主人の洗礼準備の中で、彼の思い出として出てくるのがクリスチャンとの関わりであった。
主人が私の信仰の初めから、教会と多く関わっていたことに気付かされた。
彼が、教会という場所を始めて覗いたとき、たまたまk牧師が音楽に乗って踊って居られ、その前でおばあさんがちょこんと椅子に掛けておられたという・・。そのことは帰ってきて私にも話してくれたことがあった。
私は「キリスト教会ではあまり踊るのは見たことが無いよ・・」と言いつつも、その光景を思い浮かべて大笑いをしたことを覚えて居る。
でも、私はその時一人暮らしの老姉妹と先生の交わりの自由さが嬉しかった。きっと主人もそのように感じて覚えているのだろう・・。
私が入院したとき、m牧師は大きなハンバーグ(たぶんミートローフだと思う)を届けてくださった。
あまりに大きくてどの様に食べて良いのかわからずに、子供達とじっと眺めていたこと・・。
主人は結局食べなかったことを「申し訳なくて忘れられない」と良く話す。
きっと、大変な手間を掛け作って下さった牧師婦人の愛を消化できなかったと残念に思っているのだろう。
でも、ちゃんと愛は主人の内に生きており、だから今も覚えて居るのだと思う。
u牧師と吉野川の河原に座って祈ったこと、そのとき近くの姉妹が弾いておられる賛美が聞こえていたこなど・・そのことが8年後に洗礼の決心の大きなきっかけにもなった。
主人のキリストとの出会いは、多くの方々との関わりによって育てられていた。
私も同じである。人を通して折々にキリストと出会い、育てられ、守られ、導かれてきた。そのことは紛れもない事実である。
神の子どもに出会ったとき、私たちはその方の中に居られるキリストに出会っていた。キリストの香り、キリストの働きをその方々を通して味い、キリストの愛も、時には厳しさも教わることができたのだ。
そのことのために、キリスト者は今日もこの世に生きているのだろう。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊と共にあかしして下さいます。(ローマ8:16)
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