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悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、
自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。(ルカ8:2~3)
大ぜいの女たちがイエスさまにのお伴をしていた。彼女たちはイエスさまの家族である。彼女たちはイエスさまの血潮流れる十字架にも、墓までも付いて行った。
「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。」(ルカ8:21)
キリストの花嫁である教会が溢れるばかりの祝福を受けて、頭なるキリストに従順する姿に重なる。
舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。(ルカ8:24)
この時、弟子たちは嵐の湖で死を恐れて叫んだけれど、イエスさまの権威あるみことばを経験する中で、喜びを持って従い通し殉教することさえ厭わなくなって行った。
悪霊さえもイエスさまの権威を恐れるのを見て、ゲラサの人々はイエスさまの支配を恐れて「町から出て行ってください」と願った。神の権威は服従しない者には恐怖でしかない。
彼らが悪霊から救われた男に無関心なのは、自分たちだけは平和で安全、豊かであると勘違いしているのだ。
救われた男はイエスさまのお伴を願ったが許されなかった。墓場に縛り付けられた命から解放されたら、家に帰って家族と住み、人々にイエスさまの救いを話しつつ、喜びの中で賜った命を生きるのである。、
家族に遣われることは、イエスさまの愛深いご計画に拠ることで、私たちの心の中にある切なる願いをご存じなのである。
ひとり娘の癒しを願った百人隊長は途中で訃報を聞くが、
「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」というみことばを聴いていた。
死を見た人々が泣き悲しむ家に入っても、
「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」というみことばを聴いていた。
イエスは娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」
すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。(ルカ8:54~55)
神の権威による癒しは死をも越える。人を滅ぼす死の棘は抜かれた。
よみがえりのイエスさまも弟子と食事をされた。食べることは生きていると言うことである。キリスト者は霊の糧であるみことばを日々食し、絶えず聖霊によって囁かれる御声を聴きつつ生きる者である。