海と空

天は高く、海は深し

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について]

2023年06月16日 | キリスト教

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について]

§72

Dies absolute Wesen (※1)ist gegenwärtig in unserem reinen Bewusstsein (※2)und offenbart sich uns darin. Das Wissen von ihm ist, als durch es in uns vermittelt, für uns unmittelbar und kann insofern Glauben (※3)genannt werden.

第七十二節[信仰について]

この絶対的な本質は我々の純粋な意識の中に現われ、かつ、そこで我々に自らを明らかにする。絶対者についての知識は、純粋な意識によって我々に媒介されたものとして我々の中に直接にあり、その限りにおいてそれは 信仰 と呼ぶことができる。

 


※1
Dies absolute Wesen この絶体的な本質(存在)
とは宗教的な概念としてはキリスト教の「神」。

岩波文庫版の武市健人訳においては、「純粋意識の中で我々に啓示される。」と受動態に訳しているために、「(絶体的な本質、「神」が)自らを我々の純粋な意識の中に啓示する」という、絶体的な本質の主体性が十分に明らかにされていない。

Wesen 本質、存在。

ここでは「本質」と訳したが、「存在そのもの」の意味も共有している。日本語には的確な訳語がない。
存在と本質との関係については、「大論理学」の中の「本質」の項に、「存在の真理としての本質」、「本質とは過去の、しかし時間を超越した過去としての存在」として説明されている。

「an und für sich」をどう訳すべきか - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/tPnAPg

※2
in unserem reinen Bewusstsein 我々の純粋な意識の内に。
この「reinen」は「アプリオリ a priori 先天的」と同義で、「感覚器官や経験とはかかわらないもの」だから「純粋」である。カントの「純粋な理性 die reinen Vernunft 」を受け継いでいる。私たちの「意識そのもの」あるいは、「カテゴリーの場としての意識」

※3
簡潔だが、信仰の本質を的確に捉えている。

信仰と知 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ULrTn3

 

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Christmas Secrets

2018年12月25日 | キリスト教

Christmas Secrets - Enya (with lyrics)

Christmas Secrets クリスマスの秘めごと

Underneath a winter sky   
冬の空の下、
A distant train sings out the miles  
数マイルも向こうに遠く汽車の轟が聞こえてきます。
And so I wonder can it be
そうして汽車は一マイルごとあなたを
Will every mile bring you to me?  
私のもとに連れてくることができるのかしら?

A promise made may still come true
交わされた約束はいつか実現するかもしれない。
So I am waiting here for you
だから私はここであなたを待ちつづけます。
If you don't come, what will I do?
もし、あなたが来なければ、私はどうすればいい?
Who shall I tell my secrets to?
だれに私の思いを伝えればいい?

Christmas bells ring out their chimes
クリスマスの鐘が鳴り響きます。
I hear them echo through the night
夜のしじまの向こうからそのこだまが聞こえます。
And moonlight shines upon the road
そして月明かりは舗道の上を照らしています。
And trembles on the fallen snow
そして降り積もった雪の上にふるえています。

I look into the midnight blue
私は真夜中の蒼空(あおぞら)を仰ぎ見ています。
So many stars I never knew
私の知らないそんなに多くの星々、
If you don't come, what will I do?
もしあなたが来ないのなら、私はどうすればいい?
Who shall I tell my secrets to?
だれに私は私の思いを告げればいい?

I look into the midnight blue
So many stars I never knew
If you don't come, what will I do?
Who shall I tell my secrets to?


「私は去ってゆくが、しかし、また再びあなたたちの許に戻ってくる」と私があなたたちに言ったのを聞いただろう。もし、あなたたちが私を愛するなら、私が父のもとに去ってゆくことを喜ぶはずだ。父は私よりも大いなるお方だからである。(ヨハネ書14:28)

イエスは再び戻ってくると約束された。しかし、それはいつの日かわからない。ただ、いつの日か私たちの許に帰ってくるという約束を信じて待っている。しかし、あなたが、もし戻ってこないのなら、私はどうすればいい?
その時、あなたへの私の秘めた思いをいったいだれに告げればいいのか?

平成時代のクリスマスは今夜が最後となります。なにはともあれ今年も穏やかなクリスマスを迎えられたことを感謝します。クリスマスおめでとうございます。

 

 

 

 
 
 
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Ave Verum Corpus K618

2016年12月25日 | キリスト教

2016Xpmas


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今年もまたクリスマス

2009年12月25日 | キリスト教

 

今年もまたクリスマス 

今年は残念ながらクリスマス・イブの12月の24日にブログ記事を投稿できなかった。また、送るべき多くの人にクリスマスカードを送って、ご挨拶することもままならなかった。毎年、年を経るごとに、不義理、わがままの度が強まってゆくような気もする。

これまで2005年に記事の投稿をはじめてからも、クリスマスに投稿を欠かしたことはない。今年は余裕もないけれど、かろうじてクリスマスに間に合うように、やっつけ仕事のように記事をとにかく作成。最近は聖書の繙読さえもおろそかになっている。聖書詩篇の註解もほとんど中断したままになっている。主よ、許したまえ。

12月に入り、年末が近づくと、近年になって町中にイルミネーションの明かりが目立つようになった。夕暮れや夜間に、町中を歩いていたり、自転車で走っていると、とくに、最近では発光ダイオード(LED)の普及によるせいか、鮮明な色彩のクリスマスの飾り付けが至るところに見られる。

ひと昔は遊園地や教会やイベント会場などの場所に限られていたクリスマスツリーなどの明かりも、最近は普通の民家でも飾り付けられるようになってきた。それだけに、キリストのご降誕祭が日本国民においてもすでに完全な国民的な行事になったということなのかもしれない。

