プロバイダの変更
先月の五月一日からプロバイダーを変更した。そのためにホームページに記録していた以前の文書が読めなくなっている。一九九八年頃に開設したホームページに記事や論考を記録しはじめていたが、消えてしまった。そのなかには欧米の学者の論文の翻訳の一部や聖書の詩篇などの翻訳などもある。いずれ上梓しようと思い、また途中でほとんど中断してしまっていたとは言え、ヘーゲル哲学大系を抄訳録したノート風の「ヘーゲル哲学事典」などもホームページに載せ始めていた。それも消えてしまった。
ホームページの標題を「
哲学の小窓」として(http://www8.plala.or.jp/ws/)、それまでの論考や記事をそこに記録しはじめていた。しかし、記事を書くごとにいちいちアップロードしなければならず、HTMLタグやスタイルシートの活用にも手間もかかった。そこにやがてブログが登場してきた。そして、ブログの簡便さに馴れると、記事や論考のほとんどをブログの方に記録して、ホームページ上での論考の整理もおろそかになりがちだった。
科学としての思想、科学としての哲学を志すとなると、どうしても世界についての私たちの認識を、一つの体系として構築して行かざるをえない。真実に科学の名に値する哲学は体系的であるからだ。この認識の体系の基本的な骨格については歴史的にはすでにヘーゲルがやり遂げている。だからヘーゲル以降に生きる我々は、この哲学大系に対してどういう立場を取るかによって、我々の哲学的な立場が決まる。
私自身の最終的な立場は、まだ構想半ばではあるが、私自身の「
哲学百科辞事典」(http://aowls.exblog.jp/)において明らかにしようとしている。しかし、この辞事典についても、私の「時間と能力」の問題もあって遅々として進んでいない。
しかし、いずれにせよ、どこまでやりきれるかはとにかく、新しいプロバイダーと契約し、ホームページも新しく開くことにした。内容については基本的には以前と変わり様がない。パソコンに保存されているデータをそのままアップロードして行くことになる。
当面は「
全集アーカイブ」として、表紙だけをとりあえず再録した。(http://www.eonet.ne.jp/~anowl/index.html)
全集と体系の形態にいたるまで少しずつでも構築してゆきたいと思っている。さし当たっての記事や論考はブログにまず投稿して記録して行くつもりでいるけれども、それをこのホームページで、一つの必然的な認識の体系として、再構成して行かなければならない。
それにしてもこの非哲学的な国民性のなかにあって、それがたとえ世の覚えのめでたくもない仕事であるにせよ、他人は他人で我が道を行けばいいと思っているが、いったいそれが「何の役に立つのか」というモンゴル人種に特有の実利的な問いではなく、「真理」そのものを問うてきたつもりである。言い訳をするなら、真理こそがもっとも有益なものであるはずだから。
それにしても、こうした論考に意義はあるか。あるとすればそれはどのようなものか。一つはヘーゲル哲学の研究を中心的なテーマにしていることである。とくにヘーゲルの「概念論」の分析と研究とその意義を明らかにすることを中心的な課題としている。その成果も乏しく、内容もいまだきわめて不十分で未熟であるとは言え、ヘーゲルの「概念論」については、これまで誰も明らかにしていない独自の解釈の方向を示していると思う。この方面の研究は引き続き根本的な研究テーマである。このブログの目的でもある。
ヘーゲルの概念論は真理認識において不可欠の要素であり、また、従来の唯物論者マルクスなどの理解の及ばなかった概念観について考察し、イデア論の復活と再認識を目的としている。また、とくにヘーゲルがキリスト教の「聖霊」を、必然的な「絶対的な精神」として捉えなおしたところに、ヘーゲル哲学の意義を見出している。「ヘーゲル哲学」を「最深の神学」としてこの哲学にかかわり始めた私にとっては、この哲学とキリスト教との関連をさらに解明してゆく仕事も残っている。ヘーゲルにあっては「哲学」することは至高の宗教的行為だったのだ。
さらに、マルクス流の共産主義国家論の、歴史的な哲学的な破綻を受けて、ふたたびヘーゲルの『法の哲学』の現代国家論にもつ意義とその弁証法の再評価を主張している。つまり立憲君主国家の形成は、現代においてもなお課題として残されているということである。マルクスは市民社会の否定的な側面のみを見て、その肯定的な面を正当に評価することが出来なかった。
先般に行われた自民党と民主党の党首討論おいて、鳩山由紀夫氏などは「友愛社会の建設」をアピールされていた。なるほどたしかに、抽象的な「友愛」の精神に誰も反対する者はいないだろう。しかし本当の課題は具体的な各論で論争することである。
私の論考では、現在の自由民主党と民主党による利益談合型の政界を解体し、自由主義と民主主義をそれぞれ自由党と民主党によって充実発展させてゆく理念追求型の政党政治への変革を主張している。その上で、国家の行政形態として道州制国家を展望している。
元大蔵官僚の榊原英資氏や民主党などは、わが国ではいまだ歴史的な体験がないことを理由に、国と人口40万人程度の自治体(基礎的自治体)の二重構造国家を主張しているようだが、国家概念としては道州制国家の方が優れている。新しい歴史を創造してゆくことだ。
わが国ではヘーゲルの『法の哲学』の研究や「弁証法」の能力の修行もせずに、一国の指導者の地位にさえ就くことができるのである。以前に「
国家指導者論」という小論(http://anowl.exblog.jp/7671044)でも論及したが、ヘーゲルの『法の哲学』や「弁証法」について何らの素養もなくして首相の職さえ勤まることのできるこの国では、その「党首討論」といっても、その実、自らの政治のレベルと学問科学の哀れな水準を、世界に告知するだけの恥さらしでみじめなものになり終わらざるをえない。それもやむをえないと言える。何度も繰り返して言っているけれども、西洋のことわざにあるように「自分たちにふさわしい水準以上の政治を国民はもつことは出来ない」のである。
フランス革命や文化大革命など過去の歴史的な事件などにおいても見られたように、また、現在も世界各地でなお続いている民族や宗教間の紛争、とくに中東やインドなどに起きている各宗教、宗派間の紛争などの不幸の根源が、理性的な思考の能力に欠けた指導者、大衆のその悟性的な意識と思考にあることも明らかにした。
狂信や個人崇拝の認識上の根源がその「悟性的思考」にあることを明らかにして、悟性的思考と理性的思考(弁証法思考)の違いを明確にし、後者の能力なくしては罰と不幸は避けられないこと、理性的思考(弁証法思考)の決定的な重要性について論及していることなど、これらもこの全集の意義であるといえるかもしれない。