海と空

天は高く、海は深し

『法の哲学』ノート§2

2008年04月12日 | 宗教一般

§1で哲学的法学の対象が、法の概念、すなわち自由とその実現過程にあることを述べた後、法学の端初について説明する。哲学的な法律学は、法の概念とその進展を問題にし対象にするから、この法律学においては当然にその始元が問題になる。

こうした問題意識を持つのは、ヘーゲルの哲学が何よりも科学を必然性の追求として捉えたからで、そして哲学の端初は、無前提にして絶対的な端初でなけれな必然的とはいえない。

ここで述べられているように、ヘーゲルにおいては法学は、精神哲学の中の客観的精神に位置づけられ、この客観的精神自体もそれに先行する段階の概念から演繹され必然的な成果として現れたものである。それゆえ法学も理念としてはそれに先行する前提を持つものである。だからヘーゲルの哲学的法律学は、自己の出生の由来も知らずにひたすら狭い井戸の中で自己満足している実証的法律家や数学者とはちがうのである。

事柄の概念的な把握を科学と考えるヘーゲルは、法律学の端初について考えるのにちなんで、この§2の補注においても哲学の端初を問題にして触れている。法律学や物理学などの他の諸科学と異なって、哲学は絶対的に必然的な、しかも無条件、無前提であるがゆえに相対的な始元を持たなければならない。この科学的哲学における始元の問題については、すでにこの「法の哲学」に先行する「大論理学」の緒論でヘーゲルは詳説していたが、それをヘーゲルはここでも繰りかえす。

しかし、実際に世界のあらゆる存在はすべて媒介されたものであって、絶対的に無条件に直接的な端初はありえない。とはいえ始元がなくして世界はどうして存在するのだろうか。この問題はほんらい、世界の二律背反の問題と同じであって、この矛盾をヘーゲルの哲学は円環の中の一点に端初を見いだすことによって解決する。

こうして絶対的な哲学の方法と、それとは異なる他の悟性的科学や実証法法学と、科学としての方法のちがいを補注の中でさらに注釈して行く。なぜなら、この科学の方法論こそがヘーゲルの独自とするものであって、彼の自負するところのものでもあったからだ。

ふつうの科学では、たとえそれが感覚や表象にもとづいたものであるとしても、その対象についての定義が要求されるのに、実証法的法学はその定義すら重要視されないと言っている。なぜなら、実証法的法学においては、事柄が合法か非合法か、犯罪か無罪かさえ明らかになればよいからである。ちょうど日本国憲法で自衛隊は軍隊か否かその定義について、八百代言のような政治家の言い分がまかり通るのと同じである。この同じ注釈のなかで、ヘーゲルが古代ローマ社会においてはなぜ人間の定義が不可能であったのかを、その社会の抱えていた矛盾によって説明してるのは卓見で、今日の日本政府にはなぜ自衛隊の定義が不可能であるのか考えあわせると興味深い。

ここでヘーゲルが、他の普通の悟性科学がその科学の方法として行う概念の定義と、概念を必然的に進展するものとして捉える哲学の方法における概念の定義と、その区別について述べているところは、ヘーゲル哲学の本領を示すものとしてきわめて重要である。

この哲学的な認識においては、「概念の必然的な進展」が主要な問題であり、その成果の生成過程の説明が概念の証明として演繹されることになる。これこそがヘーゲルの功績としたところであり、それによって、哲学的認識が、単なる臆見や主観的な内心の確信や俗見の思いこみなどではなくて、「理性」や「理念一般」を対象とする科学となったのである。

ヘーゲルが哲学において何よりも「概念の形式」を要求し、証明という「認識の必然性」を求めたことには、当時の一般の風潮から、単なる主観的な「感情」や「信仰」といった「恣意や偶然性の原理」から哲学の品位をも守ろうとしたためである。それはまた、プラトン、アリストテレスに由来する古代ギリシャ哲学の伝統の復興でもあった。