イエス・キリストの真実の誕生日はわかってはいない。だから、その日は永遠に隠されたママなのだろう。しかし、マリアを母として誕生日のあったことはまちがいのないことなのだから、象徴的な一日を選んで、そのご降誕を祝うのはかならずしも悪いことではない。ある宗派のように、お誕生日がわからないのだから、クリスマスを祝わないというまで「偏狭」でなくともよいと思う。主の苦難の十字架のその道行きに、三十数余歳の御生涯が象徴されているように、主イエス・キリストの短い一生は愛と犠牲そのものだった。その苦難と忍耐は、主のすべての弟子に受け継がれている。

今年になっては京都国立近代美術館において、12月27日までボルゲーゼ美術館展が開催されている。おそらく今度も鑑賞の機会も逃してしまうにちがいないが、この展覧会にはマドンナの肖像画で有名なラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」も飾られているという。わが国にはすでに滝廉太郎のようなクリスチャン音楽家は生まれているが、画家についてはまだ知らない。しかし、いずれはこの非キリスト教国日本にも、ラファエロのようなクリスチャン画家も生まれてくるのかもしれない。

ブログ上の交流でも私の不精のゆえにさほど深まったとは言えないけれど、hishikaiさんやmatubaraさんやpfaelzerweinさんのブログには折りに触れて訪れている。とくに今年になっての菱海孫さんとのブログ上の交流は楽しかった。少なくとも氏のように思想的に哲学的に近い(私の独断と偏見か?)ブログ上の論者を発見できたことはうれしい。私もまた僭越にも、ブログでも少なくともなにがしかの思想なり哲学を主張している。今後も言論の立場から私なりに終生国家に貢献してゆきたいとは思っている。

21世紀に入って隣国中国の台頭に比べて、日本国の衰退の傾向は著しいが、やはりその根源は人材の枯渇にあるのだと思う。第二次世界大戦における大日本帝国の敗北とマッカーサーGHQの占領政策がボディブローのように効き始めているということか。しかし、ポーランド、ハンガリーなどに見るように、真実のキリスト教民族、キリスト教国家に亡国の運命はまだ聞いたことはない。

退廃した自民党に代わって政権交代を果した民主党の小沢一郎氏は、今、明仁天皇のご意思も左右する小沢新天皇として権力の絶頂を極めつつあるように思える。かって小沢一郎氏は、高野山で金剛峯寺の松長有慶会長と会談したときも記者団に対して、「キリスト教は排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」とのたまうたそうだ。この一言に、小沢一郎氏の「思想と哲学と人物」の水準とその「罪と罰」が明らかになっている。

欧米社会と日本国のどちらが行き詰まっているか、私にはよくわからないけれども、選挙で多数を得るためならどんなことでも言うようなキリスト教嫌いの小沢一郎氏が、中国や韓国などにご拝謁と贔屓とを賜るために、くれぐれも国を売ることのないように願いたいものである。

バッハはその音楽創作でプロテスタント国家とキリスト教化に貢献した。今夜のクリスマスの楽曲としては、久しぶりにマタイ受難曲の片鱗でも聴いてお茶を濁すことにしよう。せっかくバッハ全集を所有しているのに、鑑賞と論評に能力の余裕のないのは残念なことではある。だけれどもそれも先の楽しみとして、またここでお得意の言い訳をする。

今年のクリスマスの宵をともに過ごすことの出来なかった人、友人たちに、お詫びを込めて、また、とにかく曲がりなりにも平安のうちにクリスマスの夜を迎えることのできたことに感謝を込めて、この拙記事でご挨拶を送ります。

皆さん、クリスマスおめでとう。


Contralto Eula Beal sings Bach's "Erbarme Dich"
http://www.youtube.com/watch?v=gIdNBgyC88o&feature=related

 

 
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概念とは何か(ノート3)

2009年06月13日 | キリスト教


概念とは何か(ノート3)

概念とは何か。それを比喩的に言えば、概念とは観念的な種子のようなものである。植物にたとえるならば、その種子の中にはレバノン杉や椎の木やダイコンやニンジンの設計図が含まれているのである。現代科学はその設計図の構造をさらに解明して、それを遺伝子の配列として捉える。

動物においてもまたその設計図は、卵子や精子の中に含まれる染色体の中の遺伝子の構造として設計されている。そして、それらの種子や胚珠はやがて、熱、光、水、空気など生育に必要な環境と条件が備われば必然的に萌芽するのである。その鉄の必然性は誰にも押しとどめることが出来ない。

そして、自然界における最高の概念的な存在こそ「自我」である。「自我」あるいは同じことだが「意識」、あるいは「精神」といってもよいが、それは現実的で具体的な生ける「概念」である。

そして、自我による最高の作品が国家である。国家は人類の創造しうる至高の芸術作品であるということができる。

自我も意識も「精神」として、いずれもその思考において、設計図を描くことが出来る。建築家はその頭のなかで構想した住宅の設計図を青写真にすることによって、建築物の「概念」を構成する。そして、この「概念」は、木材、セメント、鉄骨などの素材を得ると、現実に住宅として存在するようになる。画家や彫刻家も白いキャンバスや大理石を前にして、それぞれ美の概念を具体化する。

ヘーゲルなどが用いる概念という用語は、単なる抽象的な普遍的な観念のみを意味しない。単なる共通性にすぎない普遍性と真の普遍性は明確に区別されている。

また、この概念は人間の単なる観念的な生産物を意味するだけではなく、自分自身を産み出すものである。聖書においては神は精神(Geist)であり、万物を創造する主体でもある。言うまでもなく、キリスト教においては三位一体の神として、神は精神として認識されている。

そして、聖書の神話においては、智恵の実のイチジクを食べた人間のみが神に似た存在として、単なる動物とは異なる「精神的な」存在として捉えられている。この人間の自我の、意識の、精神の本質的な構造をもっとも深く分析したのはヘーゲル哲学の仕事であるということができる。しかし、このヘーゲルの概念論を正しく理解し得ているものは今日おいても誰もいないのではあるまいか。彼は忘れられた思想家で、今なお誰もその灯火で明るみに出すことの出来ない、暗黒の彼方にある哲学者である。



