「自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める人は、自由な人として振舞うのであり、その人は自分の身にどんなことが起こっても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。」
ヘーゲル「小論理学§147(p100)」
これは小論理学で可能性と現実性の統一としての「必然性」について考察しているときに、ヘーゲルが必然性の問題を哲学的なカテゴリーから逸れて、「人間の運命」の問題として補注の中で考察したときの言葉である。この論考に見ても分かるように、この哲学者が、人間や人生の機微にも深く通じていたことが分かる。
同じ個所では、哲学と宗教の認識方法の違いにも触れて、次のようにも述べている。
「われわれが世界は摂理によって支配されているという場合、この言葉のうちには、目的はあらかじめ即自かつ対自的に(絶対的に)規定されたものとして働くものであり、したがってその結果はあらかじめ知られ、欲せられていたものと一致するということが含まれている。世界が必然によって規定されているという考え方と、神の摂理の信仰とは、決して相容れがたいものではない。
神の摂理ということの根底に横たわっている思想は、後に示されるように概念である。概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を止揚されたものとして含んでおり、逆に必然性は即自的には概念である。必然性は概念的に把握されていない限りにおいてのみ、盲目なのである。
したがって、歴史哲学が、生起したことの必然性を認識することをその任務と考えているからといって、それが盲目的な宿命論だという非難ほど誤ったものはない。むしろ、歴史哲学は、そうすることによって、弁神論の意義を持つようになるのであり、神の摂理から必然を排除するのが神の摂理を敬うことになるのだと考えている人々は、その実こうした捨象によって、神の摂理を盲目的で理性のない恣意へ引き下げているのである。
素朴な宗教意識は犯すべからざる永遠の神意について語るが、これは必然が神の本質に属することをはっきり承認しているのである。神でない人間は、特殊な考えや欲求を持ち、気まぐれや恣意によって動くから、彼が望んでいたものとは全く別なことが、その行為から生じてくるということが起こる。しかし、神は自分が欲することを知っており、その永遠の意志は内外の偶然によって定められることがなく、自分の欲することは必ず遂行する。──必然という見地は、われわれの信条、および態度にかんして、非常に重要な意義を持っている。」(ibid p96)
ここには、ヘーゲルの歴史意識と宗教観との密接な関係が読み取れる。彼にとって、歴史哲学の探求は、歴史の中に働く理性を認識することであり、弁神論の意義をもっていた。彼の哲学は必然性の追及でもあったが、それは、宗教的には神の意志の探求に他ならなかったことが分かる。
現在の世界史の進行は、神の意志の現れであり、その摂理である。この摂理の探求の中から、多くの歴史家、哲学者が、盲目的な宿命ではなく、法則として理性として、神に自覚されている目的として認識したものが自由であった。その意味で、自由は歴史の概念である。ヘーゲルのこの歴史観は必ずしも独創ではなく、カントの歴史観を継承し発展させたものである。
またここでは、ヘーゲル独自の概念観もよく現れている。彼にとって概念とは、マルクスが誤解したような単に抽象された観念ではなく、いわば事物に内在する魂であり、宗教的に表現すれば、神の意志でもあった。しかし、唯物論者は、観念的な実在としての概念を認めず、運動の究極的な根拠として物質しか認めないが、唯物史観では、人格的な精神的な概念である自由をどのように説明するのだろうか。どちらが現実をよく説明するか。唯物論では意志の自由の問題をどのように扱うのだろうか。
繰り返し述べているように、宗教と哲学の違いは前者が表象的な認識であるのに対して、後者が概念的な認識であるということにある。しかし、表象的な認識はもちろん「誤れる認識」のことではない。それによっても法則や真理は認識される。宗教を単に阿片として切り捨てるだけでは(そうした側面のあることはヘーゲルも認めている)片付かないだろう。ただ、宗教の認識は、その形式上の不完全から、必然的に哲学に移行せざるをえないということである。宗教の克服はこの面で実現されるだけである。宗教に含まれる真理を感情的に否定し去ることはできない。
私たちの目の前で進行している世界史。イラク問題やパレスチナ問題、さらには北朝鮮問題など、多くの偶然の集積の中から必然性の貫徹と自由の実現という歴史の究極的な目標を洞察すること、それが歴史哲学の任務であることは今日でも同じである。これは個人と人類の運命の探求でもある。