ほとんどの産業事故はヒューマンエラーが原因とされる。
推定では75%から95%の間であるとされる。なぜこんなにも多くの人間がダメなのか?
答え - 彼らがダメなのではない。それはデザインの問題なのだ。
上は Don Norman 著「誰のためのデザイン」からの引用である。
昨日、TVのニュースが「大川小学校」裁判を報じていた。
# 大川小学校の津波訴訟 石巻市などに14億円余の賠償命令
いうまでもなく、この大川小学校とは、
2011年3月11日の東日本大震災の津波で
74人の小学生と 10人の教職員が死亡・行方不明になった宮城県・石巻市の大川小学校。
仙台地裁では、市と県に約 14億円の賠償を命じる判決を言い渡した・・・
最大の争点は「津波が大川小学校まで到達できることを予測できたか」。
判決のとおり、予測は可能だったと判断され市と県が敗訴したが、
それで終わりにしてよいものだろうか?
そんな疑問が湧いた。
同時に、冒頭の文を思い出した。
津波が大川小学校に到達することを予測できたはず。
それを予測できず、適切な指示を出せなかったヒューマンエラーという判決。
裁判についていえば、学校側の過失を問うたものだから、それ以上踏み込むことはできない。
だが、そこで終わりにしてしまえば、今後の対策は行政・教職員に対してのものとなるだけだ。
誰が悪者であるか分かった、なので矯正しよう・・・
そんな対策は十分なものになるのだろうか。
被害を無くす、無くせないまでも限りなく少なくする。
そのためには原因の深掘り、さらなる追究が必要だと思う。
「誰のためのデザイン」にはこのような文章がある。
少し長いがご容赦いただきたい。
-----------------------------------------------------
人が実際に誤った意思決定や行動をしたとき、何がその人を誤らせたのかを見つけるべきということである。
これがまさに根本原因解析というものだ。
ああ、しかしほとんどの場合、いったん誰か不適切な行動をした人が見つかると、そこで終わってしまうのである。
事故の原因を見つけようとするのはよいのだが、二つの理由から欠陥がある。
まず第一に、ほとんどの事故の原因は一つではないということである。
事故が起こったとき、たいていはその要因となる不具合を起こしたモノがいくつかあるが、
それらの不具合事象のうちどれか一つでも発生しなかったら事故を防げたかも知れないのである。
(中略)
第二に、なぜヒューマンエラーが見つかると、直ちに根本原因解析が止まってしまうのであろうか。
もし機械が動かなくなったら、壊れた箇所を見つけるまで分析を止めたりしない。
それどころか「なぜそこが壊れたのか。何か粗悪な部品があったのか。スペックが低すぎたのか。その部品に負担がかかりすぎたのか」と問う。
欠陥の原因を理解できたと満足するまで、問い続けるのである。
その後、改善に着手する。
(中略)
日本人はかなり前から「五つのなぜ」と呼ぶ根本原因にたどり着く手順に従ってきた。
それは、最初豊田佐吉によって開発され、品質を向上させるトヨタ生産方式の一環としてトヨタ自動車で用いられてきた。
これは今日では世の中で広く用いられている。
基本的には、理由を探すにあたり、最初の一つが見つかっても止めないということである。
それが理由である理由をさらに問うのである。そして、またその理由を問う。
本当の根本原因が明らかになるまで問い続けるのである。
-----------------------------------------------------
大川小の場合、なぜ予測できなかったのか、その原因を何段階も追究する必要があるのではないか。
今回の訴訟で思ったのはその点だ。
Don Norman 著「誰のためのデザイン」では当然ながら「デザイン」という言葉が使われている。
が、そこで書かれていることは我々の、通常は「デザイン」には含めない分野でも当てはまる。
訴訟の行方がどうなるかは分からない。
地裁の判決は出たが、さらに高裁に続くかもしれない。
が、どのように結審しても、さらに原因を追究されることはないだろう。
原告が勝つか負けるか、それで終わる。
裁判という制度が悪いのではない。
そこから離れたところ、より広く、かつより深掘りしたところにあるはずの原因を探し続けることが大切だ。
このままで終わってよいはずはない。
「誰のためのデザイン」ではそのことをを教えてくれる。
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推定では75%から95%の間であるとされる。なぜこんなにも多くの人間がダメなのか?
