2016.04.11
トルコの基地に80発ほど保管されていると言われているB61は戦闘機や爆撃機に搭載できるタイプの核爆弾。それをトルコ軍が中東で使うことも懸念されている。その最新モデルである「11」は地下に作られた施設を攻撃できる「バンカーバスター」で、弾頭の爆破力は400キロトン、目標からの誤差は110から170メートル。現在開発中だというモデル12は50キロトンで、誤差は30メートルだという。小型化を図る目的は、使いやすくするためだ。
核兵器を保有している、あるいは保有していることが確実な国はアメリカのほか、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、朝鮮、イスラエル。アメリカの情報機関は日本が核兵器の開発を進めていると確信しているそうだが、実際に保有している可能性もある。
少なくとも日本が兵器級のプルトニウムを保有していたことは確かで、今年3月下旬には331キログラムの兵器級プルトニウムを載せたイギリスの武装核運搬船「パシフィック・イグラト」が東海村からアメリカへ向かって出港したようだ。
核兵器の保有に前向きの発言をした政治家のひとりが安倍晋三首相の祖父にあたる岸信介。1957年5月には参議院で「たとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈」と発言、59年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張している。
1964年に中国が初めて核実験を実施すると、岸の実弟、佐藤栄作は日本政府の内部で核武装への道を模索(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)、65年にアメリカを訪問してリンドン・ジョンソン大統領と会談した際、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。(NHK「“核”を求めた日本」2010年10月3日)CIAなどが核兵器開発の中心になっていると疑っていた「動力炉・核燃料開発事業団(現在は日本原子力研究開発機構)」が設立されたのは1967年のことだ。
1969年2月に日本政府は西ドイツ政府と核兵器に関して秘密裏に協議している。日本の外務省から出席したのは国際資料部長だった鈴木孝、分析課長だった岡崎久彦、そして調査課長だった村田良平。この年からアメリカはリチャード・ニクソン政権がスタート、大統領補佐官に就任したヘンリー・キッシンジャーは彼のスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)
この日独会談で西ドイツは日本側の申し入れを断ったというが、コンラッド・アデナウアー首相は1960年3月にニューヨークでイスラエルのダビッド・ベングリオン首相と会談し、核兵器を開発するために1961年から10年間に合計5億マルク(後に20億マルク以上へ増額)を融資することを決めている。西ドイツ政府が核兵器の開発自体に否定的だったとは言えない。
イスラエル核兵器開発を止めようとしたジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月に暗殺され、イスラエルは核兵器の開発を進める。1986年にイギリスのサンデー・タイムズ紙が掲載したモルデカイ・バヌヌの内部告発によると、イスラエルが保有する原爆は約200発。バヌヌは1977年から約8年間、技術者としてディモナの核施設で働いていた人物だ。
ディモナにある核施設でバヌヌが担当していたのは原爆用のプルトニウム製造。生産のペースから計算するとイスラエルは150から200発の原爆を保有していることが推定されるとしていた。水爆に必要な物質、リチウム6やトリチウム(三重水素)の製造もバヌヌは担当、別の建物にあった水爆の写真を撮影したという。また、イスラエルは中性子爆弾の製造も始めていたとしている。なお、ジミー・カーター元米大統領はイスラエルの保有する核弾頭の数は150発以上だと語っている。
佐藤政権は核武装に関する調査を開始、その中心にはなったのは内閣調査室の主幹だった志垣民郎。原爆の原料として考えられていたプルトニウムは日本原子力発電所の東海発電所で生産することになっていた。志垣らの調査では、この発電所で高純度のプルトニウムを年間100キログラム余り、つまり長崎に落とされた原爆を10個は作れる量を生産できると見積もっていた。
ジミー・カーター政権は日本の核兵器開発を警戒していたが、1981年にロナルド・レーガンが大統領に就任するとアメリカ政府の内部に日本の核武装計画を支援する動きが出てくる。東海再処理工場に付属する施設として1995年に着工されたRETF(リサイクル機器試験施設)はプルトニウムを分離/抽出するための施設だが、この施設にアメリカ政府は「機微な核技術」、つまり軍事技術が含まれていた。調査ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、福島第1原発が過酷事故を起こした当時、日本には約70トンの兵器級プルトニウムがあったという。自らが生産した可能性もあるが、外国から持ち込まれた可能性もある。この数字が正確なら331キログラムは取るに足りない量だ。
かつて、アメリカ軍が沖縄へ核兵器を持ち込んでいたことが明らかになっている。その当時、アメリカの軍や情報機関で大きな影響力を持っていた好戦派はソ連に対する先制核攻撃を目論んでいたことも判明している。
なお、CIAの好戦派はケネディ大統領から長官の職を解かれたアレン・ダレスが中心で、軍の好戦派はケネディから統合参謀本部の再任を拒否されたライマン・レムニッツァーや日本の都市を焼夷弾による爆撃で攻撃、多くの住民を焼き殺したカーティス・ルメイだ。レムニッツァーは1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めている。
1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれ、54年になると、SAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。
SACが1956年に作成した核攻撃計画に関する報告書によると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下することになっていた。
ソ連に対する先制核攻撃の準備が始まったのは1957年だと言われ、この年の初頭には「ドロップショット作戦」が作成された。300発の核爆弾をソ連の100都市で使うというもので、工業生産能力の85%を破壊する予定。
アメリカの好戦派はソ連への先制核攻撃にICBM(大陸間弾道ミサイル)を使う予定で、ソ連がICBMを大量生産する前にICBNを準備、テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の終わりに核兵器で奇襲攻撃しようとしていた。
この計画で最大の障害はケネディ大統領だったが、1963年11月にテキサス州ダラスで暗殺される。好戦派はこの暗殺の責任をソ連やキューバに押しつけ、戦争の口実にしようとしたが、CIAの偽情報をFBIがリンドン・ジョンソン大統領に知らせたこともあり、戦争には至らなかった。
1950年代にアメリカの好戦派がソ連を先制核攻撃しようとした背景には自分たちが圧勝できるという妄想があったのだが、ソ連消滅後、似た考え方がアメリカの支配層内部に生まれている。例えば、2006年にキール・リーバーとダリル・プレスはフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)で、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できると書いている。つまり、反撃されないという妄想だ。シリアやウクライナでロシア軍は戦闘能力の高さを示したが、ネオコンは一度決めた予定を変更できないらしい。
以上は「櫻井ジャーナル」より