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小住健蔵さん拉致事件の真相

2005-08-03 | 記録
■小住健蔵さん拉致事件の真相(救う会ニュースより)

 下記は、平成17年7月24日、函館市で開催された「小住健蔵さんの拉致認定と未帰還者救出のための経済制裁を求める函館集会」の中で、西岡力・救う会常任副会長が講演した内容を文書にまとめたものである。

 家族会、救う会は1997年から活動していますが、私は1991年に拉致について論文を書いた。その中で、小住健蔵さんは拉致されたと書いている。昨日、五稜郭交差点付近で署名活動を行ったが、東京で行なうより反応がよかった。しかし、函館市民の方は、小住健蔵さんの名前をあまり知っておられない。色々な事情から、小住健蔵さんの家族、函館在住の一番下の妹さんがマスコミの前で今日初めて挨拶された。家族会に入っている家の被害者は知られており、関心が高まるが、家族が出てこれない人たちは知られない。すると拉致認定されないということになる。家族会・救う会の最初の署名用紙に拉致被害者の名前を書いた。
そこに小住健蔵さんと書いてある。なぜ拉致と言えるのか、まずみなさんに知っていただきたい。

 小住健蔵さんは、1933年、昭和8年11月に樺太で生まれている。樺太で中学校を終えて、1948年、昭和23年に引揚船で函館に帰ってきた。お父さんが土木技師をしていたため、ソ連軍が占領した後も、土木技師として働けと命令されたため3年間引揚が遅れた。小中学校が樺太だったので、残念ながら同級生が地元にあまりいないのではないか。定時制の工業高校に入ったが、体の具合が悪く中退している。お母さんが1960年、昭和35年に亡くなり、そのお葬式の時の写真がこれで、お父さんと母方のお祖母さんと小住健蔵さんが写っている。お母さんが亡くなった翌年、1961年、昭和36年小雪降る3月、青函連絡船に乗って東京に就職された。妹さんは見送りに行ったのを覚えているという。

 時間が経ち、1985年、昭和60年に新聞で大きな事件が報道された。多分この中で覚えていらっしゃる方がおられるかもしれない。北朝鮮の大物工作員が日本に侵入し日本人になりすましていたということを警視庁が明らかにして、その大物工作員を指名手配したという記事だ。小住さんが函館を出てから24年後のこと。その大物工作員は小住健蔵を名乗っていた。小住健蔵の名前で自動車の運転免許とパスポートを正式に取って、日本人の女性をだまして同棲し、日本人となってスパイ活動をしていた。そのことを警視庁がつかまえ、昭和60年3月1日、小住健蔵こと朴某という名前で国際指名手配した。そこで消息の途切れていた小住さんの名前が出てきた。

 実は、就職後、小住さんの3女である妹さんー本日挨拶された妹さんは4女でそのすぐ上の姉妹にあたりますーが手紙を出したりしていたが、返事がこなくて、お父さんはおかしいと思い警察に相談に行っていたという。しかし、20を過ぎた男が東京に仕事に行って連絡してこないのはよくあることだということであまり相手にされず消息がずっと不明だった。

 では、いつ北朝鮮に拉致されたのか、まだよく分からない。東京に行った後の消息が分からない。すぐではないと思われる。なぜなら小住さんになりすました朴は1970年に日本に上陸しているから、1961年から1970年の間ではないことは間違いない。この間の小住さんのことを知っている人が出てこない。
今日、家族会、救う会、そして拉致議連の先生方にも来ていただいた一つの理由は、小住さんのことを知っている人、出てきてくださいと訴えたいということだ。

 最初は家具屋さんに勤めたそうだ。多分その後転職していたらしい。しかし、アパートの隣に住んでいた人がいる筈だ。小住健蔵という名前を覚えている大家さんはいないだろうか。働いていた職場の人はいないか、ということを訴えたい。

 例えば、ここにいる飯塚耕一郎さんは、北朝鮮に拉致された田口八重子さんの息子さんだが、お母さんと一緒の写真がなかった。1歳の時、お母さんが拉致された。耕一郎さんたちが名乗りをあげたら、拉致直前まで隣に住んでいた人が、あの人だ、私が写真を撮っていたと言って写真を一枚持ってきてくれた。その1枚だけがお母さんと一緒に写っている写真だ。それと同じことができないかということだ。

