気ままに人生送れたら¥$

  趣味の単車、写真、キャンプを楽しんで
   人に助けられながら、何とかかんとか¥$なくとも、 感謝!!!感謝!!!

2-2 高野山六地蔵(第3~5)

2023年11月21日 19時43分14秒 | ドライブ

続き・・・
11月16日 木曜日 快晴
京大坂道に高野山六地蔵第1~6まであるのでやはり行かなければと走りました。
(2-1)7:50発k13~R370・九度山町~京大坂道・学文路~かむろ地蔵~高野山六地蔵第二~第一~三軒茶屋大常夜燈~五條市・柿博物館~(2-2)R371~道~k102~丹生神社~玉川峡~旧可根宿本陣中屋旅館~二里道標石~第五の手前の急な坂で車が溝に落ち通行不可。~引き返し~第四~フルーツライン~13:50帰宅。
走行:141㎞。
(Google参照)k55~R371~道~k102~京大坂道・高野山六地蔵第五
k55からR371への近道 高野線 。車幅:1.3m以下ですが車が通っています。軽は幅1.48m位あります。

R371に入った所からの橋本市街地。

R317の早期改修看板。ちょっとだけ走りにくいです。

長物の大型トラックが走っています。

ヘヤピン

ここから下り

高野19km 高野山へは相当大回りです。

k102まで行かずここから近道で。

ここが道幅が狭く一番走りにくい所ですが見通しがいいので楽に走れます。

丹生川

ゆっくり快適に走れます。

k102に合流。

大分下って来ました。丹生川がまじかに見えます。





こんなところに立派な吊り橋。キャンプ場のための吊り橋 九度山町。

ごりょう橋キャンプ場と名称が変わっています。

キャンプ場から100mほど行くと説明板

観阿弥尼公墓所は判りませんでした。

坂から見返し

左奥から、丹生神社、円通寺、旧丹生小学校。

丹生神社

献金者名板



拝殿から しめ縄、紙垂(ちぎれています。)がしっかりあります。

見返し 賽銭箱に藁のたわし。何も中には入っていません。藁だけでした。

本殿 黄色味を帯びたワンカップ。

可根の丹生神社は本田の中に狛犬がありましたが、何もありません。

扉が3ヵ所ありそれぞれカギが掛かっていました。

本殿から

円通寺方向



階段が軒先側にありますので神明造りでしょうか。

狛犬はどこにもありませんでした。

円通寺から丹生神社。

障子が雨風で敗れています。

中央のお堂が一番大きいです。

漆喰が落ちて土壁が見えています。

荒れたままです。

ここはましです。



丹生小学校創立百年の碑

雑草が生えていないので手入れはされているようです。左が体育館、右が教室2階建て。

神社の前は運動場ですね。

更に100㎡ほど行くと大きな岩

南朝玉川宮殿伝承地 玉川宮・明野庵跡 長慶天皇の玉川宮・・・?判読できず。

石積みがあるので何となくそうかな~

駐車場と建物

夏の観光地です。

水遊びが出来ます。紅葉の見どころではありません。

川沿いに駐車場があります。

キャンパーが一人。

再び京大坂道に来ました。左折。正面右の車が後から来ます。

高野山にケーブルカーができるまで往来があり旅館があったそうです。

写真を撮っていると先程の軽が一旦停車たので、私のスクーターで通れないのかと道幅を確認しましたが十分空いています。
しきりに道幅を見て、ゆっくりと通り過ぎましたが、そのままノロノロの運転で行きました。

本陣:身分が高い者が泊まった宿舎。

立派です。

裏は・・・張りぼて?