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雅歌第六章註解

2009年02月04日 | キリスト教

 

雅歌第六章註解

「雅歌」は詩でもあるので、人それぞれに自由に自身の器量に応じて味わえばよいと思い、註釈もよけいに思い書かなかった。とは言え私が現時点でこの詩からどのように美と思想を得ているか記録しておくことも多少の意義もあるのではないかと思った。文章にすることによって後からそれを反省や検討の対象とすることもできる。

ちょうどパスカルが、宇宙の広大無辺な神秘の前に畏れおののきながら、自身をもっとも弱い一本の葦に喩えたように、有限な人間が世界のすべてを認識することを夢見ることの傲慢であると同じように、「雅歌」という風雪を経た古典的宗教的作品を前にしては、私の註解もおそらく「群盲象を撫でる」の類の一知半解にすぎない。

しかし、たとえそうであっても、私たちの真理観からいえば、真理は現象的認識の総和の中から明らかになってくる。その意味では拙なりとは言え、現代日本とは隔絶した時代、風土、宗教的伝統のなかに生まれたこの「雅歌」という詩についての一知半解の私の註解のようなものも、宗教詩などとはふだんは無縁の人には参考になるかもしれない。ただ、この身の程知らずの「雅歌」の註解が誤解の種を蒔くことにならないことを祈るばかり。

「雅歌」と言う作品自体が一つの比喩的な象徴的な意味をもっている。イエスが「喩えなしに何一つ語らなかった」(マタイ書13:34)と言われているように、聖書自体が一つの喩えで構成されている。秘密を知ることのできるものだけのために、雅歌も全体としては、男女の相聞歌、恋歌であるけれども、何よりもその愛が、神の愛の比喩として、象徴として歌われている。

それは神のイスラエル民族に対する愛であり、また人となったイエス・キリストの愛を象徴している。それはもっとも聖らかなる愛である。この雅歌のなかで、人の愛とは近くて遠い青年ソロモンの愛を一つの比喩として、たとえおぼろげではあっても、そこから私たちは神の愛がどのようなものかを類推的に知ることができる。

「愛」は聖書の核心的な主題であって、愛のゆえにイエスは無垢のご自身を贖罪の生けにえとして神に捧げ、神はその血のあがないによって人類の罪を許される。イエスを犠牲の羊としてこの世におくられたのも、それもまた父なる神の愛のゆえである。この「雅歌」は全八章と短編ながらその前表として、聖らかな高貴の愛を歌った貴重な恋愛詩である。

旧約の正典である雅歌の成立は、紀元前250年頃と推測され、一部にギリシャ的な美意識も見られる。新約聖書の時代に入って、パウロはこの本の主題をさらに発展させ、希望、信仰、愛の三つのキリスト教的な徳のなかで、もっとも大いなるものは愛であると言い、たとえ山を動かすほどの信仰があったとしてもそこに愛がなければ無に等しいとも言う。愛はそれほどの「最良の贈り物であり最高の道」とされている。(コリント前書第13章)

創世記では父アブラハムの息子イサクに対する愛が、またダビデに対するヨナタンの友愛、ダビデ王のバテシバに対する性愛など、聖書の中には多くの愛が語られている。新約聖書では、放蕩息子に対する父の愛をイエスが語ったことは良く知られている。この「雅歌」の中では、青年の娘に対する愛が歌われている。この青年はダビデの息子で「平和な」という意味の名をもったソロモンである。

青年と娘は愛し合っており、先の第五章で、王である青年ソロモンは花嫁になるべき娘のところに訪れるが、行き違いから娘は青年ソロモンを受け入れることができず、戸を開いて彼を迎え入れようとしたときにはすでに彼は立ち去った後だった。娘は急いで青年の後を追ってその姿を探したが見つからず、逆に街の夜警に見つけられて打たれ、着ていた衣さえ奪われてしまう。

ここには、神を見失い迷ったイスラエルがバビロンに征服され異国の地に連れ去られるという民族としての苦難の体験が比喩されている。

愛する人を見失った娘を勇気づけるように、女たちはいっしょに探そうと申し出るが、娘には青年がどこへ行ったのかわかっている。青年は自分の領地である百合の花咲く園で羊の群れの世話をしている。

羊の群れを飼う牧童は、中近東では人を養い導く神の存在の比喩で語られる場合が多い。この雅歌においても、牧童として現れる青年ソロモンの愛は、ユダヤやイスラエルに対する父なる神の愛を象徴している。ソロモンが神殿を築いたユダの国の都であるエルサレムやイスラエルの首都ティルザの麗しさが詩のなかで娘の美しさに喩えられているように、父なる神を懐くヘブライ民族がこの娘に象徴されている。

そして、ダビデやソロモンはキリストの前表とされるから、娘に対するソロモンの愛は、やがてキリストの愛を象徴するものとなる。もちろん、イエスの愛が十字架の苦難を耐え忍ぶほどに深いもので、私たちの想像を絶するものであって、もっとも高貴な青年ソロモンの娘に対する愛も人間的で、それは私たちにはより身近なものではあっても、イエスの生涯の愛の物語とは比べることの出来るものではない。

 現代の日本からは大きく異なる中近東という時代や風土を背景にして生まれた雅歌という詩には、私たちには理解しにくい表現が多い。娘の美しさはさまざまに比喩的に表現されているけれども、なかなか想像しにくい。たとえば、娘の髪や歯を、遠くの丘を駆け下りる山羊の姿や白い毛を刈られて行列をつくって列んでいる雌羊にたとえられても、実際に見て経験することもないからなかなか想像しにくい。また娘の姿をイスラエルの都ティルザやユダヤの都エルサレムにたとえているが、とくに麗しい都を実際に見たことのない者にはこれもなかなか想像しにくいだろう。