 小住さん消息不明になった後、北朝鮮の大物工作員朴が、1970年夏に秋田県の男鹿半島に上陸する。これは日本の警察の調べだ。上陸してまず工作員は何をするか。外国人登録の偽造ではすぐばれてしまうので、日本で合法的な身分を取ろうとする。そのためには協力者が必要だ。大阪の在日朝鮮人金錫斗に会い、「私は、北朝鮮に住んでいる貴方の両親や兄弟をよく知っている。私の言うことを聞いた方が良い……」と脅した。そして金という人を部下にした。そして2年後、72年7月に東京の山谷の路上で倒れていた小熊和也さん、当時34歳を入院させて色々話を聞いた。彼は福島出身だった。朴は、両親のところに会いにいってあげると、金と一緒に行って、「私は東京で船会社を経営している。小熊さんにも働いてもらっている。小熊さんの戸籍が福島にあると何かと不便なので東京に移してもらいたい」と親をだまし、戸籍を東京に移した。小熊さんは結核で入
院中だった。そして、小熊さんの名前で運転免許証を取り、パスポートをとった。
小熊さんになりすましたのだ。72年のことだ。

 2年後の74年、金は朴から次のように言われた。これは後で金が警察に話したことだ。「朴は昭和49年12月、『本物が日本にいると何時、戸籍の横取りが発覚するかわからない。危険だから小熊を北朝鮮に送ってしまえ!』と私に命じた。しかし小熊さんは、昭和51年、7月に病死したため北朝鮮への連行は出来なかった。」72年に小熊さんになりすまし、74年に拉致しようとしたけれども、ずっと病気だった。拉致するには海岸まで連れていけなければならないが、寝ている人を連れていくわけにはいかない。そして小熊さんが76年に亡くなってしまった。それで小熊さんとしての活動が終わる。この間、3回海外に行っている。さらにある日本の女性をだまして同棲しその女性と子どもたちを連れ、日本人の親子になりすまして国内各地を旅行している。特に北朝鮮工作員の上陸地点に行き、テントを張って写真をとったりしている。家族写真を装い風景を撮っていた。また、在日韓国人に接近し、韓国に親戚はいないかと聞き、韓国内にスパイを作ろうとしたり、国内で自衛隊や米軍の情報を取る活動を小熊和也としてやっていた。

 74年、金に拉致を命じたのは12月だが、金は同年5月から11月まで日本を秘密に出国し、北朝鮮で工作員の訓練を受けた。訓練を受けていたから「お前拉致しろ」と命令することができた。金を石川県に連れて行き、鳳至郡能都町字小浦の通称羽根海岸、久米さんが拉致された宇出津(うしづ)のすぐ近くの海岸まで連れていった。金は迎えにきていた工作員とそこからゴムボートに乗り、沖にいる工作船に乗り換えて清津の連絡所に行った。めぐみさんや曽我さんが連れていかれたところだ。そこで徹底的にスパイになる訓練を受けた。その時朴は小熊さんのパスポートで堂々と羽田空港から出国しソ連に行き、ソ連から北朝鮮に帰っている。そして、金は朴から「おまえは受講態度が悪い。推薦者である俺の体面を汚すな」」と言われたと、警察に供述している。

 日本のパスポートを持っていると、スパイなのに堂々と色々なところに行ける。
ところが小熊さんが亡くなってしまったのでそれができなくなり、次を探していて、小住健蔵さんを拉致してなりかわった。ただし、小住さん拉致に金は関係していないようだ。あるいは知っているがいまだに黙っているのかもしれない。金は小住さんについて証言をしていない。従って、小熊さんが死んだ76年の後、朴が小住さんとどこでどう会ったのか分からない。しかし、80年、昭和55年4月に、小住さんの戸籍が函館から東京に移されている。つまり、1961年、昭和36年に函館から出て行って音信不通となっていた人の戸籍が、昭和55年に移されていたということだ。それがあることから小住さんの兄弟が気づかれて、小住さんの自宅とされている所に電話をかけたら朴が出て、というか声だけだから朴か別の人間かどうか分からないが、「小住さんは今、麻雀に行っていない」等色々おかしなことを言って嘘をついた。

