
あなたたちは、しばらくの間、彼の光の近くで楽しもうとした。
しかし、私はヨハネに勝る証言を持っている。
父が私に成し遂げるようにお与えになった仕事が、私が行っている仕事そのものが、父が私をお遣わしになったことの証しである。
そして、私をお遣わしになった御父ご自身が私についてお証しになっておられる。あなた方は父の声をかって聴いたこともなければ、その姿を視たこともない。
そして、あなた方の中に父の言葉を留めていない。というのは、父がお遣わしになったその人を信じていないからだ。
聖なる書を調べよ。その中にあなた方は永遠の命を得ると考えているからだ。まことに、それらは私について証しをするものである。
しかし、あなた方は命を得るために私のそばに近づこうとしない。
私は栄誉を人から受け取らない。
むしろ、あなた方の中には神への愛のないことを私は知っている。
私は父の御名において来た。しかし、あなた方は私を受け入れようとしない。もし、他の者が彼自身の名において来れば、あなた方は彼を受け入れるだろうに。
どうしてあなた方は信じることができるだろうか。お互いの栄誉は
受け取るのに、ひとり神からの栄誉だけは求めようともしない。
私があなた方を父に訴えるだろうなどと考えるな。あなた方を訴える者がいる。それはあなた方が信頼しているモーゼその人である。
というのは、もしあなた方がモーゼを信じていたなら、あなた方は私をも信じていただろうから。彼は私について書いたのだから。
それなのに、あなた方が彼の書いたものを信じないなら、どうして私の言葉を信じるだろうか。

ヨハネ書第五章後半註解

イエスが神の子であることを、一体誰が証明するのだろうか。イエスがユダヤの人々の間に、みずから神の子と名のり、多くの奇跡を行われていたときである。みずから神の子と名のるこの驚くべきイエスの言葉をユダヤの人々が聞いたとき、彼らがイエスの言葉に反発したことは容易に察しつく。「彼はヨセフの息子のイエスで、我々はその父も母も知っている。」(第六章)イエスが神の子であるなど、信じることができようか、誰が、イエスの言葉が真理であることを証明するのか。

それについてイエスは自分勝手に神の子であることの証を行っているのではないと言う。自分で自分を証しするのは真理ではありえない。
そこでユダヤ人たちは彼らが信じていた洗礼者のヨハネの許に人を遣わして、彼の意見を訊こうとした。そのとき洗礼者ヨハネは「自分はメシアではない。御父は御子を愛してすべてをその手に任せられた。聖霊によって洗礼を授けるイエスこそが神の子である」と言って証言した。(第一章)

ここにイエスと彼に先行した洗礼者ヨハネとの人格的な思想的な類縁関係を見て取れる。

確かにヨハネは世の光ではあったが、しかしイエスは人間ヨハネによる証を求めなかった。イエスが神の子であることを証明するものは何か。それは死すべき人間などによって証をされるものではない。イエスはその証を人間に求めようとはしなかった。イエスはご自身の仕事がそれであると言う。イエスの言葉と行い、その全生涯が神の子であることを証しているという。

そして継いで、イエスが神の子であることは聖書が証明していると言う。このとき、まだ新約聖書は成立していなかったから、聖書とはモーゼの五書などをさすが、聖書の中に永遠の命があるとユダヤ人たちは考えて、熱心に聖書を調べていた。それをイエスは、自分を知ることが永遠の命を得ることであると言い、聖書はそれを証していると言う。

それなのに、人々はイエスのところに来ようとはしない。なぜか。それは彼らの心に神への愛がないからであり、人からの栄誉は求めるのに、ただひとり神からの栄誉は求めないからであるとイエス言う。イエスはただ神からの誉れのみを求めていた。その純粋と徹底のゆえに彼のみが神の子と認められた。

そして、同胞のユダヤ人からも受け入れられないイエスは、最後に、
ユダヤ人が砦と頼むモーゼ自身がユダヤ人たちの不信を告発するだろうと言う。モーゼの書いたのはイエス自身についてであるから、モーゼの書いたことを信じていないからこそ、イエスの語ることも信じられないのである。父なる神から遣わされた使命の孤独と悲しみをイエスはこのとき深く感じたことだろうと思う。

イエスのこの言葉は、もちろんイエスご自身の存命時だけの話ではない。イエスに出会うとき、イエスから人はすべてこのイエスの言葉をなげかけられる。
「もしあなた方がモーゼを信じていたなら、あなた方は私をも信じていただろうから。彼は私について書いたのだから。
それなのに、あなた方がモーゼの書いたものを信じないなら、どうして私の言葉を信じるだろうか。」

06/11/14追加

イエスが神の子であることを証言するのは、こうして、それぞれの信仰者の精神であるが、ここでは神が、抽象的な父なる神としてではなく、神の子として、イエスという歴史的にして現実的な一個の人間として認識されている。だから、キリスト教の立場からは、イエスを知らない者は神を知らない。キリスト教だけが人間イエスのみを神の子として、神的な存在として認めている。

しかし聖霊が降った後は、神の子であることを証言するものは、イエスの業である奇跡ではもはやなく、イエスが真理であることについての人間の理性的な精神の絶対的な確信である。その確信は信仰する人間の精神そのものである。しかし、それはまだ信仰であり、絶対的な感覚的な確信であって、概念的な証明にまでは達していない。もちろんその証明は哲学の課題であって、宗教はただ人間の精神に神の表象を啓示し、人間の精神に神の精神を知らせ、その境地へと高めることにある。この信仰における知識の絶対性についての主観的な確信が証言となる。ただカトリック教においては教会の教義がその証言になる。

 

 

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