石ころ

使徒の働き㉜ (使徒18章)

 

ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、
自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。(2~3)

 

パウロは各地を巡って福音を伝えていたが、その間にも、自分の暮らしのために働いていたことがわかる。
彼の生活が組織に依存するものではなく自立していたことによって、聖霊に示されるままにはっきりとした言葉で、人の顔色を見ることなく語ることができた。キリスト者が自立するということは、即ち、神に依存するということである。そこには無限に必要を満たす準備がある。

 

パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。
そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。(4~5)

 

福音ははっきりと語られなければならない。いのちの言葉をぼかして、それまでの生き方に逃げ道を備えてはすべてが水泡に帰す。
でも、信頼したことのない言葉は語れない。経験を伴わない助け主を伝えることは出来ない。
常にみことばに拠って生きていて、その言葉の備えによって語り出す生ける神のことばなのである。

 

しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。(6)

 

聖霊によって語られた言葉には反発が伴う。それは霊からのものなので、肉が激しく逆らうのである。しかし、この戦いは神の戦いであり、人は導かれる言葉を語り、みこころを行うのである。

 

民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:25)

 

パウロは、キリストを「十字架に付けろ」と叫ぶこの言葉を聞いていたのだろうか・・。彼らにとって福音は、この叫びに対して備えられた神の恵みである。しかし、今、同じような言葉を、福音を迫害する彼らにパウロは返した。

 

ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。
そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。(9~11)

 

確かに主が命じられた時は、主のご真実によってすべてを守ってくださる。その時、恐れて自分を守るなら、準備していてくださる祝福を失い、もう命じられることはなくなる。

神のことばは永遠に不変である。
罪を犯す前、アダムがつけた生き物すべての名も不変であるが、エデンの園で、神が「食べたら必ず死ぬ」と言われた実を、「死にません」という蛇の言葉に騙されて食べたとき、人は永遠の言葉を失って、刹那的な言葉の中で生きるようになったのだ。

 

それは即死では無かったが、命は何時消えるとも知れないものとなったのである。そうして言葉は、ただその場限りの身を守る道具となってしまったのだ。
その歴史に生きてきた人類は永遠のことばを知らず、神の約束を信じることが出来ないのである。

 

ことばとはイエス・キリストである。
人を知り尽くすキリストの血のあがないと、とりなしに依ってのみ、私たちの祈りも真実とされ、心からの賛美となり、永遠の命をたまわる言葉とされるのである。

 

人の前で語るみことばも、家の中で口にする日常の言葉も一つであり、神に聞かれていない言葉はない。奥まった部屋の祈りだけが神に届く言葉ではなく、口にするすべての言葉は主に届いている。心に潜む言葉さえも・・。
それゆえ、私たちはキリストのうちに置かれているのである。


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