第4節や第10節などに繰り返し表現されているが、娘の美しさを、新共同訳のように「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい」というよりも、「都市や軍隊の掲げる旗や目印のように美しさが際だっている」ということだろうと思う。第12節は、「私の気づかぬうちに(青年の乗っている、民族の守護神の名をもった)戦車のうちに運ばれていた」とも解することができ、その象徴的な意味はよくわからない。第13節は新共同訳では、第7章に組み入れられているが、「マハナイム」が軍隊の「野営地」という普通名詞なのか、あるいはそれが土地の固有名詞になったものかもわからない。

 

 

 

 
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雅歌第六章

2009年01月31日 | キリスト教
 
 
神の呼びかけと忍耐にしめされた深い愛が歌われている。

雅歌第六章

女たちの合唱
1.
どこへ行ったのか、あなたの愛しい人は。
女のなかでだれよりも美しい娘よ。
どこへ去ったのか、あなたの愛しい人は。
わたしたちもいっしょに探そう。

娘の歌
2.
わたしの愛しい人は自分の園へ、
かぐわしい草の牧場へ降りて行きました。
羊の群を飼いに、園で百合の花を摘むために。

3.
わたしはわたしの愛しい人のもの、
わたしの愛しい人はわたしのもの、
百合の花咲く園で羊の群れの世話をしています。

青年の歌
4.
あなたは、ティルザの都のように美しく、
エルサレムのように麗しく、旗のようにわたしの胸をときめかせる。
わたしの恋しい人。

5.
あなたの眼でわたしを見つめないで。
わたしを戸惑わせるから。
あなたの髪はギレアデの丘を駆け下りる山羊の群のようにきらめく。

6.
あなたの歯は洗い場から追い立てられて駆け上がってくる雌羊のよう。
みんな双組にならんで失われたものはない。

7.
ベールに透かされたあなたの頬は、ザクロの実のよう。

8.
六十人のお妃と八十人の側女、乙女は数が知れぬほどいる。

9.
わたしの鳩は彼女ひとり。わたしには清らかな人。
その母のただ独りの娘。産みの親にはかけがえもない。
彼女を見る娘たちは幸せな人と言い、
お妃と側女たちも彼女をほめる。


女たちの合唱
10.
夜明けのように美しく見つめられ、
白い月の光のように清らかで、
太陽の輝きのように胸をときめかせる娘はだれ。

娘の歌
11.
流れの畔の花の実を見るために、
わたしはクルミの木の園に降りて行きました。
ブドウの蕾は開いたか、ザクロの花は咲いたか。

12.
そこで、わたしの気も付かぬうちに、
あの人はわたしの乳房を奪いました。
戦車でわたしを運び去るように。

13.
A 女たちの合唱

帰っておいで、帰っておいで、シュラムの娘。
帰っておいで、帰っておいで、あなた姿がよく見えるように。
 
B 娘の歌
マハナイムの踊りに人が見入るように、あなたたちはなぜシュラムの娘に見とれるの。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ロゴス(ho logos)・概念・弁証法

2009年01月23日 | キリスト教

 

ロゴス(ho logos)・概念・弁証法

新約聖書のヨハネ書の第一章の冒頭に、「はじめに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。言はこの世の存在する前からあり、言は神であり、言ははじめには神と共にあり、すべてのものが言(ロゴス)に由って神に造られた。被造物のなかで言によって造られなかったものは一つとしてなかった」(ヨハネ書1:1~3)と語られている。

そしてヨハネ書の福音書記者が「すべてのものが言(ho logos)に由って神に造られた」と語っているように、イエスの誕生そのものも、十字架上の死もまさに宇宙的な必然性(ロゴス=言、ことば)をもって現象したのである。

そうであるから、もし現実にイエスが救世主でないとすれば、我々人類はふたたび救世主を待たなければならないことになる。しかし、歴史的にはすでに絶対的な必然性をもってイエスはベツレヘムに生まれ、ゴルゴダの丘で十字架に架けられて死んだ。だから、もう人類は救世主の出現を新たに待つ必要はない。ただ、イエスを救世主と認めることのできないユダヤ人だけが、いつまでも空しく待望し続けているだけである。宇宙的な必然性と呼ぶか、ロゴスと呼ぶかはとにかく、絶対的な必然性をもってイエスはこの世に現象し、神との宥和を実現したのである。

そして、イエスの誕生は歴史的にも「神の国」がこの世に現れる端緒でもあった。イエスは何よりも「時は満ちて神の国は近い」(マルコ書1:15)ということばで伝道をはじめた。「時は満ちて」というのは、春が来て初めて櫻が咲くように、また、胎児が母胎のなかで十ヶ月近く生育してから初めて産み出されるように、生誕のための「必然的な条件が揃って」という意味である。この時以来、「神の国の訪れという喜ばしい知らせが告げられ、誰もがその中へ押し入ろうとしている」(ルカ書16:16)

二〇〇九年の初頭に就任したバラク・オバマ、アメリカ新大統領は、リンカーン第十六代大統領が就任の宣誓式で使った聖書を博物館の中から持ち出して、自分もそれに手を置いて宣誓した。このようにアメリカの建国も、この「神の国」の到来の知らせとは無関係ではない。歴史的にもアメリカという国は聖書の上に立脚する国であり、イエスが「まず神の国を求めよ」と命じていることと無関係ではない。そして、新旧の相違はあるけれども、いずれも聖書の基礎の上に立脚した国家という点では、イスラエルも米国と共通する

そして、新約聖書におけるロゴスの思想を近代において「概念」として捉えなおしたのがヘーゲルだった。ヘーゲルにおいては「概念」とは、マルクスが解したような人間の頭脳による観念的な生産物ではなく、ヨハネ書のロゴス(ho logos)のように、万物を産み出す魂のようなものである。それは鉄の必然性の法則性をもつものであり、宗教的には神の摂理とも呼ばれるものである。そして、その法則性は「弁証法」として、プラトン以来の高貴な哲学として近代においてヘーゲルによって復活されたものである。言(ことば、ロゴス=ho logos)は「概念」でもあり、理性であり、弁証法でもあり、かつ、光であり命でもある。それらは同一物のそれぞれの属性である。わたしたちはこれを知り学ぶことによって、永遠の命を得ることができるとされるものである。

 

 


 

 

 

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ヨハネ書第一章第九節~第十四節註解

2009年01月08日 | キリスト教

 

ヨハネ書第一章第9節~第14節

9    まことの光があった。この光は世に現れて、すべての人を照らしだす。

10   彼は世にあった。世は彼によって造られたが、世は彼がわからなかった.

