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京大総長と懇談する鳩山一郎文相(彼も追放された仲間の一人)
1947/S22年 5月 湛山、GHQにより公職追放、大蔵大臣を辞任する。
湛山は公職追放審査委員会宛てに意見書を送るが、GHQに却下される。
同日、芦田・西尾・三木・池田らもマッカーサー宛、'狂気の沙汰'と抗議する。
自由学園の羽仁もと子も、単独で元帥宛てに追放抗議の書簡を送った。
10月 湛山は’公職追放に関する弁駁書’を公表。
場所は丸ノ内の日本工業倶楽部。午前は日本記者、午後は外国人記者相手。
資料を配布し説明、質疑応答を行った。
AP通信記者:「誰の責任だと思うか?」
湛山:「(GHQ・民生局の)ホイットニーの書名があるから、彼だろう」
AP通信記者:「マッカーサーはどうか?」
湛山:「ホイットニーの上司としての責任はあるだろう」
湛山:「ホイットニーの上司としての責任はあるだろう」
翌日、AP特電の記事を乗せたニューヨークタイムスの見出しは、
【公職追放:マッカーサーを初めて引っぱたいた日本人】
日本国内でも、湛山が戦犯として処罰されると噂されたが、彼は動じない。
「逮捕されれば裁判になって弁明の機会が与えられる。捕まってもいい」。
同時に日本の委員会も'追放解除'を決定するが、GHQはこれを拒否。
1948/S23年 7月
湛山は、渡米する日本人記者に、追放経過などを記した英文書を託す。
また、GHQに抵抗する湛山に共鳴した政治関係者が、米人記者を介して、
米政府高官らに届けられ、公職追放の内幕が米本国内で話題となった。
1951年/S26年 4月 マッカーサーが離日(※)
※朝鮮戦争の対応を巡って、トルーマン大統領により解任された。
マッカーサー元帥帰米~NHKアーカイブス・・・この熱狂ぶりは信じられない!
湛山が大蔵大臣の時、次の逸話もある。
・インフレ防止のためGHQに、駐留軍経費の削減を求めた
・駐留軍の慰安施設を作りたいというGHQの要求を断わった
それが公職追放につながった?
・・・かどうかはさておき、湛山は大蔵官僚にたいへん慕われたという
6月 後任の最高司令官リッジウェイが着任、湛山は追放から解放された。
そして'48年10月から首相の座に居座り続ける吉田に再び挑もうとする
しかし・・・
10月 造船疑獄・指揮権発動騒ぎが起き、吉田は退陣
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造船疑獄捜査問題究明の衆院決算委員会
今日はここまで。次回は石橋内閣の誕生。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]