50mほど行くと少し道が狭くなります。

丹生川に架かる千石橋手前。

八坂神社

京大坂道の説明

九度山町指定文化財(一部未校正)
旧高野京街道里石(二里道標石)
平成元年二月十六日 指定
高野七口の一つである京・大坂街道不動坂道は 中世から近代初めにかけて最も多く利用された 参詣道で、河根には多くの旅籠が営まれ大いに 栄えていたが、明治三十三年(一九〇〇)に鉄道 が敷かれると急激に廃れた
西高野街道には、安政四年(一八五七)に堺 から女人堂までの里程を記した十三本の里石が 建立され、そのほとんどが現存している。
町内には女人堂まで二里の地点である河根千石橋北詰めにこの二里道標石が残されている。 この大型の二里道標石は多くの人が京大坂 街道を利用し河根を通ったことを示しており、 郷土の歴史を物語る重要な文化財である。
九度山町教育委員会

九度山町は、歴史観光に相当力を入れています。

東高野街道
東高野街道は、京都や大阪から高 野山へと向かうメインルートでした。 大阪府から紀伊見峠を越え、橋本市 東家にて紀の川を渡り、 清水、 学文路 から九度山町河根、高野町西郷、神谷 を経て高野山へと続いています。
千石橋 橋を渡り右へ坂を上ります。

車が行けますからいけると思います。



苔の上を走るとやはりスリップしました。

先程の車が止まっています。通れるか見に行きました。落ち葉でスリップして登れないと・・・?スリップ痕はありませんが、バック(タイヤの溝が路面にはっきりついています。)で運転を誤り左の溝?(写真の通りの傾斜面)に左前後輪が入っています。

左側は土手で擦っています。私でしたらすでにこすっていますので前進しますが・・・あの運転では・・・。JAFに場所(高野六地蔵第五を目印に伝え救援に来ることに)を教えてUターン。サイドミラーが当たって通り抜けが出来ません。
第五、六は行きましたので気を付けて下ります。

可根峠~フルーツライン

可根峠を登って第四へ。写真がありません。いつか機会があれば再度。

お大師様の・・・がここにも。

大師の硯水(一部未校正)
昔、この地を通りかかった弘法大師が硯の水を求めたところ 村人は遠い谷まで汲み に行った。
大師はその不便さを 察し、地面に杖を突き 刺したところ、清水が 湧きだしたという。
それが、この硯水の 言い伝え である。
高野山六地蔵第三





九度山町指定文化財 旧高野京街道六地蔵尊(第三)
江戸時代に、高野京街道を行き交う 参拝者の安全を祈って作られたのが 六地蔵尊で、今も子安地蔵として信仰されている。
この地蔵尊の他に清水(第一) 南馬場(第二)、河根峠(第四) 作水(第五)・桜茶屋(第六)にも祀られている。
河根峠の六地蔵尊、河根千石橋の 二里道標石と共に九度山の歴史を知るうえで、貴重な遺産である。
平成元年二月十六日指定
九度山町教育委員会
フルーツラインに出ました。

フルーツラインにから高野線と九度山町

快晴で空気が澄んで遠くまでよく見えます。

体力がないのでなかなか風邪が治ってくれません。
お風呂に入らないので皮膚が炎症を起こしてきました。抗がん剤の副作用。
お風呂に入ってすぐ寝て湯冷めをしないようにします。

終わり


2-1 高野山六地蔵(第1~2)

2023年11月19日 10時44分56秒 | ドライブ

11月16日 木曜日 快晴
京大坂道に高野山六地蔵第1~6まであるのでやはり行かなければと走りました。
(2-1)7:50発k13~R370・九度山町~京大坂道・学文路~かむろ地蔵~高野山六地蔵第二~第一~三軒茶屋大常夜燈~五條市・柿博物館~(2-2)R371~道~k102~丹生神社~玉川峡~旧可根宿本陣中屋旅館~二里道標石~第五の手前の急な坂で車が溝に落ち通行不可。~引き返し~第四~フルーツライン~13:50帰宅。
走行:141㎞。
(Google参照)学文路三叉~柿博物館

快晴 気温7度 着込むこんでいますので寒くありません。

学文路三叉道標石 左に入り高野山六地蔵第一に向かいます。

北紀高野 曼陀羅宣言記念碑

見返し 正面の道を登ると学文路刈萱堂

この石柱が道標石 手前の石柱には、南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)南無=帰依する。釈迦牟尼仏=お釈迦さま。
右 慈尊院みち 是より里、左 高野みち 女人堂迄 三里。と他の文献に有りました。

