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塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。(ルカ14:28~31)
キリスト者が事を行うには、まず主の御前にみことばを受け取るまで座ることから始まり、いかなる時にも完全に必要を満たし完成させるのである。
お金の計算も戦力の計算もすべては、賜ったみことばを正当に計算することに拠って成る。
そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:33)
それは自分発のものには拠らず、要らないから捨てなさいと言われている。みことばという宝の価値を正しく知ることによって、平安の内に塔を築きあげ、敵に勝利して行くことができるのである。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:26~27)
私は以前主をもっともっと知りたくて、教会に来かけたばかりの主人と、聞くことに助けの必要は息子を、御前に放り出したことがある。
私が捨てた家族を拾い上げてくださって、主は平和の内にご自分の家族としてくださった。
私は渇いて行動しただけであったので、ただ、ただ、主の御憐れみだと深く感謝している。
主の再臨に、私たちが家族を抱きかかえて上げられるなどと書かれていない。ひとり一人、主はご自分のものの名を呼んでくださるのである。
私はその時を、日々みことばを計算しつつ待っている。