 警察の資料によると、小住さんの名前で「心配しないでくれ」という手紙が誰か身内のところに来たという。しかし、先ほど妹さんに聞いたら「それは分からない」とのことだった。とにかく、騒ぎにならないように家族を抑えて、朴は4月18日に足立区内の自動車教習所に入学する。2度目の入学だ。小熊さんとして免許を取っているのだから。今度は、小住さんの名前で6月に2つ目の偽者の自動車運転免許を取り、6月16日に小住さんの名前のパスポートを取った。

 そして、小住さんとして1982年、信栄エンタープライズという会社を作った。装飾時計や額縁などを販売する資本金500万円の会社だ。この500万円は同棲していた女性をだまして作ったものだ。自分の部下金にこの会社をやらせて、上がりは北朝鮮に献金したり工作資金にして、小住さんの名前でマレーシア、タイ、香港、ドイツ、そして韓国にも入っている。日本人になりすましたから北朝鮮のスパイが堂々と韓国に入れるわけだ。この朴という男は、戦前、愛知県の小松基地近くに住んでいた在日朝鮮人出身だ。関西弁がぺらぺらで、お正月になると和服を着て初詣に行っていた。日本人になりすませるのだ。

 70年代まではそういうのがいっぱいいた。この頃はなりすますための拉致が多かった。その後、日本生まれの人たちがいなくなり、若い人で、金賢姫みたいに、日本人になりすます人が必要になり、今度は田口さんのように、日本人になりすます教育の先生を拉致した。それが70年代後半ころからだ。

 小熊さんに、発覚すると困るので連れていってしまえという命令が出ていて、小住さんの時に出ていないということはありえない。さらに、同じ時期になりすましの拉致があった。これは日本政府が認定している拉致だ。大阪の中華料理屋のコックさんだった原敕晁さん。この方も家族と連絡を絶っていた。北朝鮮はそういう人を選ぶ。運転免許もパスポートもまだとったことがない人を探す。原さんの場合は、ラーメン屋の店主が在日朝鮮人で朝鮮総連傘下の在日朝鮮商工会幹部だった。辛光洙という工作員が宮崎から入ってきて大阪の在日朝鮮人に「お前は家族が帰国しているだろう」と言って、脅迫し、部下にして、「俺と年恰好が似ている人間を探せ」と命じられた。「まだ運転免許もパスポートもとっていないのはいないか」と。「いや、うちのコックで原というのがいます」ということで、原さんに、「コックなんかやめて貿易会社に就職しなさい。社長を紹介してやる」とだまして宮崎の海岸に連れて行き、拉致した。

 原さん拉致は北朝鮮も認めている。そして辛光洙は原さんになりかわって運転免許とパスポートを取った。そして韓国に入った。そこで韓国のKCIAが、スパイと分かり逮捕した。辛のパスポートを調べてみたら、金賢姫が持っていたような偽造ではなく日本政府が発行した本物だった。しかし、写真は原さんのものではなく、辛のもので、筆跡も辛のものだった。原さんの拉致が起きるのは80年6月だ。小住さんの本籍が移されるのが80年4月だ。時期が一致している。
同じ時期になりすましの作戦が2つ行なわれていた。他方が拉致でないと言えるか。辛は、韓国で逮捕された後、自供している。「金正日と直接会った」と。そしてこういう命令を受けた。「身寄りのない日本人を拉致して入北させ、その日本人の身元を完全に把握し、その日本人に成り代わって、日本で合法的に対南工作任務を継続せよ」と。これは金正日の命令だと辛が韓国の取調べ官に言ったことだ。同じ命令を朴も受けているわけだ。

 拉致のやり方は1976年前後で変わっている。76年から組織的になる。金正日が76年に拉致指令を出した。その後、大々的に拉致が行われた。日本政府が認定している国内からの拉致は、77年、78年、80年だ。78年は、蓮池夫妻、地村夫妻、市川さんと増元さん、曽我さんと曽我さんのお母さん、田口八重子さんと集中している。曽我さんと増元さんは同じ日だ。佐渡と鹿児島でやっている。他方で、日本に侵入している工作員に成り代われと言っている。