11   彼は自分のところに来たのに、民は彼を受け入れなかった。

12   しかし、彼を受け入れた者、彼の名によって信じた者に、彼は神の子となる力を与えた。

13   血によらず、肉の欲にもよらず、また人の欲にもよらず、その人々は神から生まれた。

14  そして、言は肉となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちは彼の栄 光を見た。父の独り子としての栄光は、恵みと真理に満ちていた。

ヨハネ書第一章第9節~第14節註解

ヨハネ書の第一章は旧約聖書の創世記冒頭を踏まえて書かれている。創世記では「はじめに神は天と地を造られた」とあるが、このヨハネ書では「はじめに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。言はこの世の存在する前からあり、言は神であり、言ははじめには神と共にあり、すべてのものが言(ロゴス)に由って神に造られた。被造物のなかで言によって造られなかったものは一つとしてなかった」といわれている。そして、「彼(言)の中に命があり、命は人間を照らす光である」(第4節)

ここに、「光」「言」「命」などの重要かつ根本的な概念が出てくる。ヨハネ書がほかの共観福音書と異なって、抽象的なギリシャ哲学の雰囲気を感じさせるのも、このような叙述の仕方にあるのだと思う。

この「言(ことば)」の原語「ho  logos」には定冠詞がついており、そこには論理、思想、理性、概念などの意味も含まれていると考えられる。それと同時にここでは、「言(ことば)」は「神」に等しいものに見なされている。そして、この「言(ho  logos)」の中に命があり、命は人間の光である。これがヨハネ書の世界観である。光も言も命もおなじ一つのものの属性である。(第4節)

そして、この光について証しをするためにヨハネが神より遣わされる。しかし、ヨハネは光そのものではないという。光に「真」と「偽り」があるのだろうか。ここで「まこと」というのは、本物と偽物において「本当の」というくらいの意味である。おなじ金色でも、本物の金とメッキの金のちがいのようなものだろうか。哲学的な用語でいえば、光の「概念」であり、光そのものである。(第8節)

ヨハネ福音書の記者は、ここで「まことの光」としてのイエス・キリストをすでに前提しており、彼がヨハネと比較されて述べられている。そして、この「まことの光」がこの「世」に来てすべての人を照らすと言う。照らすと言うことには、当然に闇の存在が前提されており、闇においては物事を識別できないということであり、光の存在によって、それに照らされて、わたしたちは物事の美醜や善悪などを明らかに認めることができるようになる。(第9節)

新共同訳の第10節では、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と訳されているけれども、この個所には「言(ho  logos)」そのものではなく、代名詞の「彼=同一物(autos)」が使われている。だから、この世に来たのは、「言」であり「光」でありかつ「命」というものの全体をあわせもった「彼=イエス・キリスト」が、この世にすでに現れて来たことが示されている。

また、旧約聖書においては、全世界を創造したのは主なる神であるが、この新約のヨハネ書では、言が神と等しいものとされているから、この世もまた「言」によって造られたとも言う。だから彼(言)がこの世に現れ来るということは、ご自分のところに、自分のものであり自分の民のところに来ることになるが、彼のものである民は彼のことを認めようとはしなかった。「認めなかった」というのは、知らなかった、理解しなかったという意味もある。だから、受け入れることもできなかった。(第10節、第11節)

しかし、何人かは理解し受け入れ、その名を信じて、彼を手に入れた人もいた。その名というのは、命であり言であり、まことの光でもある方の名、すなわちイエスという名前である。彼(言)は、その人たちに神の子となる権利、資格をお与えになった。(第12節)

その人たちは、血筋に由ってではなく、身体の欲に由ってでもなく、人間の欲望に由ってもなく、つまり、わたしたちが結婚して子供をもうけるようなやり方ではない仕方で、神によって産み出される。だからその父は肉体の父ではなく、神が父ということである。言(ho  logos)を受け入れ、その名を信じることに由って、神を父として持つことになる。(第13節)

言(ho  logos)が人間の身体のかたちをとり、わたしたちの間にお住まいになった。その方の栄光を見た。彼(言が身体となってこの世に現れた方)は、愛と真理に充ち満ちた父のすなわち神の傍らにあって、その独り子として光輝いている姿をわたしたちは見た。光り輝く、栄光に満ちるというのは究極の価値を持つもの、崇拝の対象となる至高の存在についての比喩的な形容である。
(第14節)

 

 

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虚無と永遠

2008年12月21日 | キリスト教
 

ダイコンやニンジンの種を蒔いたのは、日記によれば九月十日前後のことだから、三ヶ月程度で収穫できるまでにすでに立派に生育していることになる。先々週ぐらいから大きくなったダイコンやニンジンを刈り取って、煮たりみそ汁に入れたりしている。柔らかくて美味しい。また、生姜も根を掘りだしてみると大きく生長していた。

ただ、最近はサルが出没して食い荒らし始めているようで、その対策として早めに収穫して、残りは地中に埋め、必要に応じて掘り出すことにした。ダイコンの葉などは始末に困るほどある。その一部を持ち帰って、生姜と一緒に刻んでそれにいりこを入れて炒めると、ご飯に美味しい惣菜になる。