 

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『法の哲学』ノート§1

2008年04月10日 | キリスト教

『法の哲学』ノート§1

この『法の哲学』の緒論で、まずヘーゲルは「哲学的な法律科学」が考察の対象としているのは、「法(Recht)=正義」の「概念(Begriff)」、およびこの概念が現実に具体化してゆくその過程であることを明らかにする。

この節の中の補注で、ヘーゲルはイデー(理念)を概念と言い換えている。科学の対象である概念は、普通に人々が考えているような「悟性規定」ではなく、この概念は現実において具体化して行くものである。この概念をわかりやすく説明するために、ヘーゲルは心と身体をもった人間という表象にたとえる。概念が人間の心であるとすれば、概念の具体化されたものが身体にほかならない。

心も身体も同じ一つの生命ではあるが、しかし、心と身体は区別されてもいる。

またさらに、概念とその現実化、具体化を種子と樹木にもたとえている。
概念とは樹木の全体を観念的な力として含んでいる萌芽(種)であり、それが完全に具体化されたとき、現実の樹木全体になるのである。人間の概念は心であり、樹木の概念が種子である。

それに対して、法の概念は自由であるとヘーゲルは言う。そして、この法の概念である自由が具体化され実現されたものが、現実の国家であり憲法であり民法や刑法などの法律の体系である。ヘーゲルの「法の哲学」は、この自由の概念が具体化され必然的に展開されてゆく過程そのものを叙述し論証してゆくものである。

やはり、ここで注意しなければならないのは、ヘーゲルにおいては「概念」という用語が、普通に一般の人たちに使われているような「単なる悟性規定」の意味ではなく、概念が、やがて萌芽から樹木全体として進展してゆく可能性を秘めた観念的な種子として、理念と同義に使われていることである。

そして、それが現実に具体化されて存在と一つになった概念、それが理念である。だから理念とは単なる統一ではなく、概念と実在の二つが完全に融合したものであり、それが生命あるものである。

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イザヤ書第24章を読む

2008年04月09日 | 日々の聖書

イザヤ書第24章を読む

聖書を読むことがあるとしても、そのときは日本語訳よりも英語訳などの外国語訳で読む場合が多い。今現在、聖書を読む場合に使っているのは、主として「和英対照聖書」である。その日本語訳は新共同訳であり、英語訳の方は GOOD  NEWS  BIBLE である。ネットで調べてみると,このテキストGood News Bible(Today's English Version)の翻訳はRobert G. Bratcherという人の翻訳であるらしい。日本の共同訳のように多数の学者による共同訳ではないようである。
(Good News Bible  http://www.bible-researcher.com/tev.html  )

日本語訳にせよ英語訳のいずれにせよ、もちろん不完全な訳で、それぞれの翻訳者たちの生きた時代と国民性によってそれぞれに解釈された聖書であるにはちがいない。

聖書やキリスト教については、私は次のような立場に立っている。テキストとしては、新旧約聖書については七十人訳旧約聖書(Septuagint)とコイネー新約聖書を最終的なテキストとして認めている。そして、神学としてのヘーゲル哲学。基本的にはこの立場に尽きているといえる。

ただ、もしブログ記事などで英語訳聖書を引用することがあるとすれば、1851年に英国でSeptuagint Bibleの英語訳の労をとられたSir Lancelot C. L. Brenton氏の翻訳を使いたいと思っている。日本とは異なって、欧米の聖書研究は今もなお盛んなようで、幸いにもSir Lancelot C. L. Brenton氏の翻訳は、ネットでも読める。
(Septuagint Bible Online http://www.ecmarsh.com/lxx/index.htm )

ただ、残念なことに現在のところ私のコイネーギリシャ語の能力はきわめて不十分で、Septuagint Bibleも原典新約聖書も十分に読めない。コイネーギリシャ語の能力の向上は今後の課題であると思っている。学生時代に、もし教養科目としてギリシャ語があって、そこで基本的な学習をしておればヨカッタのにと、この年齢になって後悔している。もちろん、外国語の能力の不足は聖書やキリスト教の本質についての理解の障害になるものではないけれども。

Esaias  Chapter 24

24:
1 Behold, the Lord is about to lay waste the world, and will make it desolate, and will lay bare the surface of it, and scatter them that dwell therein.

