1904/M37年 滔天34歳
日露戦争開戦。(満州・朝鮮の所有を巡る戦争、ポーツマス条約で翌年講和)
政府内でも開戦派と非戦派の対立があったが、結局は開戦となった。
滔天は最後まで非戦の意志を貫いた。
この年、清国での蜂起失敗、日本亡命した黄興(32歳)と出会い意気投合。
また、「自由演芸会」に参加し、浪花節の修業と興行を続ける。
「自由演芸会」 左:伊藤痴遊(講釈師・政治家・ジャーナリスト)
右:一心亭辰雄(浪曲師 ) ~のち服部伸と改名し講談師となる
年末、彼の浪曲を聞いた石川三四郎(※)が「平民新聞」にこう書く。
"浮世が儘になるならば乞食に絹のきもの着せ、車夫や馬丁を馬に乗せ・・・
芸は上手くないが、往年の意気を浪花節に隠すかと同情に耐えなかった"
滔天はその石川を訪ねて行き、知りたかった孫文の所在を知り手紙を書く。
※日露開戦反対・非戦派の「平民社」(幸徳秋水・堺利彦が設立)の社会活動家
1905/M38年 滔天35歳
槌と子供ら(龍介・震作・節)が上京。
滔天は新宿番衆町(現・新宿5丁目)に家を借り、一家で住む。
孫文が日本へ戻り、滔天を介して黄興らと会い「中国同盟会」設立
機関誌「民報」の発行人に滔天がなり、編集は黄興・宋教仁らが行った。
「民報社」には、同盟会メンバーや中国人留学生らが多く集まった。
そこで、槌の姉の卓に彼らの世話を頼むことにした。卓は引き受け、
「民報のおばさん」として誰からも慕われたことは既に書いたので省略。
なお、当時の留学生は8千人ほど、女性も百人ほどいたという。
1906/M39年 滔天36歳
滔天ら革命評論社『革命評論』創刊。(同盟会内紛の影響で10号で休刊)
1907/M40年 滔天37歳
清朝政府から日本への圧力が強まり、孫文が離日してハノイへ行く。
同盟会の内紛(孫と黄ら若手の対立)が生じる。
孫文が滔天へ、在日中国同盟会の全権委任状を送る。
孫文は,この年、中国で4度武装蜂起するが、いずれも失敗する。
7月、女性解放を目指した秋瑾が政府軍に逮捕され処刑された。(31歳)
秋瑾の処刑を伝える絵
滔天、9月から12月末まで、痴遊・辰雄らと西日本を浪花節巡業する。
1908/M41年 滔天38歳
宮崎一家生計苦しく貧窮、数度転居を繰り返す。
黄興の往来が頻繁になる。この年、清王朝の光緒帝・西太后相次ぎ死去。
1909/M42年 滔天39歳
滔天、若手と一座を組み、中部・西日本巡業をする。(最後の地方巡業)
母・佐喜が脳溢血で急逝する。(81歳)) 巡業先より帰省する。
清王朝崩壊の足音が近づいて来るが、今日はここまで。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]