古い家が続きます。Xに100均で買ってもらった時計を落としたので接着剤で固定をしました。Xには言えません。

再びR370に出て横断。

大きな石碑 大畑才蔵生誕地学文路

説明板

紀の川流域の新田開発に貢献した大畑才蔵(未校正)
江戸時代、ここ橋本市学文路は高野山の宿場町として賑わって いました。
この地に生を受けた才蔵は少年時代から算術に興味を 持ち、のちに土木技術者として多くの業績を残しています。
才蔵の業績のなかでも、ひときわ大きいものが「小田井用水路」です。
当時の紀の川の北側地域は、 「月夜でも乾く」 と言われたほど水不足に悩んていました。
このため、紀州藩第5代藩主となった徳川吉宗公は、 紀の川の水を利用した大規模なかんがい用水路を作ることによって周辺の水不足を解消し、米の生産高を増やそうと考えました。
その土木事業の陣頭指揮に抜擢されたのが大畑才蔵です。
この石碑は、才蔵の偉業を末永く顕彰するとともに、地域の 活性化を図り、文化と歴史の里たる認識を定着させることを目的に建立されました。

かむろ地蔵 予定にありませんでしたがちょっとだけ寄りました。

説明文を現場で読んでいませんのでお地蔵様の写真がありません。

かむろ地蔵
弘法大師が高野山を開かれた時代のがもろ」は、 梅の名所として名高く「香室」(かむろ)と書きました。
この香室の里に、自らを物狂道士と称する高徳の士が隠棲しておりました。
この方が謡曲高 野物狂」の主人公高師四郎で、その善行美徳は遠 くまで感化を及ぼしていました。
殊に学問の道の教導に力を尽くされたために、 この地方では字の読めない者が一人も居なかっ という事で、当時としては誠に珍らしいこと でした。
こうしたことから「香室」を「学文路」と書く ようになったのです。
弘法大師も深く道士をめでて居られましたの で、道士がこの地で大往生を遂げられた時、そ の死を憐れみ拾い菩提の為読経されたのです。
 その時、弘法大師が腰かけられた石がこの垣内 正面に安置せる石で、その後これをお大師さんの 腰かけ」と呼んであがめ祀るようになり、 更に後世、お地蔵さん三基が次々と寄進され、 或いは垣内の改修なども行われ現在のかむろ地 蔵となりました。
このためこの地蔵尊は、子供達の守護のお地 蔵さんであるとともに、特に学問のお地蔵さん として信仰されています。
とりあえずの写真。

高野街道三里道標石 ブロックに隠れて見落とすところでした。
正面から来ました。

石柱の文字が読めました。

こちらは、かむろ大師



本殿

雨が降って衣を乾かしたとかいろいろお大師様は大変です。

高野六地蔵第二





橋本市指定文化財 (第30号)
高野街道 六地蔵第二
昭和56年8月28日指定
ここ橋本市南馬場の地蔵堂は 『紀伊続風土記』に「境内周二十二間丁田(ちょうだ)にあり、六地蔵の第二なり」 とみえ、紀 の川から南の高野街道に6か所の 「高野街道六地蔵」 が あり、当地はその第2番目であったことが記されている。
 これは、江戸時代の後半に高野参詣の旅人の安全を祈念して置かれたものといわれ、清水を第一とし、当地が第二、 第三と第四が伊都郡九度山町河根の繁野と河根峠に、第五と第六が伊都郡高野町西郷の作水と桜茶屋と伝えられている。
それぞれが当時どのような規模で、どのような地蔵が 安置されていたか明らかでないが、 旅人が一つ一つ手を合わせながら旅の安全を願い、また、その度に近づく高野山 に思いを馳せたことが想像される。
こうした信仰の道に残 された跡は、かつての高野山信仰を今日に伝える文化遺産 であり、高野山への登山口として発展してきた橋本市においても、高野信仰と参詣道の関わりを示す貴重な文化遺産の一つである。
なお、平成26年11月、国道370号の拡幅により、約 7m 西北西へ移設された。
橋本市教育委員会 南馬場区