 2 And the people shall be as the priest, and the servant as the lord, and the maid as the mistress; the buyer shall be as the seller, the lender as the borrower, and the debtor as his creditor.

3 The earth shall be completely laid waste, and the earth shall be utterly spoiled: for the mouth of the Lord has spoken these things.

4 The earth mourns, and the world is ruined, the lofty ones of the earth are mourning.

5 And she has sinned by reason of her inhabitants; because they have transgressed the law, and changed the ordinances, even the everlasting covenant.

 6 Therefore a curse shall consume the earth, because the inhabitants
thereof have sinned: therefore the dwellers in the earth shall be poor, and few men shall be left.

 7 The wine shall mourn, the vine shall mourn, all the merry-hearted shall sigh.

 8 The mirth of timbrels has ceased, the sound of the harp has ceased.

 9 They are ashamed, they have not drunk wine; strong drink has become bitter to them that drink it.

 10 All the city has become desolate: one shall shut his house so that none shall enter.

 11 There is a howling for the wine everywhere; all the mirth of the land has ceased, all the mirth of the land has departed.

 12 And cities shall be left desolate, and houses being left shall
  fall to ruin.

ここで描かれているのは、神の世界審判である。そして、この世界審判の理由は、住民たちの犯す罪のためであり、人々の律法に対する離反のためである。イザヤをはじめとする預言者たちのこの認識は一貫している。

私たちは、すでに第一次、第二次世界大戦を神の世界審判として経験している。次に世界審判があるとすれば、それは核による世界戦争として現象するのではないだろうか。その意味でもイスラエルをめぐる中東の情勢については注視される必要があるだろう。ユダヤ人とその周辺諸民族との紛争は、今に始まったことではなく、人類の歴史的な記憶以来の、5、6000年来の出来事である。

 

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春の歌

2008年04月01日 | 日記・紀行

春の歌

四月に入る。用事があって大阪梅田に出る。阪急京都線で淀川を渡る。川岸の向こうにビルがさらに高く広がって見える。しばらく来ない間にも変貌を遂げている。人間の経済活動は、不景気であろうが好況であろうが、片時も休むことはない。東梅田や西梅田の地下街もさらに拡張されてテナントの数もさらに増えたようだ。蜘蛛の巣のように細かく大きくさらに広がってゆく。大阪はやはり第二の大都会である。昔と同じように今も人波は絶えず流れ続けている。

学生の頃、卒業後の進路が内定してから、この地下街でアルバイトをしたことがある。今もあるのかどうかわからないけれど、福助というアパレル会社が出していた店で、ワイシャツやストッキングなどを売っていた。ちょうど同じくらいの年格好の女店員たちと冗談を言い合いながら過ごした時間が楽しく懐かしい記憶として残っている。彼女たちも今はどこかで誰かと結婚して子供もいるにちがいない。なかでもYさんは、おとなしい上品な女の子だった。スキーに行って彼女が唇と顔に怪我していたことも覚えている。しかし、すべてが遠いはるか昔のこととなって、青年時代に出会った人たちの多くは音信もすでに途絶えたままだ。

久しぶりに旭屋書店に立ち寄って本を一冊買う。                              今日から、道路特定財源の暫定税率が失効する。ガソリンの値段も下がるはずだ。参議院で民主党が多数を占めたことによる効果が現れたといえる。これまでのように、与党の提出する法案をそのまま白紙委任するような状況はなくなる。そのため政治が一見停滞し混乱しているようには見えるかもしれないが、民主主義にとっては進歩である。日銀総裁が決まらなかったり、地方の財政が混乱するかもしれないが、それもある意味では支払わなければならないコストである。日銀総裁ポストについても海外の目線を気にする必要はない。日本国よ、我が道を行け。

