イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(31)
何を持って信じたとするのか・・、イエスは心をご存じであり、守るべき者を守っていてくださる。
ペテロはイエスを信じていたが、追い詰められた時に3度も関係を否定した。しかし、イエスは彼の弱さをご存じであり、信仰が無くならないように祈られて、ペテロは平安のうちにイエスに留まっていたのである。
信じるとは関係であり、長い信仰生活の中で主に信頼していても、弱さのゆえに危うい時があるが、主は人の弱さには同情してくださる方であり、砦となって守っていてくださる。
ただユダの二心をもご存じである。二心の者はみことばを心に受け入れてはおらず、それゆえみことばの真実を経験することは無いので、時が来たらイエスを去って行くのである。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(32)
真理はイエス・キリストであり、人は世でどれほどの満足を得たとしても、かえって心は虚ろになり、ぽっかり空いた空洞は世の何をもってしても平安がなく、いよいよ真理に飢え渇くのである。それは人が神の作品だからである。
作者のみが自分の作品の必要を知っており、彼らを世から解き放って在るべき場所に導くことが出来る。真理のことばは過ぎ去る罪の世から永遠に移す約束であり、肉の欲望を殺して、魂の渇きをみことばで満たし、霊のいのちを回復する力である。
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。(33~34)
肉の奴隷は自分が奴隷であることを忘れることはない。しかし、魂を支配されている奴隷は自分が支配されていることさえ知らない。
罪を意識することなく神に逆らっているのは、罪の奴隷ゆえであり、神に従う自由を持たない故である。
イエスは十字架のあがないによって罪を断ち切り、神を愛する自由を得させるために、世の罪の真ん中に下ってくださったのである。イエスに留まる者はきよい神の子とされ、聖霊の導きによってみことばを生きる自由を持つ者である。
奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。
ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(35~36)
罪の奴隷はわずかな間でその働きのすべてと共に世を去り、キリストのいのちの恵みを無にして滅び行く。しかし、イエスに付く者は永遠のいのちを受けて、キリストと共に死を通ってよみがえりのいのちをたまわっており、尽きることの無い恵みの中に神と共に生きる約束に在る。
キリスト者の尽きぬいのちのめぐみは、みことばに留まっている限り、不自由なこの世の支配の中にあろうとも、御国の望みに満ち満ちている。聖霊がみことばの真実なことを教え続けるからである。
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。(37)
みことばを信じ従順して生きる者は、永遠のいのちの約束に在って、世の問題に縛られず、明日を思い煩うこともなく、若く健やかな時も老いて病んでいる時も、その心は主の御許にある永遠を思っている。
キリスト者はうちにおられるキリストに拠って生きる。主は世の事々にも生きる道を教え知恵を与えて、永遠の未来を備えさせて絶えず自他に向かって福音を語らせてくださっている。
「わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」
彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。(38~39)
彼らはアブラハムも知ってはいない。彼らの父祖はアブラハムに導かれて、神の守りの荒野にある間も、アブラハムにある主の臨在を悟ることはなかった。
「アブラハムの子どもならアブラハムのわざを行う」とある。神のことばに拠って生きることでアブラハムは神のわざを行った。
信仰によるアブラハムの子キリスト者も、アブラハムを導く神のことばを聴き続けており、あやまりのない神のことばに拠る神のわざを世に現すことができる。
ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。(40)
神のわざを行い神の福音を運ぶイエスを、肉の働きによって否定することで自分の救い主を殺して滅ぶ。アブラハムは神との交わりによってみことばを聴き続け、真っ直ぐそれを行ったことによって、彼らの子孫を生かした。
しかしみことばである方を殺すとき、その血の責任を取ると豪語して彼らは子孫の多くを失う結果となった。
それゆえ 彼らにキリストのわざは現れず、みことばが生きて働くことを経験せず、今も彼らを愛する神を悲しませている。