イエスさまには罪がないから本来誘惑されることはない。誘惑は罪から来ると思うから・・。
でも、イエスさまは荒野にて四十日間の断食によってご自身を弱くされ、悪魔の誘惑を受けてくださった。
こうして、イエスさまは人の子としてのすべての試練を経験してくださった。空きっ腹にパンの誘惑、イエスさまがこの世では得られなかった権力と世の栄光の誘惑、神の愛を試みることの誘惑・・。
そうして教えてくださったこと。みことばによって勝利しなさいと・・。しかし、私はみことばがそれほど近しいものになっているか・・という問題を抱えている。
本当に、神のことばによって飢えが満たされるほどに・・。
私は神への飢えをパンで満たしたり・・する。そんなときは飢えも渇きもなく、旨くもないのに食べている。
内にとぐろを巻いている主への飢餓感がある、異言の祈りも賛美もどんな祈りもその距離を解消しはしない。
みことばは甘く、また、些細なことに至るまで、主はご自身の憐れみを今も暮らしの中に見せてくださっている。
それでも・・それでも渇く。心ここにあらず・・もっともっと、もっともっと・・。世はそういう所なのだろう。
移りゆく世の栄光は虚しくも無意味である。
ただ、神を試みることは深い。人は誰でも愛を求めて止まないのだから・・。信じることに置いてのみ受ける仕組みが人の弱さ・・。いや、それさえもキリストの信仰によるのだけれど・・、そこに安息するには、自分の魂から距離を置き続けなければならない。
弱い者に遣わされて来てくださった救い主。
しかし、そのお方を知っていると思っている者や、選びの民だと特権意識に居る者には躓きとなる。その方は石ころからでもアブラハムの末を起こすことの出来る方である。
立っていると思う地が揺さぶられることは、神の憐れみなのだろうなぁ・・。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:3)
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