「大丈夫、誰にも祈ってもらう必要はないよ。イエスさまはあなたの祈りをちゃんと聞いていてくださるから。」そのことを知っておられるから、私に祈って下さいとも何かを願うこともされず、ただ、現状を話されただけで、主にのみより頼んで乗り越えてこられた。
久しぶりにお会いして、私は彼女がちょっとまぶしい。
その後の様子を話されたとき、
「私はずっと祈っているから本当に大丈夫。何もかも助けられているし、自分のするべきことはちゃんと出来た。疲れているけれど、体も元気。でも、一番心配だったのは、もうこのような時を持てなくなるのじゃないかと言うことだった。」
この言葉に驚いた。そして、自分が恥ずかしくなった。私はこれほどイエスさまのことを知りたいと願っているだろうか・・。
そうして試練が信仰を躓かせるのではないことも知った。主がぴったりと共にいて下さるなら、少しも心配をする必要はない。試練はむしろ信仰を強め、イエスさまの助けを多く経験して信仰を深めていた。
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今日は、マタイの福音書20章のぶどう園の箇所を読んでいて、神様のルールを学んだように思えてひとりで感動している。
ぶどう園に働く労務者を雇いに行った主人は、朝一番に雇った人とは、一日一デナリの約束をしてその通りに支払う。これは普通に労働に対する対価として払われたもので契約通り。
でもその後の人たちにははっきりとした対価が示されなかった。ただ、行き先を示しただけで「それ相当のものをあげる」というあいまいな約束。この人より遅く雇われた人には、ただ行き先を言っただけでその一言さえもない。
後から行った人たちは主人を信頼して従ったということ。最後なんか、実際にぶどう園まで行って働いた人はとても素直な人だと思う。もう、日も暮れようと言う時に、のこのこと出かけるなんて実際勇気がいるもの。常識を破るほどの素直さと勇気。
これって信仰にとても大切なものだと思う、だから主人は彼らを評価して、後に来た者から支払うことにしたのじゃないかな・・。