バプテスマのヨハネの死が証したものはなに・・イエスさまの十字架が証したものはなに・・ 、
ヨハネの死にがっかりした人がいた。十字架のイエスさまに自分を救えと嗤った人が居た。そう、人は神さまのわざのすべてを知ることは出来ないのだ。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道3:11)
神さまのわざと人のわざの違いは御霊によって知るほか無い。その断片を見ただけではそれが人の失敗であるか、神の計画によることであるのかを知ることはできない。
だから、主にある人もイエスさまのように責められたり、時に嗤われたりもする。
でも・・そんなことはイエスさまを知るものには甘さでしかない。本人には神のわざははっきりとわかるものである。
イエスさまと在る身には、仮に嘲笑の中にいてもイエスさまのいのちが染みてくるから・・。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)
キリストのあかしは決して古びることはない。それは時を経ていよいよ鮮やかに現れる。ただ、その時人はすべてを知ることが出来ないだけである。
バプテスマのヨハネが不妊の老女エリサベツから生まれたことは事実である。この証が、彼が馬鹿な王に最後まで悔い改めを説いて、おめおめと首を切られて殺されたからと言って古びることはない。
彼は悔い改めの水のバプテスマをほどこした時、キリストによる火と聖霊のバプテスマ、新約のキリストを知らせた。
彼だけが誰も知らないキリストを見ていたのだ。
彼の中ではもう完全な救いの成就したことを見ていたのだ。そのことは、彼がどれほど生きたことになるのだろう・・。
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