そんな食事を採りながらも思うことは、いずれにしても私たち現代人は、米や魚、肉などの食料品や、また電気やガスなどの燃料、そのほか住宅や家具、それからこのインターネットに使うパソコンなども含めて、完全な自給自足によって生活を営むことはもはや出来ないということである。すでに分業と交換の貨幣経済の中に完全に組み込まれている。

そうした結果、実際に何らの生産的な労働に従事することがなくとも、石油やダイズ、トウモロコシなどの商品投機や株式投資などによって巨額の収益を上げることのできる経済構造になっている。今のところ問題になっている金融経済の危機的状況も元はといえば、アメリカで放任されたサブプライムローンに端を発している。ノーベル賞級の経済学者たちも参加して、その金融工学的な知識を活用しローンを証券化するなどして、投機家が利益の極大化をはかったものである。しかし、それも住宅価格が天井を打つことによって破綻する。

こうした顛末でわかることは、すでに社会主義経済でも明らかになったように、人間の理性もけっきょくはみずからの欲望さえも統制することができないということである。今回の経済恐慌も、宗教的にいえば、人間の腐敗と傲慢に対する神の裁きともいえる。人間的な知識は絶対的ではなく有限であるゆえに根本的に虚しい。

そうした知識の虚しさもさることながら、さらにその根本にあるのは、人間の存在自体の有限性ということである。その生涯の時間も七十年か八十年、どんなに長くとも百年を超えることはない。

それを明確に自覚し始めるのは、自我が意識として目覚める青年時代である。その頃に、みずからの人生の有限を自覚するようになるとともに、その意義や目的について問い始める。

その頃に私が惹かれて読みふけったのは聖書で、とくにその中でも「詩編」と「伝道の書」だった。それ以来私の思考の底流にその思想がいつもある。そして、人の死や時代の転変などの折に触れて表面に出てくる。

「伝道の書」のテーマは人間や世界の虚しさである。仏教の般若心経にも「色即是空、空即是色」と訳されているような虚無観にも通じるところがある。ただ「伝道の書」のそれが異なっている所は、そうした虚無感にあっても、なお「神を畏れ、その戒めを守れ」とその最終章に戒めているように、神の存在を否定するニヒリズムには立ってはいないことである。

聖書の中にも人間や世界のはかなさを語っている個所は少なくない。詩編第九十篇のモーゼの歌も、第九十二篇の安息日の歌にしてもそうである。しかし、そこには空無の虚しさとともに、それを乗り越える永遠の巖として存在する神に対する賛美が歌われている。

実際に人はこの世界の空無のなかで、かってアウグスチヌスが語ったように、「人は神を見出すまでは何ものによっても満たされることはない」だろう。聖書のなかにも「神を探し求めよ」と命じられている。そして「伝道の書」の中にも、最終章の第十二章に、「汝の若き日に造り主を記憶せよ。悪しき日の年老いて何の楽しみもないと言う前に」と青年に対して忠告している。

この個所は私も青年時代から何度も読んで知っている。ただ、青年の頃には、異性をはじめとして気を引き奪われる多くの事柄があって、人生の虚しさを痛切に自覚するということも、老年期ほどにはその機会は多くはない。

また、存在として有限であるものは単に人間のみに留まらない。私たちの生存の基盤である地球や太陽系そのものも永遠ではないことはわかっている。本来、永遠というものは、時間や空間などの次元とは異なったものである。そして、人間はこの永遠を見出すまでは心は精神は安らわないものである。だから私たちも、たとえこの世界と係わらざるをえないとしても、せいぜい百年足らずの間にしか係わることのできない、このはかない世事に埋没して、永遠のことを完全に忘却してしまわないことだと思う。私たちの生存の期間は一瞬で、私たちの死後の時間の方が永久だからである。

永遠とは 「その一点一画が無くなるより、天や地の消える方がやさしい」 といわれるモーゼの律法の存在であり(ルカ書16:17)、永遠の命とは「唯一の神を知ることと神に遣わされたイエス・キリストを知ること」(ヨハネ書17:3)にある。永遠とは、時間や空間にかかわることではない。

 

 

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悟性的思考と理性的思考

2008年11月12日 | キリスト教


hishikaiさん、懇切なご返事ありがとうございます。現在話題になっていて、昨日も参議院の外交委に参考人として招致されて意見を述べていた田母神前空幕長の懸賞論文問題について、今ちょうど私も論じようと思っていたところでした。

今回のあなたの文章を読んで、あなたの問題意識がさらによくわかったように思います。いくつかの興味ある論点がありますが、時間も限られていますので、とくに気にかかった二三の点に絞って私の考えを述べさせてもらおうと思います。

一つはキリスト教の問題です。これは今回のテーマである「グローバリズムと伝統」の問題とは少し外れています。それにもかかわらず、あなたがご返事の中でかなりのウェイトをもって語られているのが印象的でした。この問題についても、もう少し補足して述べておいた方がよいかもしれません。

その中であなたはカルヴァンの予定説を取りあげられていました。それについて私はよく知らないので断定はできないのですが、「人間倫理の最終的な課題は絶対者に預けておくことができる」というその言説は、何か現実回避の、あるいは勝手な人間の現実逃避のような印象を持ちます。

いずれにせよ、有限な人間に、肉体を背負った人間に完全な倫理をそもそも求めることはできないのだと思います。自然的な人間は「悪」であることを宿命づけられていると思うからです。あの大金持ちの青年に対してだけではなく、すべて人間に完全な徳を、完全な倫理を求めるのは、昔のユダヤ人のように律法主義に陥るのではないでしょうか。

人間が自力で自分を救うことができるなら、何もイエスが十字架で死ぬことはなかったのではありませんか。「律法によっては罪の自覚しか生まれない。神の前には誰一人として正しい者はいない」とも書かれてあります。(ロマ書3:20)