 見てきたような話をしたが、なぜこんな話ができるのか。実はこういうパンフレットがある。「見破られた北朝鮮工作員-日本人になりすました大物スパイ」というものだ。これは、家族会や救う会や拉致議連が出したものではない。警察庁が1985年、昭和60年に出したものだ。つまり、大物スパイが小住さんになりすましていると指名手配した年に、パンフレットを出した。これは大変な業績だ。家族会や救う会がない時に、誰も宣伝してくれないから自分たちでやったのだと言った。残念なことに小住健蔵さんの妹さんはこのパンフレットを今日、私から初めて見せられたという。警察はもう少し親切にしてもよかったかなという気はする。が、ここにはかなり具体的なことが書いてある。パンフレットのこのページにあるのが、朴が小住さんの名前でとった運転免許証、その下がパスポートだ。これを証拠として持っているわけだ。

 今、小住さんはどうしているのだろうか。警察は1985年の段階でどう判断していたかが、書いてある。その部分を読み上げたい。

「ところで本物の小住さんの消息はどうなったのだろうか?

 小住さんは昭和36年までは、東京都板橋区内に住んでいたが、その後は、まったく所在不明となっている。

 前述した経緯(これは石川県宇出津海岸からの三鷹市の久米さんが拉致された宇出津事件のこと・西岡補)から推察すると、北朝鮮に送り出された可能性も否定することはできない…。」

 とある。これが1985年、今から20年前の警察の見解だ。この文の上には袋に入れられて運ばれている絵までついている。20年目に警察がこう言っている。犯人が特定され、指名手配した。証拠は朴の写真をはった小住健蔵名義のパスポートがある。横田めぐみ事件は、北朝鮮がやったということは分かっているが、まだ犯人が分からない。顔も分からない。こちらの方がはっきりしている。
なぜこの時に拉致が大問題にならなかったのか。それは残念なことに、事実が分かっても日本政府が対応しなかったからだ。マスコミも書かなかった。事実だけで世の中を動かせなかった。世の中が動いたのは家族会ができた後だ。

 それから12年後に、1997年に北朝鮮亡命工作員の証言でめぐみさんの拉致が明らかになった後、家族会が出来た。実は多くのご家族が、北朝鮮に人質にとられているから自分たちが表面に出て運動したら、北朝鮮にいる自分たちの肉親の身の上に危険が起きるかもしれないと思い、これは政府がやることだから、事実が明らかになっているのだったら、政府、外務省が一生懸命にやってくれる筈だからと信用してずっと動かずにいた。その結果、政府は何もせず被害者は見捨てられていた。

 小住健三事件が明らかになった1985年に対応していたら、2年後1987年の大韓機爆破事件も防げたかもしれない。テロがわかっていて、テロと戦わなかったから韓国人の115人が殺されたのだ。

 今もちろん、私たちは北朝鮮が、「死んだ」とか「未入国」とか言っている人たちは生きていると、死亡の証拠がない以上、生存を前提にして救出運動を続けている。けれども人間は病気になったりする。85年以降に、小住さんやその他の拉致被害者たちが病気になって死んでいたら、誰の責任かということだ。

 分かっていたのだ。しかし、残念ながら、当事者の家族が家族会を作り名前を出して訴えるまで世論はついてこなかった。それで今日、小住さんの妹さんに無理を言って来ていただいたわけだ。本当は恥ずかしい話だ。家族は静かにして待っていていいんですよ、分かっているんだから助け出します、と政府が秘密に妹さんの家に来て言えばいい話だ。しかし、まだ小住健蔵さんは拉致として認定もされていない。だから、お疲れなのに、鹿児島から熊本から、石川から、そして東京、埼玉、神奈川から家族会の皆さんに来ていただいて小住健蔵という名前をみんなに覚えてもらい、全国で集会をするたびに、小住健蔵の名前を言うことにしたのです。国会の先生方も国会で小住さんのことをぜひ問題にしていただきたい。

 警察には、捜査だからすべてを明らかにすることはできないことはわかるが、パンフレットを出した後いまだに拉致認定すら出来ていないとは情けないではないか。ぜひより一層真摯に取り組んで欲しい。

 家族会・救う会・拉致議連では、日本人を助けるために、小住さんを助けるために何ができるのかの観点から議論を高めていただきたいと思っている。函館の地で、小住健蔵さんを助けようという声を大きく出しましょう。ありがとうございました。

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