海と空

天は高く、海は深し

荒川選手の金メダル

2006年02月24日 | 日記・紀行

低迷を続けていたトリノオリンピックでようやく荒川静香選手が金メダルを獲得して消えかけていた希望をかろうじてつないだ。すばらしい芸術的ともいえる演技だった。こうした才能は作ろうと思っても作れるものではない。どうしても天賦の素質が必要とされる。一方で、今回のその他の日本チームの不振は問題が大きい。

国内では、民主党がホリエモン氏の「偽メール」をめぐって混乱している。政治における人材の不足、政治家の貧困は、わが国の長年の宿痾である。
その根底には教育と文化の問題がある。
戦後六十年をかけて劣化させてきた教育と文化の「成果」がこれから徐々に蝕み始める。その復興は困難を極める。

中国やロシアの台頭という困難な国際状勢の中で、政党政治の一角を担うべき民主党がこの体たらくでは。
民主党に対する期待と要望についてはこれまでもいくつか述べてきたが、「自由党」と「民主党」の二大政党が日本の政党政治を担ってゆくという政治の理念、自由と民主政治の概念はいささかも揺るがない。

 


世界と自分(2)

2006年02月19日 | キリスト教

『それからイエスは彼らにある例えを話された。言わく。「ある金持ちの畑が豊作だった。そこで彼は自分で考えて言った。「どうしよう。私の穀物を蓄えておくところがない。」そして言った。「こうしよう。自分の蔵を壊してより大きい蔵を建て、そして、そこに私の作物と財産を蓄えておこう。そして自分の魂に言おう。「私の魂よ。おまえは多くの財産を永年にわたって積み上げてきたではないか。これから休みを取って、飲み食いして楽しもう。」
しかし神は彼に言った。「愚か者よ。おまえの命は今夜取り上げられる。そのとき、おまえが用意したものは一体誰の物となるのか。」』
(ルカ伝第十二章第16~20節)

ここでは、金持ちの「自分の命」が彼が長年蓄えた「財産」と比べられている。人がどんなに富や財産を積み上げても、それは自分の命あっての物だねであることが語られている。この金持ちは不幸にも、自分の財産を楽しむ前に命を取り上げられてしまった。

この愚かな金持ちの例えは、イエスが人々に教えを説いているときに、群集の中の一人が、兄弟と遺産を争って、イエスに財産の分配を依頼したときに、イエスが貪欲の警戒すべきこと、人の命が財産によってもどうすることもできないことを教えようとして取り上げられた例えである。

ここでイエスは、神の眼に富むことと自分自身のために富むこととの違いを明らかにして、神の眼に富むこととはどういうことかを説明する。上の章節はそのような文脈で語られた言葉である。

この金持ちは、財産を手に入れたが、自分の命を失ってしまった。マルコ伝の第8章で全世界を手に入れても自分の命を失えば、何の得にもならないと言われたのと同じことが語られている。いかにも青年イエスらしい厳しいことばである。これらの教えはペテロなど選ばれた使徒に向けられたものであったのかもしれない。このキリストの教えと、旧約の伝道の書などに語られている次のような教訓と比べれば、その差異は著しい。


「見よ。良いこと望ましいことは、飲み食いし、そして神が私たちに与えられた生涯の日々に、太陽の下で労苦して得た産物を味わい楽しむことである。それは私たちに与えられた分なのだから。私たちにできるもっとも幸福で良いことは、神が私たちに富や財宝を与えられ、私たちにそれを楽しませになるなら、私たちは感謝して私たちがその労苦によって得たものを楽しむべきだ。それは神からの贈り物だから。」(第5章第18、19節)

「だから、私は楽しむことを薦める。人は太陽の下で飲み食いし、楽しむ以上に善いことはない。それは太陽の下で神が与えられた生涯の日々、骨折りと苦しみに添えられたもの。」(第8章第15節)

こうした旧約の教訓に比べれば、明らかにイエスの教えは深刻である。これが旧約の教えと新約との差異であるのかも知れない。旧約に比べれば、キリストの教えは日々に死を覚悟して生きようとする者たちへの教えのように思われる。神はなぜ人間に「死」と言う絶対的な限界を与えられたのか。なぜ肉体の生命は永遠ではないのか。それは分からない。しかし、この事実は人間に与えられた絶対的な前提である。ここで明らかに要求されている倫理の水準が旧約と新約とでは違うのである。そしてキリスト教では、有限の肉体の生命に代えて、永遠の生命が、「精神の生」が自覚されてくる。


世界と自分

2006年02月17日 | キリスト教

 

世界と自分

 

もし、あなたが全世界を手に入れたとしても、自分の命を失えば、それが何の得になるか。人は失った命に何を代えるだろうか。


(マルコ伝8:36,37 ルカ伝9:25  マタイ伝16:26)

これらの福音書のテキストは、おそらく、同じ原典から採られたのだろう。この言葉が語られた文脈がもっとも明らかになっているのは、マルコ伝かもしれない。

それによると、イエスが弟子たちと一緒にフィリポ・カイサリア近くの村村を巡っているときに、弟子たちにメシアとしてのご自分の身分を確認された後で、やがて来るべき苦しみと死とを避けられないものとして述べられたときに、弟子たちにもその覚悟を問うたときに述べられた言葉である。