紀の川沿い

社皇王神社((Googleでは社皇神社)



右側のお宅も貫禄のある塀と門。

由緒書き 社皇王神社

社皇王神社
御由緒
大同二年(西暦八0七年)
平城天皇御代奉奉勧浮納済
神祭神
伊弉諾尊
伊弉冉尊
天照大神
熊野夫須毘命
尾船豊受姫神尾船天夫化智神
手置帆負命 (たおきほおいのみこと) 彦狭知神
熊野夫須昆布は熊野忍踏命と同神にして神代記上に依る天照大神素戔嗚尊の御誓約に依って他生し給える古神也
見返し

本殿。鎌不動は弘法大師が鎌で作ったという不動尊がまつられている。





力強い根っこ。

立派な石碑



くぎにの郷 地域の集会所。

高野六地蔵第一 西行庵

橋本市指定文化財(第29号)(未校正)
高野街道
六地藏第1
ここ橋本市清水の地蔵堂は「紀伊続風土記』に「村の東端にあう高野 山街道六地蔵第一といふ」 とみえ、当地から高野山までの6か所に地蔵があって、「高野街道六地蔵」 と呼ばれていたことが知れる。
これば 江戸時代の後半頃に高野参詣の旅人の安全を祈念して置かれたものとい われ、当地を第一とし、 第二が橋本市南馬場、 第三と第四が伊都郡九度 山町河根の繁野と河根峠に、第五と第六が伊都郡高野町西郷の作水と 茶屋と伝えられている
それぞれが当時どのような規模で、 どのような地蔵 が安置されていたか明らかでないが、 旅人が一つ一つ 手を合わせながら旅の安全を願い、 また、 その度に近 づく高野山に思いを馳せたことが想像される。
こうした信仰の道に残された跡は、かつての高野山信仰を今 日に伝える文化遺産であり、 高野山への登山口として 発展してきた橋本市においても高野信仰と参詣道の関 わりを示す貴重な文化遺産の一つである。
また、当地は平安末期の歌人西行が一時止住したと 伝えられ西行像とされる像が堂内に残されており 西行ゆかりの地として 「西行庵」とも呼ばれている。
平成18年2月
橋本市教育委員会 清水区



改築前もこの様な造りの様です。

平成25年1月に再建。

西行庵再建(寄進された方の厚い信仰心へ)
寄進者
那賀郡粉河町 井提高枝
橋本市清水  豊澤トクエ
橋本市清水  厚母文子
平成二十五年一月吉 祥日

旧高野街道六地蔵尊第一

こちらが高野街道六地蔵第一! 立札があります。

高野街道 三軒茶屋 大常夜燈籠





橋本市指定文化財 (第25号)(一部未校正)
旧高野街道 三軒茶屋大常夜燈籠
昭和56年8月28日指定 高野街道は京都(東高野街道)・大阪(平野区・中高野街道、天王寺区・下高野街道)・堺(西高野街道)から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して谷内 川 (橋本川) 河口付近から紀の川を渡って当地に至り、 学文路から高野山へ 登っていく道がひらかれた。
 この道は町石道に比べ距離も短くなったことか室町時代後期には高野参詣はもっぱらこの道が用いられるようになった。
天正15年(1587) 応其上人は紀の川に橋本の地名の由来となる長さ130間(130×約1.818=236.364m)の橋を架けたが、紀の川増水により3年後に流失し、橋に代わって舟によ る横渡が行われるようになった。
この紀の川南岸渡場に建つのがこの大常夜燈籠で、後に北岸にも同様のものが建ち、この間で長く 「無銭渡」が行われた。 元は石燈籠2基が相対して建てられていた が、近年の周辺土地区画整理に伴う道路拡幅のため東側の1基が北へ約5メートル移 された。
この石燈籠には宝暦2年(1752) の建立銘とともに「高野山興山寺領」の銘 が刻まれ、紀の川を渡って高野山領に踏み入れた旅人たちの感慨が偲ばれる。
江戸時代の東橋本と紀の川渡 (『紀伊国名所図会』から)
平成14年3月
橋本市教育委員会
賢  堂  区
「北岸にも同様のものが建ち」とありますので行かねばなりません。
「高野山興山寺領」の銘

