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この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)
人前で「イエスさま」とその名を語ることには勇気が要る。その名は、人の完全な弱さを漂わせるから・・。
聖霊に拠らずにイエスさまの名を語ることはできない。イエスさまの名を語る者は、恥を忍び、無条件降伏して頭を下げ狭い門を通った者だけである。
「イエス」その名はただひとりである。すべてを受け入れるならマザーテレサのように愛深く賢く見える。しかし、ただひとりキリストの十字架によって救われ、永遠のいのちを賜った者は、イエスさまの御名以外は受け入れることはできないはずである。
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13~14)
救いの門は狭いのであり、決して誰でも入れる門ではない。それは神の御子キリストのいのちが支払われた関所であるから・・。此処には「まれ」だと書かれてあり、実際ごくわずかしか救われないのである。その言葉をどのように信じるか・・、差し引いてはならないのがみことばである。
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」(マルコ8:38)
それに引き替え「神さま」と語ることは誰にだって出来る。むしろ美しくさえ聞こえ、その名で賢そうに装うことだって出来る。
それは何を指しているのか明確ではないからであろう・・。神々を指しているのかもしれないから、それを妨げるものが居ないのだ。誰でもその名は受け入れることが出来る。
イエスさまのように語る人はいくらでも居る。いや、彼らはもっと賢く語っている。この世には宗教はあふれている。また、普通の人にもそれぞれの宗教のようなものはある。それらはたいがいとても賢い言葉、美しい言葉である。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、(Ⅰコリント1:23)
サタンも光の御使いを装って、それはそれは美しい言葉や優しい言葉をもって、人をほめたたえてくれる。そこに救いのすべてがあると誘ってくれる。
しかしたとえ言葉は同じでも、それは何の実もない幻想である。彼は騙すものだから・・。
人はそこで死ぬまでほめられ、騙されていたいと願うのである。たとえその先にある滅びを聞いたとしても信じることはない。だから大方は此処で死ぬことになる。
イエスさまについて行く者は明確にイエス・キリストとその名を語り続ける。イエスの名を語ることこそ人の十字架である。
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ9:23)