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「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)
サタンはエバを罪に誘惑するとき「あなたがたは決して死にません。」と言った。万物の造り主である神様は「必ず死ぬ」と言われた。そうして今、人は百パーセント死ぬことを見て知って居る。
しかし・・
主人の病院通いに付き添って1年、医療がまるで万能であるかのような感じを受ける事がある。完全な医療を受けた者は死なない・・、そのような勘違いをさせる力が働いている・・そんなふうに感じた。
人が造り主である神を無視したときに、「あなたがたは決して死にません。」とまるで死を退けることができるかのように、ささやきかけるものがあり、人はそれにすがりつく・・。そう、死から目を背け、造り主の言葉をないがしろにさせる罠。
医学は神が人に許された能力だ。それが死と対立するはずがない。
その医療現場に、カンファレンスに造り主を迎え入れて耳を傾けるとき、それは共存し完全なものとなるはずだと思うけれど・・。
ただ、そのことには人の謙遜を求められるが、それは難しいことではないと思う。事実を真っ直ぐに見れば誰にでもわかるだろう。今まで不都合だからと無視してきた事柄を直視し、そこで立ち止まるなら・・。
造り主を除いた人の暴走になんの勝利があるだろ・・。どんなに医学が進んでも人は必ず死ぬのだから、結局行き着く所は敗北である。
病院で人生を終えた人が、明るい正面玄関から堂々と出て行くことはない。この現実が、必ず誰もが迎える医療の終着点なんておかしいことだ。
神様は「必ず死ぬ」と言われた後に、死からの贖いという御子イエス様の救いが備えられ、死は救い主によって生のゴールとなり、グリコの看板みたいに手を上げて天の喝采内にゴールに飛び込んで行く祝福となったのである。
「死なない」という惑わしにすがりついて、造り主、救い主のことばを無視し続けるから、突然足下が抜けるように永遠の滅びに落ちて行くことになるのである。誰もがそのことを知って居るからこそ、必死で「死なない」という偽りにしがみつこうとしてしまう。
しかし、死という刑罰は今や罪の裁きではなく、ご自身の命をもって救いを備えてくださった、神の御子イエス様を信じない事の裁きなのである。
病院はものすごく疲れる所である。そこはサタンの草刈り場のようであるから・・。しかし、その荒野にはイエス様も居てくださる。
どんなに弱い者にであっても、バラバのような悪者であっても、たとえ愚かであっても、信じて救いを求めるならイエス様は助けてくださる。
逃げ場のない死という人の憐れに、造り主が愛によって備えてくださった救いがある。
刑罰の死ではなく、新しいいのちへと移される晴れがましいゴールが待って居るのだ。
その死をどうして恐れたり、否んだりする必要があるだろう・・。苦痛の中で、人の尊厳を弄ばれてまで逃げ惑うことではない。
神様が人に準備してくださったものは、「必ず死ぬ」それこそが完全な救いであり、罪からの脱出なのだ。
この世の命の長さではなく、望みのある死を見いだすために、与えられている時を用いることこそ大切なのである。人は必ず死ぬのだから。