橋本橋方向

見返し

Xから柿を買ってくるように13㎞先の五條の柿の博物館へ。

10月26日に正岡子規が「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠まれたので「柿の日」

富有柿4個100円 一家族人パック。5パックしか残っていませんでした。

湯冷めをして風邪を引き現在寝込んでいます。
3日目。文章などの点検がいつもより不十分と思います。
柿を食ったら治る!!!

終わり


有りました。京大坂道(不動坂)極楽橋(南海高野線ケーブル)~女人堂

2023年11月16日 09時13分22秒 | ドライブ

2017年1月3日 火曜日 曇 曇 雪なし
有りました。
アドレス125㏄で行っています。アドレスは翌2018年3月に売却しました。
(Google参照)新極楽橋~極楽橋~清不動堂~女人堂(道として認識されずコース表示なし。)
撮影:2017年1月3日 アドレス125㏄。裏道になる高野森林鉄道跡を走って来ました。まっすぐ行くとさらに林道。橋を渡り極楽橋・不動坂へ。

撮影:2023年7月30日(3枚) ソフテイル。新しく改修されています。

撮影:同上。極楽橋 

撮影:同上。ソフテイルですので車止めで行けません。アドレスはすり抜けられました。

再びここから撮影:2017年1月3日 不動坂 雪はありません。

清不動堂(きよめのふどうどう) 正面奥の山道が京大坂道。

お堂横にある京大坂道。

ここで引き返し。

見返し。

ケーブルの高野山駅からの南海バス専用道に出て来ました。ケーブルが未完成の方が正解。

見返し。

ここから一般車両も入れます。

女人堂の先は高野山金剛峰寺で女人禁制でした。女人禁制が解ける1872年まで高野七口すべてにあった女人堂は不動口のみ。人通りが少なくいい雰囲気です。

この後、高野六地蔵第1,2,3,4を巡って京大坂道は終了にします。
抗がん剤の方は、まだ顔の腫れ、冷たい物に過敏症になっていませんので予防に心がけています。

終わり


京大坂道(橋本市学文路~九度山町可根・丹生川)

2023年11月15日 00時17分26秒 | ドライブ

11月12日 日曜日 曇雨
京大坂道を途中までしか走っていないので残りを走りに行きました。
9:00発~k13~道の駅 柿の郷くどやま(大収穫祭)~学文路・京大坂道~(フルーツライン横断)~九度山町可根・丹生神社~12:40帰宅。
走行:90㎞。
学文路~京大坂道~九度山町可根・丹生神社。
柿は終わりに。

みかんの出番!

10:09 道の駅柿の郷くどやま 周囲の臨時駐車場は満車! 大収穫祭!