先の論考で引用した「持ち物を売り払って貧しい人に施し、私に付いて従え」というイエスの言葉を、「律法」のように受け取られているのではないかと気になりました。新約聖書以後の今日に生きる私たちには、そうした律法主義からは解放されているのではなかったでしょうか。「人が義しいとされるのは律法の行いにではなく、信仰による」とも書かれてあるのではないですか。(ロマ書3:26)

また、hishikaiさんがおっしゃるように、「世間」が最終的な価値基準であるような伝統の私たちの社会で、仏教の「無の哲学」や、あるいは儒教のような「有の哲学」に終始するときは、前者おいてはすべてが「虚無」の中に解消され、後者においてはすべてが政治主義に陥ってしまうのではないでしょうか。

そして、もう一つの問題、これが私たちが今回のテーマにしていることだと思いますが、「袋小路の設問」の問題があります。

「袋小路の設問」とはあなたの文脈でいえば

①「西欧化の不可避」と「伝統文化の防衛」、
②「全体の状況(グローバリズム)」と「伝統の縮約である諸基準(ナショナリズム)」

などのそれぞれ二者が「一体不可分であるディレンマ」にある中で懊悩している事態です。

hishikaiさんは、私の論考のなかに「アメリカグローバリズムの悪しき申し子竹中平蔵や堀江貴文」と「日本の古き良き伝統文化」の対立設定による衝突、あるいはその優先順位を巡るディレンマを発見され、そしてその懊悩の捌け口を反米に、あるいは反日の憤激の中に(またその反動としての媚米と自惚れ愛国心に)解消しようとする傾向を社会に見て、その解決の理路を探らんとされておられるようです。

こうした問題提起で感じるのは、いわゆる「悟性的思考」の限界であるように思います。二律背反する二者の矛盾関係を、「悟性的な思考」が解決することができず、ニッチもサッチも行かずに懊悩し破綻して自暴自棄に陥る有様です。

問題の核心は、悟性的な思考による「袋小路の設問」ではなく、理性的な思考(弁証法的な問題認識)による「出口の見える設問の仕方」ができるかどうか、その能力にあると思います。

hishikaiさんが述べられたような「二律背反」する矛盾関係の問題解決のためには、どうしても理性的思考(弁証法的思考)が必要であると思います。それら相互に対立し矛盾する二者を否定し去ることなく、それぞれを契機として含む新しい状況にアウフヘーベンする方向で問題解決をはかるべきでしょう。

その能力を育成すること、弁証法的な問題解決能力を日本人も修得すること、これが核心的な課題であると思います。私が以前に「国家指導者論」で、大学や大学院教育の中心課題が、弁証法的能力の育成にあると主張した根拠もここにあります。

以前にブログ上で議論のあり方について考えたことがあります。

「ブログでの討論の仕方」

そして、「伝統とグローバリズム」を巡る議論は、私の方は取りあえずここまでにしたいと思います。さらに興味あるテーマで、議論、討論のできることを楽しみにしています。

 

 

 

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『法の哲学』ノート§1

2008年04月10日 | キリスト教

『法の哲学』ノート§1

この『法の哲学』の緒論で、まずヘーゲルは「哲学的な法律科学」が考察の対象としているのは、「法(Recht)=正義」の「概念(Begriff)」、およびこの概念が現実に具体化してゆくその過程であることを明らかにする。

この節の中の補注で、ヘーゲルはイデー(理念)を概念と言い換えている。科学の対象である概念は、普通に人々が考えているような「悟性規定」ではなく、この概念は現実において具体化して行くものである。この概念をわかりやすく説明するために、ヘーゲルは心と身体をもった人間という表象にたとえる。概念が人間の心であるとすれば、概念の具体化されたものが身体にほかならない。

心も身体も同じ一つの生命ではあるが、しかし、心と身体は区別されてもいる。

またさらに、概念とその現実化、具体化を種子と樹木にもたとえている。
概念とは樹木の全体を観念的な力として含んでいる萌芽(種)であり、それが完全に具体化されたとき、現実の樹木全体になるのである。人間の概念は心であり、樹木の概念が種子である。

それに対して、法の概念は自由であるとヘーゲルは言う。そして、この法の概念である自由が具体化され実現されたものが、現実の国家であり憲法であり民法や刑法などの法律の体系である。ヘーゲルの「法の哲学」は、この自由の概念が具体化され必然的に展開されてゆく過程そのものを叙述し論証してゆくものである。

やはり、ここで注意しなければならないのは、ヘーゲルにおいては「概念」という用語が、普通に一般の人たちに使われているような「単なる悟性規定」の意味ではなく、概念が、やがて萌芽から樹木全体として進展してゆく可能性を秘めた観念的な種子として、理念と同義に使われていることである。

そして、それが現実に具体化されて存在と一つになった概念、それが理念である。だから理念とは単なる統一ではなく、概念と実在の二つが完全に融合したものであり、それが生命あるものである。

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Vedi Maria(見て、マリア)

2008年02月14日 | キリスト教

 

Vedi   Maria(見て、マリア)       Vedi   Maria  (Emma Shapplin

小枝の間から、                                    Between  the   branches  
飛び降りてきて私の顔をぶった。            Down  just   hit   my  face
そして、あなたは怒りをあらわにする。        And  anger  shows  me  yours
凍てつき、乾ききった冬。              frozen  in an   arid  winter
  静けさ。                             Silence
いやな小鳥たち。                      Birds  of  horror
私は口もきけずに叫んだ。                 I  shout  with  no  tongue
  静けさ。                         Silence
愛は私をうち砕き、                     Love  destroys  me
私のお日様もどこかに消えてしまう。        And my sun lost it's  way
だけど、私には戦いを挑む気持ちもない。 But  I  have  no  wish  to  wage  war
見て、マリア。                          See  Maria
見て、マリア。                          See  Maria
私は冬のさなかにも燃えているの。         I'm  burning  even  in winter
そう、私は止めたいの、               And   I    would   like  to  stop
駆けめぐる馭車座の星々を。              The  chariot  of   stars
聖母さま。                              Madonna
                      