ここで対比されているのは、「全世界」と「自分の命」である。そして、全世界をもってしても取り換えることのできないものとして、弟子たち一人一人のそれぞれが持つ命、魂の価値を明らかにしている。それは詩篇四十九篇8節9節でも語られているように、(おそらく、イエスにも詩篇のこうした個所が念頭にあったのだろうが)、神に対しては人間は自分の命はもちろん、兄弟の命も買えない。魂を贖う代金は高く、永久に払いきれない。それほど、私たちにとって命は魂は貴重であるという。

人は全世界をもってしても贖えないこの命を、この魂をどうすれば得ることができ救うことができるのか。
それに対してイエスは言う。自分の命を救おうとするものはそれを失い、福音のためにそれを失うものが、命を得ることができると。この逆説が、イエスの説明だった。この自分を失えば、たとい全世界を手に入れたとしても、それは取り返しのつかないものになるという

それは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスの後に従うことが自分の命を救うことになるという人間的にはきわめて困難な選択を告げた後に語られた言葉だった。イエスは弟子たちを叱って言った。「あなたたちは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 また、イエスは自分の生きた時代を、神に背いた罪深い時代と言っている。

このときイエスに付き従っていたペテロたちが、イエスと同じように自分の十字架を背負って、師の後に従ったことを私たちは知っている。ここには、自分の命、自分の魂を得ること、救うことの代価がどういうものかが明らかにされているのではないだろうか。

 

 

 


必然性と運命

2006年02月02日 | 宗教一般
「自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める人は、自由な人として振舞うのであり、その人は自分の身にどんなことが起こっても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。」
 ヘーゲル「小論理学§147(p100)」

これは小論理学で可能性と現実性の統一としての「必然性」について考察しているときに、ヘーゲルが必然性の問題を哲学的なカテゴリーから逸れて、「人間の運命」の問題として補注の中で考察したときの言葉である。この論考に見ても分かるように、この哲学者が、人間や人生の機微にも深く通じていたことが分かる。

同じ個所では、哲学と宗教の認識方法の違いにも触れて、次のようにも述べている。

「われわれが世界は摂理によって支配されているという場合、この言葉のうちには、目的はあらかじめ即自かつ対自的に(絶対的に)規定されたものとして働くものであり、したがってその結果はあらかじめ知られ、欲せられていたものと一致するということが含まれている。世界が必然によって規定されているという考え方と、神の摂理の信仰とは、決して相容れがたいものではない。
神の摂理ということの根底に横たわっている思想は、後に示されるように概念である。概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を止揚されたものとして含んでおり、逆に必然性は即自的には概念である。必然性は概念的に把握されていない限りにおいてのみ、盲目なのである。
したがって、歴史哲学が、生起したことの必然性を認識することをその任務と考えているからといって、それが盲目的な宿命論だという非難ほど誤ったものはない。むしろ、歴史哲学は、そうすることによって、弁神論の意義を持つようになるのであり、神の摂理から必然を排除するのが神の摂理を敬うことになるのだと考えている人々は、その実こうした捨象によって、神の摂理を盲目的で理性のない恣意へ引き下げているのである。
素朴な宗教意識は犯すべからざる永遠の神意について語るが、これは必然が神の本質に属することをはっきり承認しているのである。神でない人間は、特殊な考えや欲求を持ち、気まぐれや恣意によって動くから、彼が望んでいたものとは全く別なことが、その行為から生じてくるということが起こる。しかし、神は自分が欲することを知っており、その永遠の意志は内外の偶然によって定められることがなく、自分の欲することは必ず遂行する。──必然という見地は、われわれの信条、および態度にかんして、非常に重要な意義を持っている。」(ibid  p96)

ここには、ヘーゲルの歴史意識と宗教観との密接な関係が読み取れる。彼にとって、歴史哲学の探求は、歴史の中に働く理性を認識することであり、弁神論の意義をもっていた。彼の哲学は必然性の追及でもあったが、それは、宗教的には神の意志の探求に他ならなかったことが分かる。

現在の世界史の進行は、神の意志の現れであり、その摂理である。この摂理の探求の中から、多くの歴史家、哲学者が、盲目的な宿命ではなく、法則として理性として、神に自覚されている目的として認識したものが自由であった。その意味で、自由は歴史の概念である。ヘーゲルのこの歴史観は必ずしも独創ではなく、カントの歴史観を継承し発展させたものである。

またここでは、ヘーゲル独自の概念観もよく現れている。彼にとって概念とは、マルクスが誤解したような単に抽象された観念ではなく、いわば事物に内在する魂であり、宗教的に表現すれば、神の意志でもあった。しかし、唯物論者は、観念的な実在としての概念を認めず、運動の究極的な根拠として物質しか認めないが、唯物史観では、人格的な精神的な概念である自由をどのように説明するのだろうか。どちらが現実をよく説明するか。唯物論では意志の自由の問題をどのように扱うのだろうか。

繰り返し述べているように、宗教と哲学の違いは前者が表象的な認識であるのに対して、後者が概念的な認識であるということにある。しかし、表象的な認識はもちろん「誤れる認識」のことではない。それによっても法則や真理は認識される。宗教を単に阿片として切り捨てるだけでは(そうした側面のあることはヘーゲルも認めている)片付かないだろう。ただ、宗教の認識は、その形式上の不完全から、必然的に哲学に移行せざるをえないということである。宗教の克服はこの面で実現されるだけである。宗教に含まれる真理を感情的に否定し去ることはできない。


私たちの目の前で進行している世界史。イラク問題やパレスチナ問題、さらには北朝鮮問題など、多くの偶然の集積の中から必然性の貫徹と自由の実現という歴史の究極的な目標を洞察すること、それが歴史哲学の任務であることは今日でも同じである。これは個人と人類の運命の探求でもある。