会場裏の道から。特設ステージで催し。大盛況!柿の皮むき大会もあり。私は見るだけで通過。

以前は、刈萱堂巡りできましたが、今回は京大坂道で走ります。右の道とすぐ合流します。

学文路の刈萱堂。記念撮影だけ。

案内板 人魚のミイラがあるそうです。

橋本市指定文化財(第59号)(未校正)
莉萱道心・石童丸関係信仰資料
平成元年3月22日指定
石童丸(苅萱)物語は高野山の女人禁制の掟から生まれた悲劇で、 中世以以降、高野聖の一派である萱堂聖によって全国に広められ、江戸時代には、説経節や浄瑠璃、琵琶歌となって広く世に知られた。
高野山の参詣口に位置する学文路の地は、この物語の舞台として、また、高野参詣の人々への物語の自律の場として賑わった。こうして庶民信仰化していった結果、苅萱道心、石童丸、千里ノ前、玉屋主人の像が造られて、堂内に安置されるようになった。
また、参詣人には、苅萱物語を素材としたお札が配られ、これに因んだ絵馬 などが奉納された。
さらに、 学文路苅萱堂では、絵解きが行われたとみられ、 石童丸の守刀、人魚、夜光の玉、 銘竹など、この信仰にかかわった品々が今に残されている。
苅萱の旧跡は、高野山や善光寺にも残るが、 学文路の地は、 高野参詣口にあたること、物語の舞台 となったことから、こうした資料がこの地に残され、信仰されてきたのであろう。
いずれにしても、苅萱の信仰が 残したこれらの資料は、高野山とのかかわりの中で、当地域の歩んできた歴史を物語る貴重な資料ということができる。
平成16年3月
橋本市教育委員会
学  文  路  区
学文路苅萱堂保存会

合流しました。高野街道の埋め込み。

合流地点から紀の川を望む。

案内板:高野参詣道、京大坂道。細い道へ。

蔵のある立派な屋敷。

上り坂が続きます。

切通しを走るフルーツラインの上に出て来ました。向こうはk118で京大坂道と並行に走っています。

山を削られ陸橋になった京大坂道。



案内板方向へ。

石柱 ここから道を間違えます。左が正解。

フルーツライン、紀の川、橋本市街地が見えます。

女人堂迄九拾町(109m×90=9810m=9.81㎞)

九度山町 k118?と思いながら進みます。

トンメルがありますが先の道路は未完成となっています。行ってみます。

通行止めですが片側が開いていますので行きます。

トンネルを出るとすぐ通行止め。ほこりや土だまりのない車が止まっています。

見返し。「ゆめみるとんねる」夢を見ている豚(豚(トン)ネル)さん?早く目を開けて! 反対方向は中央線のある道でフルーツラインに通じています。

トンネルから戻っての周囲。柿の葉が赤くなって間もなく落ち葉に。

赤いボックスに案内表示。左が京大坂道。行き過ぎるところでした。直進すると丹生神社下に出てk102に至り京大坂道と合流します。

新しくコンクリート舗装された狭い道。軽ならなんとか行けそう。

案内板。左に登ると来た道(京大坂道)に合流。下ります。今来た道は、後から間違っていることが判りました。

大丈夫?恐る恐る足をついて曲がります。VOXですからこけても何とかなるでしょう。

へピンの下り坂!

フルブレーキ!スクーターですのでエンジンブレーキが出来ません。

下るとまたまたヘアピン下り。もう慣れました。驚きません。

長い急な下り。人家が見えましたのでこれが最後。

あそこまで。

空き地でひと休憩。お寺があります。寄ります。

名刺 日輪寺(未校正)
創立は定かでないが由緒ある寺院である。
日輪寺所蔵の古文書によると、元和のころ (一六一五~一六二三年)仁和寺の宮、高野登山 の節ご休憩所に仰せ出された故をもって元禄 九年(一六九六年) 仁和寺より大智山遍照院の山号院号の許しを得たとある。
本尊は大日如来を安置してある。

丹生神社
社伝によると空海上人のすすめで創建し氏神としてうやもうてきたとある。
・永正十四年(一五一七年)改築からの棟札が残されてい祭神は丹生都比売命(伊勢神宮に祀られる天照大御神の妹神様)、高野御子(たかのみこ)(丹生都比売大神の御子)である。
宝物として石造狛犬一対は和歌山県文化財に 指定されている。
入口。

見返し。山車の車庫。こんな地域にも山車があります。

丹生神社。狛犬の表情が独特です。鳥居の後ろにも?潔癖の守り。

大正元年まで読めました。後ろの狛犬のほうが貫禄があります。こちらは県指定の文化財?