電車の窓から眺める淀川の河川敷は相変わらず醜くて潤いがない。これもまた現代日本人の精神状況を反映しているにちがいない。幼い頃には橋の欄干から釣り糸を垂れてハゼを釣る人たちの並んでいる姿も眺められたものだ。魚釣りの餌になるゴカイの採れたきれいな砂州も葦影に見えていた。今はそれらすべてがない。

しかし、いつの日か日本人も悔い改め意識も変わって、ビオトープで淀川の河川敷にも昔日の面影を取り戻す日が来ると思う。そのときには、この淀川の土手にも桜並木が彩り、川では悠々とボート遊びもできるかもしれない。ただ、私が生きているうちにそれを眺めることはないだろうけれど。

お隣の韓国では、現在の大統領である李明博氏がソウル市長時代に、ドブ川と化していた清渓川に清流を取り戻している。いつか気宇壮大な風流心のある大阪市長や大阪府知事が現れて、淀川の昔日の面影を取り戻してほしいものだ。その国土に住む人間の質がすべてだ。すでに韓国には追い抜かれてしまったけれど。

まだ西洋人の毒を知らずにいた頃の、ある意味で幸福な美しい夢を見ていた時代の日本人に残された記憶。それでいつも思い出すのは、与謝蕪村の次の歌である。その頃はまだ淀川もこんなに美しかったのだ。

与謝野蕪村  作
               春風馬堤曲
            
余一日問耆老於故園。渡澱水過馬堤。偶逢女帰省郷者。
先後行数里。相顧語。容姿嬋娟。癡情可憐。
因製歌曲十八首。代女述意。題曰春風馬堤曲

やぶ入りや浪花を出て長柄川
春風や堤長うして家遠し

堤ヨリ下テ摘芳草 荊与蕀塞路
荊蕀何妬情 裂裙且傷股
渓流石転ゝ 踏石撮香芹
多謝水上石 教儂不沾裙

一軒の茶見世の柳老にけり
茶店の老婆子儂を見て慇懃に
無恙を賀し且儂が春衣を美む
店中有二客 能解江南語
酒銭擲三緡 迎我譲榻去

古駅三両家猫児妻を呼妻来らず
呼雛籬外鶏 籬外草満地
雛飛欲越籬 籬高堕三四

春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ
たんぽゝ花咲けり三ゝ五ゝ五ゝは黄に
三ゝは白し記得す去年此の路よりす
憐みとる蒲公茎短して乳を水邑※
むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
慈母の懐袍別に春あり

春あり成長して浪花にあり
梅は白し浪花橋辺財主の家
春情まなび得たり浪花風流
郷を辞し弟に負く身三春
本をわすれ末を取接木の梅

故郷春深し行ゝて又行ゝ
楊柳長堤道漸くくだれり
矯首はじめて見る故園の家黄昏
戸に倚る白髪の人弟を抱き我を
待春又春

君不見古人太祇が句
薮入の寝るやひとりの親の側

※正しくはサンズイに邑

(短歌の試み)

赤松の防砂林に延びる遠州浜を散策した昔を思い出して詠む

一    春の日に 優しき光浴びつつ  浜辺に延びる小道を辿る
二    春の陽の   白光浴びてのどけく  蒲公英の路傍に咲けり
三    潮風にそよけく   うち寄せる沖の浦波   君の白き足と遊ぶ
四    磯の香と  寄せくる波と戯れに  沖行く船を指示しつ我に
五    春霞む  大海原眺めおりし君が背に  黒髪潮風に靡ける
六    潮の香の  松の木陰に屈まりて 露草に小水を試みし人
七    赤松の 防砂林に 友待つ鶯の声  鳴き渡る

 

 Tristan und Isolde finale scene conducted by Bernstein

 

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