嫉妬は私を虜にし、             Jealousy   is  holding  me  prisoner
私は眼に見ることもなく見る               And   I  see  without  eyes
この歌はもうこれ以上私を傷つけない。       This  song  hurts  me  no  more
私は裸足で走る。                       And  I  run  barefoot
野イバラの間を駆け抜けて。               among  the  brambles
私は待つけれど、安らぎを見つけられない。   I  wait  and  cannot  find  pease
ああ、どうすれば私は消えてしまえるの。       Oh  how  I  wish   could  perish
            
私はいくども叫ぶけれど、                    I  often    shaut
私は生きることも出来なければ死ぬことも出来ない。But  I  can  neither  live with
このような優しいマリアさまなくして。  Nor  live  without   Such  a  gentle  ghost
                                    
見て、マリア                           See  maria
見て、マリア                                                            See  maria

私は冬のさなかにも燃えているの。         I'm  burning  even  in winter
そう、私は止めたいの、               And  I  would  like  to stop
駆け巡る馭車座の星々を。               The  chariot  of   stars     
聖母さま。                              Madonna 

これは何?もし、これが愛でないとしたら、      What  is  this ,  if  not  love
これは何?もし、これが愛でないとしたら。      What  is  this ,  if  not  love

見て、マリア。                            See  maria
見て、マリア。                                                               See  maria
聖母さま、来て、私を救って。            Madonna     come   save  me !

 

 

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「神の国」とヘーゲルの「概念」

2008年01月29日 | キリスト教

「神の国」とヘーゲルの「概念」

キリスト教神学でも、とくに根本的に重要な概念である「神の国」については、その核心的な根拠として、先の記事でもマタイ書第六章とルカ書第十一章から二個所を取り上げた。それは「主の祈り」としてその伝統の中にも要約され織り込まれている。

それを、あらためてヘーゲルの概念論を研究するこのブログおいて取り上げたのも、このキリスト教の中心的な概念がヘーゲルの概念論の核心と無関係ではないからである。

ヘーゲルの概念論については、かって青年マルクスも『経済哲学手稿』のなかに論及したことがあったが、しかし、以前にもそのことに触れたように(『薔薇の名前』と普遍論争 )、そこでの理解はきわめて浅薄なものであった。講壇哲学者であれ在野の哲学者であれ、それを的確に把握しているものは少ないように思われる。そのことは、これまでヘーゲルの「概念」と「神の国」との関連を論じた者がわが国において誰もいなかったことからもわかる。

ヘーゲル哲学の根本的な動機がキリスト教の真理を科学的に把握することにあったように、キリスト教の絶対的な理念である「神の国」は概念でもあるのであって、それは絶対的な原因であると同時に目的でもある。宗教的な天才であるイエスはそれを明確に自覚していた。イエスが「神の御心が天において行われますように」といったのは、「神の国」が「概念」であるということでもあり、「地上においても行われますように」と祈ったのは、哲学的にいえばそれが理念でもあるからである。

比喩的にいえば、概念とは「観念的」な種でもある。「神の国」もまたそうである。哲学においてはそれを絶対的な理念として捉えなおす。だから、全宇宙はこの一つの種から無限に咲き出でる花に他ならない。
「概念論」をめぐる論議がさらに深まることを期待したいと思う。

 

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クリスマス・イブ、Merry X'mas !

2007年12月24日 | キリスト教

ヨハネ書には、イエスの生誕について何ら具体的なことは記録されていない。この本でイエスの母マリアがはじめて登場するのは、カナでの婚礼にイエスとともに参加したときのことである(ヨハネ書第2章)。それに対して、ルカ書にはイエスの誕生の経緯がやや詳しく記されている(ルカ書第1章)。しかし、ルカ書もヨハネ書のいずれにも、イエスの生誕にヨハネが深く関わっていたことを伺わせる記述がある。

それにしても、イエスの存在はその母マリアなくしては考えられない。12月25日はイエスの誕生日であるという。今日はその前夜祭。イエスの言動についていくつかの記事を載せているこのブログでも世間並みにイエスの生誕を祝って。

ルカ書第1章第28節以下から。

天からの使いガブリエルは、マリアのところに来て言った。「歓びなさい。何と恵まれた方。主はあなたとともにおられる。あなたは女のうちにあって祝せられる。」

マリアの賛歌

そして、マリアは言った。

私の心はいたく主をあがめ、
私の魂は、私を救われた主なる神を歓び称えます。

主ははしためのような身分の低い私にも眼を注がれましたから。
今からすべての世代にわたって、私は恵まれた女と呼ばれるでしょう。
力ある方が、私に驚くべきことをなされましたから。
聖なるは主の御名です。

主を畏れる者に主の愛は、
代々に及ぶでしょう。

主はその腕に力をふるい、
思い高ぶる者を蹴散らされます。

主は力ある王を玉座から引きずりおろし、
卑しい者を高く引き上げられました。

主は飢える者を善き物で満たし、
富める者を空手で立ち去らせます。

主は僕イスラエルを愛の思いに堅く抱きしめられます。
主が私たちの先祖に語られたように、
アブラハムと彼の子孫にとこしえに。


天使祝詞

おめでとう、恵まれたマリア、
主はあなたとともにおられる。

あなたは女のうちにて祝せられ、
お腹の御子イエスも祝せられる。

主の母マリア、
罪人である我らのために、
今も臨終のときも祈りたまえ。

クリスマスおめでとう。Merry X'mas !


つたないこの記事をクリスマス・カードを送りきれなかった友人たちに。

  アヴェ・マリア

   
            真珠の耳飾りの少女      

           

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