割拝殿。亀の甲羅があります。しめ縄に鈴。

割拝殿からの見返し。こじんまりとした境内。

本殿近くに行けそう。

本殿

本殿からの見返し

本殿。

格子の中に狛犬が見えます。

木彫です。左側の狛犬

木彫です。右側の狛犬

本殿右側から。二社の名称は判りません。

本殿左から。渡り廊下があります。奇麗に掃除がされています。南天が赤くなっています。

境内から日輪寺、丹生神社。

山号は大智山、院号は遍照院

(Google参照)九度山町可根・丹生神社~k118~R370・赤瀬橋

丹生神社境内から南の方向を見下ろす。道を真っすぐに下れば京大坂道で丹生川に架かる千石橋に出て、さらに道成りに行くと日本最後の仇討ちの道へと続きます。

真っすぐに行かずk102で左折しました。すぐ丹生川に出た所。

橋からR371に通じるk102方向。まだ色づいていません。

橋を渡って右に。左は行き止まり。

どんどん山を登ります。引き返して丹生川方向への脇道に下ります。このまま行くと本年9月4日にトロッコ道を走りにいた極楽橋近くに出ます。

撮影:2023年9月4日 ここに出て来ます。左は貯木場。

撮影上記同日。高野森林鉄道(トロッコ道)に出ます。

橋を渡ってUターンしただけで赤い橋の三差路に出ました。京大坂道を直進すると丹生神社に戻ります。

丹生川

左側から来ました。

今日は雨が降りそうなのでここまでで帰ります。帰って昔の写真を調べると以下の2枚の写真がありました。

撮影:2021年4月19日 高野山から降りてきたところ。直進すると千石橋ですが、案内板は左折。左折しました。直進は急な下り坂です。

撮影:2021年4月19日 空き地に作水・高野街道六地蔵第五があります。

高野街道六地蔵第三、四を通っていないので道を間違えたようです。あの急な下り坂の所を下らないで上がる道からが京大坂道でした。
極楽橋からの不動坂はアドレスで走って女人堂に出ました。6年位前です。
機会があれば行きます。
12時40分に帰宅して13時30分時ごろから降りだしました。
今日も楽しいツーリングでした。
一気に寒くなったので遠出はできなくなります。
生きてるだけで丸儲け!感謝!感謝!

終わり

 

 


2-2 丹生川上神社上社に行きました。

2023年11月13日 09時48分12秒 | ドライブ

続き・・・
11月8日 水曜日 快晴
丹生川上神社上社を行けば、丹生川上神社の三社巡りは終わりです。
吉野山周りであちこちで止まりますので今回も、VOXで行きます。
(2-1)8:10発~k13~紀の川南道路川沿い道路~k39~k37・如意輪寺~奥の千本~(2-2)吉野大峯林道~丹生川上神社上社・道の駅 杉の湯川上~吉野川遊歩道・昼食~k39・吉野葛購入~太子町~~R26~17:10帰宅。
走行:221㎞。
コース:吉野から丹生川上神社上社

金峯神社下の林道(吉野大峯林道)・大峯奥駆道 がけ崩れ。軽なら十分通れます。10月に解除。

左:川上村 貫禄のある木柱標識。

直進 走り易いです。

交差の案内表示 川上・天川方向へ

開けた所に出ました。ススキが一杯。

山々が連なっています。快晴。

落ち葉と落石で凹んだガードレール。道路も凹んでいます。落ち葉のない所を走ります。

小休止。

飲料用でしょうか赤いドラム缶があります。

反対側

いよいよ川上村へ 林道:高原洞川線

川が近くになってきたので大分下まで下ったようです。大きな岩がゴロゴロ。

高原川の支流。

凹んだで一回、砂利で1回こけそうになりました。ヒヤヒヤです。落ち葉の下が判りません。

右上のカードレールから降りてきました。

第一小屋発見。人里は近いぞ。

出ました。

集落の入り口と思ったら出口です。

地区の案内板 下がR169方向。丹生川上神社上社に行きます。間違いなく集落の出口です。

高原の歴史(文字お起こし未校正)
高原は、約900年前(永年間(1046~1053))までは、吉野の奥の院“ 高天が原“といわれていた地です。
三方を大峯山系の山々に囲まれている高原には、?室の神社、陵墓仏閣、遺跡、遺品など歴史を?るものがに満ちています。
我等の祖先は、身を挺して?枝の守護にに当たり、その昔、?人が大の 発?されると里人は苦難を共にして?への力添えを 惜しみませんでした。
他にも行事や習慣など、里人の歴史を記す古文も多く残っています。
この地には、幾千年にわたる永い歴史が秘められており、今もなお里人の心の中に生き続けています。
高原地区からは道も良く丹生川上神社上社に到着。立派です。

