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すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」(ルカ10:25~27)
「何をしたら」と尋ねれば答えは「律法を実行せよ」である。しかし、律法を完成することができるのはイエスさまだけである。
悪い心で永遠のいのちをいただけるわけがない。すでに心の中で、唯一の救い主イエスさまを否定しているのだから・・。
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」(ルカ10:28)
決して出来ない「それを実行しなさい」と言われたら終わりである。
なを「隣人とは誰か」と食い下がる彼に、イエスさまは、「善きサマリヤ人」のたとえを話された。
旅人が強盗に襲われ着物をはぎ取られたり、半殺しにされて倒れているのを見た時、祭司もレビ人もその人を避けて通り過ぎた。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。(ルカ10:33~34)
そうしてイエスさまは、隣人になったのは誰でしょうと彼に問われた。
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。(ルカ10:37)
此処は「このサマリヤ人を目指して善き隣人になりましょう、」という話しではない。此処では、人を救うことが使命の宗教者が、死に瀕している人を避けたのである。人の宗教心では救えないことを教えておられる。
イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)
黄金律といわれるこの律法に、あいまいさの入り込む余地はない。律法を完成することが出来るのは、イエスさまだけであることを悟れということである。
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」神である主を愛されたのは、十字架でみこころを完成されたイエスさまおひとりであり、
神であるお方が無力になって世に下り、私たちの間に住んで隣人となり、ご自身以上に愛してくださったイエスさまだけが、律法を完成することができたのである。私たちはその救い主に拠り頼むことによって律法を完成するのである。
さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。(ルカ10:38~39)
マルタは妹が手伝うこともなく、みことばに聞き入っていることをイエスさまに訴えた。
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41~42)
みことばに聞き入ること以上にイエスさまをお喜ばせすることはない。なぜなら聴くことによってのみ、イエスさまの必要を知ることができるのであり、お心を共有することができるからである。
イエスさまはマルタに勘違いを教えられた。喜んで迎えておきながら一番大切なことを勘違いして、世と同じことをしていたからである。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4:32)
この世でイエスさまをもてなすご馳走は、みことばに渇いて聴き入る霊である。そうするならなすべきことを導かれ、そのためのすべての必要を備えてくださるからである。
その時、マルタのように疲れる事もつぶやくこともなく、喜びにあふれて主に仕えるようになる。