答え - 彼らがダメなのではない。それはデザインの問題なのだ。
上は Don Norman 著「誰のためのデザイン」からの引用である。
昨日、TVのニュースが「大川小学校」裁判を報じていた。
# 大川小学校の津波訴訟 石巻市などに14億円余の賠償命令
いうまでもなく、この大川小学校とは、
2011年3月11日の東日本大震災の津波で
74人の小学生と 10人の教職員が死亡・行方不明になった宮城県・石巻市の大川小学校。
仙台地裁では、市と県に約 14億円の賠償を命じる判決を言い渡した・・・
最大の争点は「津波が大川小学校まで到達できることを予測できたか」。
判決のとおり、予測は可能だったと判断され市と県が敗訴したが、
それで終わりにしてよいものだろうか?
そんな疑問が湧いた。
同時に、冒頭の文を思い出した。
津波が大川小学校に到達することを予測できたはず。
それを予測できず、適切な指示を出せなかったヒューマンエラーという判決。
裁判についていえば、学校側の過失を問うたものだから、それ以上踏み込むことはできない。
だが、そこで終わりにしてしまえば、今後の対策は行政・教職員に対してのものとなるだけだ。
誰が悪者であるか分かった、なので矯正しよう・・・
そんな対策は十分なものになるのだろうか。
被害を無くす、無くせないまでも限りなく少なくする。
そのためには原因の深掘り、さらなる追究が必要だと思う。
「誰のためのデザイン」にはこのような文章がある。
少し長いがご容赦いただきたい。
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人が実際に誤った意思決定や行動をしたとき、何がその人を誤らせたのかを見つけるべきということである。
これがまさに根本原因解析というものだ。
ああ、しかしほとんどの場合、いったん誰か不適切な行動をした人が見つかると、そこで終わってしまうのである。
事故の原因を見つけようとするのはよいのだが、二つの理由から欠陥がある。
まず第一に、ほとんどの事故の原因は一つではないということである。
事故が起こったとき、たいていはその要因となる不具合を起こしたモノがいくつかあるが、
それらの不具合事象のうちどれか一つでも発生しなかったら事故を防げたかも知れないのである。
(中略)
第二に、なぜヒューマンエラーが見つかると、直ちに根本原因解析が止まってしまうのであろうか。
もし機械が動かなくなったら、壊れた箇所を見つけるまで分析を止めたりしない。
それどころか「なぜそこが壊れたのか。何か粗悪な部品があったのか。スペックが低すぎたのか。その部品に負担がかかりすぎたのか」と問う。
欠陥の原因を理解できたと満足するまで、問い続けるのである。
その後、改善に着手する。
(中略)
日本人はかなり前から「五つのなぜ」と呼ぶ根本原因にたどり着く手順に従ってきた。
それは、最初豊田佐吉によって開発され、品質を向上させるトヨタ生産方式の一環としてトヨタ自動車で用いられてきた。
これは今日では世の中で広く用いられている。
基本的には、理由を探すにあたり、最初の一つが見つかっても止めないということである。
それが理由である理由をさらに問うのである。そして、またその理由を問う。
本当の根本原因が明らかになるまで問い続けるのである。
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大川小の場合、なぜ予測できなかったのか、その原因を何段階も追究する必要があるのではないか。
今回の訴訟で思ったのはその点だ。
Don Norman 著「誰のためのデザイン」では当然ながら「デザイン」という言葉が使われている。
が、そこで書かれていることは我々の、通常は「デザイン」には含めない分野でも当てはまる。
訴訟の行方がどうなるかは分からない。
地裁の判決は出たが、さらに高裁に続くかもしれない。
が、どのように結審しても、さらに原因を追究されることはないだろう。
原告が勝つか負けるか、それで終わる。
裁判という制度が悪いのではない。
そこから離れたところ、より広く、かつより深掘りしたところにあるはずの原因を探し続けることが大切だ。
このままで終わってよいはずはない。
「誰のためのデザイン」ではそのことをを教えてくれる。
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