坂を上り境内横の駐車場へ。

寺務所横の駐車場

駐車場から境内方向 拝殿。

手水舎から本殿、拝殿方向。水の神様龍神の手水。

狛馬?

奉納された絵馬?銅像馬。紙垂がまかれて神聖な馬です。左前脚を挙げてあっちを向いています。

こっちを向いて入ってくる邪気をにらんで本殿を守っています。

上げた右前脚にお賽銭!どこなとお賽銭。反対側の狛馬の左足にはお賽銭がありませんでした。

拝殿から見返し 落ち葉をきれいに掃除されています。

拝殿 ここも自祓大麻(おおぬさ)(紙垂棒)があります。左・右・左でお祓い。

拝殿、階段、本殿。富士山と龍の絵。

拝殿左手側に山之神社など4社。社=神社より規模が小さい。

正面の入り口から

3社一棟と1社1棟。

横からの本拝殿。

広角ならではの一枚。

山之神社

VOXで上まで上がりましたので順序が逆になりましたが、神社の入り口に行きます。

大鳥居の前の社、祠?。山之神、大国神(社は付いていませんでした。)

丹生川上神社三社に「日本遺産(Japan Heritage)」の案内板がありました。
日本遺産(Japan Heritage)」は地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するものです。ということでした。
(文字お起こし未校正)
高麗大神(たかおかみのおおかみ)は水と雨を掌られる龍神様です。
その昔、旱魃かんばつ)の際の祈雨には黒毛の馬を、長雨の際の止雨には白毛の馬が奉納されました。
これが絵馬の発祥となったといわれています。
生きとし生けるもの、すべて水無くしては生命を保持することはできません。
 「農耕」 を以って国家の基礎としてきたわが国と、 「林業」を育んできた吉野地方においては、雨を掌られる大神様に対する崇敬の念がきわめて篤く、 古来より今日に至るま で変わることなく続いています。

扁額:「高大神(たかおかみのおおかみ)」。御祭神は、龍神(龗)にて水、雨を掌られる大神様(写真の文字入れに難しい字は表記されませんでした。)
道の駅 杉の湯川上に行く途中、銀色の龍神のモニュメントが見えましたが、道にネットが張られて通行止めで行けませんでした。

近くの遊歩道から

道の駅 杉の湯川上 立ち寄っただけです。平日で静かです。

道の駅裏の遊歩道で昼食。

食後のデザート付きです。家でも毎食後にデザートがあります。今日はブドウ入りの食パンに昨日の豚入りニラ炒め。味覚が少し戻って味が判ります。

吉野川沿いの山。快晴!

前回ここを通り気になっていた吉野葛のお店に寄りました。広い所に駐車。

歴史のある家並み。

正面 こじんまりとしていますが歴史と重みのある店構え。

気さくな奥さんで素人の私に親切に教えて下さいました。熱湯でだまにならないように、溶けない時はレンジでしっかりと温めて下さいと。やけどに注意も!
吉野葛:1個150円。箱代別途。本当に熱湯更にレンジて温め、トロっとなると美味しい~!お麩が入っていました。

少し渋滞していると思ったら、人身事故です。救急車が2台走っていました。歩道上の実況見分。安全運転、歩行者優先!

VOXでの山道の登り、幹線道路は馬力がないので流れに乗れませんが楽しいツーリングでした。
階段の上り下り、境内の散策と歩きましたので少しは体力が付いたと思います。
生きてるだけで丸儲け! 感謝!感謝!

終わり