![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/a8/7f76ab3b46d3d7528c682c90349b3c22.jpg)
1930(昭和05) 章子42歳
春月の自殺、谷崎の妻譲渡事件に衝撃を受けた章子は狂乱状態に陥る
戒仙住職は、止む無く章子を精神病院に入院させる
章子が聚光院内に住み、奇矯な行動が目立つことも噂になってきた
章子が聚光院内に住み、奇矯な行動が目立つことも噂になってきた
10月19日 『大阪毎日新聞』に記事が載る
「愛慾と名誉と金権と──禅園に情痴の花二つの結婚問題をめぐつて
京洛大徳寺の渦巻き」の見出し、戒仙と章子の写真つき
寂聴の写真説明の記述は、
<記事は写真付き でっぷり肥った脂ぎった感じの戒仙と
断髪に和服のきゃしゃな章子が火鉢を中にして 坐っている
戒仙は不敵に顔をあげているが、章子は伏目、やや鬱屈した愁い顔・・・>
続いて記事の全文が載せられているが、長いので要約転載する
<禅園二つの結婚のうち一つは中村戒仙聚光院住職(50歳)と
北原白秋氏前夫人井口章子さん(43歳)と正式に結婚しようというもの
(もう一つ興臨時住職の結婚があるが、本ブログ趣旨とは無縁なので割愛)
その話を漏れ聞いた京都の大富豪がご立腹
「由緒ある寺に女を引き入れるとは何事! 法要の寄進は取り消す」
そして大徳寺管長を呼び付け「中村住職を追い出すなら寄進はする」
本山は自発的に辞職するよう二人を説得するが、戒仙は徹底抗戦の構え!
17日朝、戒仙は「自分は聚光院に居坐る」旨の声明書を本山に叩きつけ、
そのあと来訪の記者に対応した
つまり、19日の新聞記事は戒仙の話を聞いた記者が記事にしたというわけ
その話の要点のみ記す
「章子とは10年来師弟の関係だったが、今の彼女は孤独で捨てておけない
だから正式に結婚する 50歳にして私は本当の愛欲を章子に見出したのだ」
このあと戒仙は原籍のある千葉県葛飾郡の役場へ婚姻届を郵送、受理された
このあと戒仙は原籍のある千葉県葛飾郡の役場へ婚姻届を郵送、受理された
私が思うに、「愛欲」とは章子を慮っての言葉だろう
現実は、男女の関係ではなく、父親と娘のような関係ではなかったか
章子は戒仙をパパさんと呼んでいた記述も寂聴の本にある
早く父親を亡くした章子には、戒仙は父親かつ庇護者だったと思う
早く父親を亡くした章子には、戒仙は父親かつ庇護者だったと思う
寂聴の写真説明に、戒仙は不敵に顔をあげている、とあった
彼の本意は、禅僧の婚姻はご法度、の禁を解くことではなかったろうか
戒仙もきっと章子の次の詩を読んでいたに違いない
(寺は聚光院と思っていたが、3行目の山寺、最終行の破れ寺が気になる)
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]