遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

「石橋湛山の遺志を継ぐ人々~その1」

2024年06月25日 | 人物

宇都宮徳馬 1906/M39-2000/H12 政治家・実業家 
’60年安保改定時、除名処分の湛山の援護射撃を行ったのが上の人。
湛山の遺志を継ぐ直弟子の一人である。


石田博英 1914/T03-1993/H05 政治家(衆議院議員) 
彼も湛山に私淑した一人、石橋内閣の時の総裁選挙参謀を勤め、
舞台裏で2,3位連合の工作を行い岸を下した。石橋内閣の官房長官となる。
石田はこうも述べている。
"自民党にはかつての全体主義者・統制主義者がいる。(岸がその例)
それより重要なのは人間性の尊重。個人の自由・行動が生活信条の基本。"


田中秀征 1940/S15 - 政治家・福山大学経済学部客員教授
この人も湛山に私淑した人で、湛山政治の系譜をひく人。
新党さきがけの理論的指導者である。

さて、湛山没後50年にあたる昨年のYoutube動画を掲載する。


それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

「反骨・気骨のジャーナリストたち~#19・石橋湛山その10<晩年の人生>」

2024年06月24日 | 人物
1959/S34 75歳 石橋=周共同声明
中国を訪問し、毛沢東・周恩来を初め同国首脳社と会談。
石橋=周共同声明を発表し、日中両国の友好親善を約す。

【'60年安保闘争】


会期延長の強行採決。衆議院議長は清瀬一郎(1960年5月19日)


日比谷公園から内堀通りを国会に向かうデモ隊

・・・安保改定に反対する湛山は、安保闘争リーダーの総評岩井と会談。
これが何度目かの湛山除名運動を惹き起こす。
'60年3月、「日本週報」に「石橋除名論に応えて」と題する一文が載る。・・・

"両者の会談内容は、
①北方領土の一時棚上げと日ソ平和条約の早期妥結
②その糸口に中国要人と今年中に会う
③新安保条約は慎重に討議する
この③項が党議違反だと言うが、党議自体が無かったので、違反ではない。
~中略~ 
総評との会談は利敵行為と言うが・・・話合いは民主主義の根幹である。"


樺美智子さんの死の翌日。樺さんに供花する人たち(6月16日)

1964/S39 80歳 ソ連訪問
日ソ協会会長ネステロフ、ソ連対外友好連絡団体連合会会長ポポアの招請により訪ソする。

1966/S41 82歳 入院
手足に麻痺を感じ聖路加病院に入院、主治医は日野原重明が務めた。

【事実に合わぬ理論は訂正】~「東洋経済新報」1966年11月 より
 "自由主義の効果は、ある特定のイデオロギーにとらわれることなく、
必要に応じて自由にそこから抜け出られるというところにある。
事実に合わない理論なら、その方がまちがいなのだから、
訂正すべきものだ。私は長い間、そう考えてきた。"

1968/S43 84歳 立正大学学長を辞任
1952年から務めた立正大学学長を辞任、名誉学長に推される。

【政治家の私利心】~「東洋経済新報」1968年10月 より
"人間は誰でも私利心を持つ。自分は持っていないと云ったら嘘になる。
しかし政治家の私利心が第一に求めるのは、財産や私生活の利益ではない。
国民の間からわき上がる信頼であり、名声である。
これこそ、政治家の私利心が追求すべき目標でなければならない。
そうでないなら、政治家をやめてほかの職業にかわるがいい。

1972/S47 88歳 「石橋湛山全集」を完結する。

【同情は我と彼を融合する】~「週刊東洋経済」1972年10月より
"私はかねて、人生の事はただ理屈だけでは理解できないと考えてきた。
理屈は我と彼とを離隔し、同情は我と彼を融合する。
ここでいう同情とは、相手に憐憫の情をいだくことではなく、
相手の立場を理解する努力を怠らないことだ。
これは人生のことすべてに通じ、国と国とのつき合いでも例外ではない。
他人の好意を求める者は、自らこれを受けるに足る行為が必要である。
外交関係でも同様だ。このことを常に心してもらいたい。"

1973/S48 4月25日、脳梗塞のため88歳で逝去。
 
石橋家の菩提寺「善性寺」


冒頭近く、安保騒動で除名騒動を起こした湛山のことを書いた。
その彼を、援護射撃する寄稿文を掲げた政治家がいた。誰だろう?
次回は、湛山の衣鉢を継ぐ政治家の足跡を追ってみることにしたい。

それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

「反骨・気骨のジャーナリストたち~#18・石橋湛山その9<石橋内閣退陣後・安保闘争」

2024年06月23日 | 人物


【'60年安保闘争】
 湛山の病気退陣で、日米安全保障条約の改定が岸内閣で行われる
 戦後の条約は、日本は米軍に基地を貸すが、米軍は日本防衛の義務は無い。
 日本と米国は対等であるように条約を改定したいと、いうのが岸の悲願。
 早い話、日本も軍隊を装備し、自前の戦争も出来る国にしたいというもの、 
 しかし、懲り懲りした国民は「二度と戦争はしたくない」のが本音。
 知識人、学生、労働者など500万人が参加して反対運動を行った。

