マスコミの寵児が一夜にして拘置所の住人になる。企業の生存を掛けた競争も、
デジタル家電の競争もますます激しくなるのに、企業の利益はなかなかでない。忙しない世の中ではある。有用無用の情報が飛び交い、マスコミも右往左往する。
こうした時代にあって、いたずらに情報に流されることなく、静かに、自分の城を守って生きてゆくのは容易なことではない。世の浮き沈みにできうる限り翻弄されることもなく、自分のペースを守り、着実に生きてゆきたいと思う。
そんなときも、詩篇の言葉は、心の拠り所になる。それは世と転変を伴にしない。移り気な女の恋心のように、秋の菊の花のように、世間の毀誉褒貶は移ろい色あせる。
今日は日曜日ではないけれども。
詩篇第九十二篇
賛美。安息日の歌。
どんなに良いことか。主に感謝することは。
あなたの御名を、いと高き方を誉めたたえることは。
朝ごとに、あなたの愛を語り、
夜ごとに、あなたの真実を語ることは。
十弦の琴を弾き、竪琴を奏でて、琴の調べにあわせて歌うことは。
主よ、あなたの御わざはまことに私を楽しませる。
あなたの御手の働きを私は喜び歌います。
主よ、あなたの行いは何と大きく、
あなたの考えはどれほど深いことか。
心の鈍い人はそれに気づかず、
愚かな人はそのことを悟らない。
悪人どもがたとえ青草のように芽生え、
不義を行う者のすべてが花を咲かせても、
それは彼らが最後には滅ぼされるためです。
しかし、あなたはいと高き方、永遠に主。
まことに見よ。あなたに敵する者は、主よ
まことに見よ、あなたに敵する者は滅び、
不義を働く者はすべて散らされます。
そして、あなたは私の角を野牛のように高く上げ、
清らかな油を注がれる。
私は見た、私の敵が打ち負かされるのを。
私は聞いた、たくらむ者たちが悲鳴をあげるのを。
正しい人は、ナツメヤシの花のように咲き、
レバノン杉のようにそそり立つ。
主の家に植えられた者たちは、
私たちの神の家の庭に花を咲かせます。
彼らは白髪になってもなお、実を結び、
青々としてみずみずしい。
主は正しく、私を守る岩。その内に不義はない。
詩篇第九十二篇註解 そそり立つレバノン杉のように
主に感謝することは良いことだと言う。良いことというのは、楽しいこと、価値あること。神は、人間からは遠く高きに住まわれる方。人間の想像を絶する方。
詩人は満たされた安息日(キリスト教徒には日曜日)の朝に、神の働きに感謝し、賛美歌を奏でる。その楽器は、琴であったり、ハープであったり。
主はその御わざ、自然の摂理によって詩人に幸福をもたらした。それに応えて詩人は言う。
「あなたの御手の働きを私は喜び歌います。
主よ、あなたの行いは何と大きく、
あなたの考えはどれほど深いことか。」
詩人は朝ごとに神の愛を黙想し、夜ごとに神の真実を語る。ここでも、詩人にとって、神は、愛と真実の方である。
詩人は自然の営みを単なる自然の営みとしてではなく、その奥に、神の働きを、神の愛と真実を、「人格の存在」を感じている。詩人は科学者ではなく詩人であるから、その神の摂理に対する驚嘆を詩で表現するしかない。
自然の神秘は、宇宙の創造の秘儀は、被造物である人間の想像を絶しており、どれほど偉大で深く神秘であるかは、言葉に表しきれない。ただ心の鈍く愚かな者にはわからないと言う。しかし、その点では、どんな人間も似たり寄ったりである。
自然として現れたこの世界を、すべて解明しきれるものではない。
それでも、今日でも人間は宇宙のただなかに、太平洋の深海に、神の創造の神秘を探求する衝動は抑えがたい。
そして、神の働き、神の摂理はただに自然の中に現れるだけではなく、それは人間に、人間の社会の中にも、現れているという。
人間社会の中での「神の御手の働き」とは、神に背く者は敗れ滅び、従順な者は栄えるということである。悪は滅び、善は栄える。
たとえ、悪人には悩みも病気もなく、この世の栄華を誇るかのように満たされ、健康で平穏であるように見えても、それでも詩人は神の摂理を疑わない。なぜなら、神に背く者の繁栄は、それがどんなに隆盛を極め、永久に続くかのように見えても、結局は、最後には打ち萎れ滅びてしまうという。
それに対し、神に忠実であった詩人は、時が来れば、野牛の角のように強く高く上げられ、悪を為す敵に打ち勝っている。そして、新しく絞られたオリーブ油で、祝福されるという。
そして、神に従う人、正しい人はナツメヤシの花のように咲きほこり、レバノン杉のようにそびえるという。これらは、いずれも中東においては繁栄の象徴である。日本であれば、さしずめ桜の花や、常緑樹である松の木にたとえられるのかもしれない。
そして、神に従い守られる者は、いつまでも若々しくみずみずしい。なぜなら、命の源である神に結ばれているから。詩人はこの真実を、詩に歌う。