パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。
彼らがイエスさまを試す動機はいつも否定するためであったが、イエスさまは彼らに御父を語り続けられた。
創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。 それゆえ、人はその父と母を離れて、
ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。
神様が創造された結婚という形に、モーセによって離婚というヒビを割り込ませたのは人の頑なさであった。
パリサイ人もその頑なさによって、キリストのわざを見ても信じようとはせず、教えを聞いても悟ろうとはしなかった。
キリスト者はキリストの花嫁。みことばだけを頼りに生涯キリストに添い遂げる者であり、他の人を頼りにすることは姦淫を犯すことである。
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」
「子どもたちを来させなさい。罪人を来させなさい。」とイエスさまは言われる。間に割り込んで妨げる者に憤られる。
人の肉性は立派な人を集めようとするが、イエスさまは罪人をあがなうため、病人の医者として来てくださった。イエスさまが求められるのはそのような者であった。
だから弟子たちがイエスさまのお側に居ることが出来るのであり、今、私たちもイエスさまに居ることが出来るのである。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。
弟子に、宗教者に、今私たちに言われる。
イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
彼は「イエスさま」に来たのだろうか・・、「尊い方」を求めて来たのだろうか。「誰を求めるのか」「誰に聞くのか」「誰に祈るのか」そのことが、いのちの分かれ目である。
誰であっても、「イエス・キリスト」に拠らなければ救いはないのだ。
「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
彼は良い環境で育ち、立派で礼儀正しく完全な人である。何より彼の優れている所は、「永遠のいのちが自分の行いによって得られた。」とは思っていないことである。
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
イエスさまは彼の良い行いをいつくしみをもって見られた。今も人の「良い行い」をいつくしみをもって見ておられるだろう。
しかし、十字架をもってしても救えないイエスさまの悲しみが、彼を見つめるひとみの奥に見える。
「欠けたことの一つ」は、どうしても必要なことであった。
「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(ルカ10:42)
いのちの救い主であるイエスさまのことばを選び取らなければ、どんなに良い行いを持ってしても、「永遠のいのち」と引き替えることは出来ない。
彼は永遠のいのちであるイエスさまのことばを捨てて、必ず滅びる世の財産を守った。
イエスは、彼ら(弟子)をじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
その時まで、すべての正しいことを自分で成し遂げることが出来ても、出来ないみことばに出会ったら、「どんなことでも出来る」主に叫ぶべきである。
イエスさまのいつくしみにすがって「私が財産を捨てて、永遠のいのちを選べるように助けてください」と彼も叫ぶべきであった。
ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」
イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。
弟子たちは、いとも簡単にイエスさまを選び取ることができた。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)
とても厳粛なことである。私たちもそのように選ばれ、キリストに依って信仰は守られている。主のお憐れみに深く感謝するばかりである。
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