 米国は、日本からの要求をまともに取り合わなかった。
 ただ、ソ連との冷戦が激化する中で、自国の軍事予算を減らすために、
日本を“対ソの最前線基地”として積極的に活用することにし改定に応じる。


湛山と安保闘争との関りはわからない。
ただ、日中、日ソとの国交回復に尽くし、安保など眼中にないだろう。
岸については殆ど何も知らない。日和見主義者という噂は聴いているが。
あと、宏池会だから現総理もその流れ。そういえば軍事費倍増するそうだ。
それともタヌキ知事のようにミサイル・シェルターを作るか・・・。

国の安全保障=国民の安全保障である。
官僚の作文で口を動かさず、もっと頭を動かせて欲しいものだ。
きょうは書く材料がない。それでは明日またお会いしましょう。
{Rosey]

「反骨・気骨のジャーナリストたち~#17・石橋湛山その9<石橋内閣退陣後・写真あれこれ」

2024年06月22日 | 人物

湛山 72歳

石橋内閣誕生】~1956/S31年12月 72歳
石橋内閣退陣】~1957/S32年  1月 73歳
1月25日 過労で急性肺炎となり、岸外相を臨時首相代理に任命し、静養。
2月23日 主治医から最終的に2か月間の療養が必要と診断される。
湛山は総裁辞任・総辞職の道を選び、在任65日での退任となった。
・・・その後、湛山は体調回復し活動再開。日中・日ソの国交回復に尽力。・・・

【写真あれこれ】

施政方針演説をする湛山


湛山・うめ夫妻


休養中の湛山


周恩来総理との初めての会談 1959 75歳

喜寿祝賀会での石橋夫妻(77歳)


第2回訪中の挨拶をかわす湛山(79歳)と周恩来総理


北京での日本工業展覧会の開場式(79歳)


モスクワ空港に到着、ネステロフ氏の出迎えをうける単剤夫妻一行(80歳)

モスクワの日本語学級をたずね学生たちと歓談 1964(80歳)

今日はここまで。それでは明日またお会いしましょう。
{Rosey]

「反骨・気骨のジャーナリストたち~#16・石橋湛山その8<湛山の政治信条>」

2024年06月21日 | 人物

総裁選を闘った左から 石橋湛山・岸信介・石井光次郎

【石橋内閣誕生】~1956/S31 72歳
鳩山首相引退の後、保守統一がなり自由民主党となる。
12月 自由民主党の総裁選実施。
湛山が岸信介に逆転勝利し初代総裁、首班指名で石橋内閣が誕生。
(当初1位岸・2位石橋・3位・石井光次郎)、決戦で石井派が石橋支持し逆転)

◆組閣人事(1部)
大蔵・池田勇人 外務・岸信介(兼副総理) 官房長官・石田博英

◆内閣の基本方針(5つの誓い)
①国会運営の正常化 ②政官界の綱紀粛正 ③雇用の増大と生産増加
④福祉国家の建設 ⑤世界平和の確立

施政方針の2大施策
①経済の大幅な成長を目指す積極財政 ②日中関係の緊密化

・・・組閣人事については、岸信介の入閣が気になるところだ。
数では岸派が最大会派だが、彼を入れない組閣は無かったのだろうが?
そうなら後継は岸内閣とならず、対米追随・統一教会・安保改定闘争等々、
今に続く妖怪政治の歴史も変わっていたような気がするのだが・・・。


東条内閣の閣僚たち 最後列左が岸信介

イデオロギーに左右されるな~1959年8月29日付,「日本経済新聞」要約
"人間の幸せは、資本主義とか共産主義とかイデオロギーによって左右され
てはならない。人間の幸福が最後の目的であるのは、資本主義も共産主義も
全く同様なのだ。イデオロギーは人間に奉仕すべきものだと思う。
 ところが今は我々の生活をイデオロギーに奉仕させる傾向が強い。
これが世界の緊張や対立の大きな原因となっていると私は考える。
同じアジアの中で二つの国が対立するのも大きな不幸である。
日本と中国は、将来、必らず提携しなければならない運命にある・・・。"

【組閣の余談】
 ・・・岸信介は、東条内閣の商工大臣(今の通産大臣?)を勤めた。
そして満州を軍隊の軍需基地にするべく、かなりの辣腕を振るったという。
さて、閣僚として認められるには、御名御璽(天皇の名・印)が必要。
湛山は、岸の名に、大丈夫かという旨を問われ説明したという。
なお、岸はA級戦犯として公職追放されたが、実刑は免れたようだ・・・

それでは今日はここまで。明日またお会いしましょう。
[Rosey]