赤木容疑者、04年まで「謎の男」…日本人拉致に関与か
「よど号」乗っ取りグループと北朝鮮で活動し、今月5日に帰国した熊本県出身の赤木邦弥容疑者(52)(旅券法違反容疑で逮捕)は、2004年11月の日朝実務協議で、北朝鮮側が本名を明らかにするまで、警察当局ですら身元が全くわからない「謎の男」だった。
「日本で妻や娘と一緒に暮らしたかった」。逮捕後、帰国の理由をそう語ったという赤木容疑者。その足跡をたどると、欧州での日本人拉致を巡るさらに大きな謎が浮かび上がる。
「北朝鮮でも映像は見たことがある」。今月5日夜、関西国際空港経由で羽田空港に到着した赤木容疑者は、護送される途中に見えた高層ビル群の夜景について、捜査員にそう語ったが、取り調べでよど号グループのことが話題になると黙秘を続けているという。
赤木容疑者に関する情報を、警察当局が初めて入手したのは1992年10月ごろ。グループが暮らす平壌郊外の「日本革命村」を、支援者らが訪ねた際、赤木容疑者に出会ったことがきっかけだった。「米村」という旧姓だった赤木容疑者は、グループメンバーの赤木志郎容疑者(59)の妹(53)(03年4月帰国)と結婚し、2人の娘(04年9月と06年1月帰国)を育てていた。
「ジャーナリスト 小川淳」として論文を発表し、表舞台に登場するのは94年春。だが、この時点でも警察当局には「九州出身者」といった情報しかなく、グループの集合写真を分析しても身元につながる画像は入手できなかった。
身元に関する情報はその後も封印され、97年に赤木容疑者の2人の娘の出生届が日本国内で出された際も、父親のわからない「非嫡出子」として申請された。
その正体は04年11月、平壌での日朝実務協議で、北朝鮮当局が氏名と生年月日を明らかにしたことで、突如判明する。本人も今年5月、日本に帰るため自分の失効旅券を外務省に返却。その記録などから、82年11月にはウィーンに滞在していたことや、85年後半に日本に戻り、87年4月には北朝鮮に入っていたことが判明した。
ウィーンに渡った赤木容疑者が参加したのが、反核運動のミニコミ紙「おーJAPAN」を発行する日本人留学生らの活動だった。
この活動は77年ごろスタートし、よど号グループのリーダーの田宮高麿容疑者(95年11月に死亡)らが指導していたが、03年12月にグループが発表した見解によると、83年ごろには、メンバーの魚本(旧姓・安部)公博容疑者(59)が責任者になっていた。
ウィーンには80年代を通じ、グループのメンバーと結婚した日本人女性たちが滞在しており、うち1人は反核運動の事務所近くに住民登録までしていた。
松木薫さんとともに拉致された石岡亨さんが「ウィーンに滞在している」との手紙を日本に送ったのが80年6月。その約2か月前には、メンバーの妻の森順子(54)、若林佐喜子(52)両容疑者(旅券法違反で国際手配)がスペインで石岡さんと写真を撮っていた。
83年7月には、ウィーンを拠点にしていた魚本容疑者がデンマークで、有本恵子さんを北朝鮮工作員に引き合わせたとして国際手配されている。
赤木容疑者がグループと出会ったのも、この2件の拉致の間だったとみられ、警察当局は、欧州での日本人拉致の真相を知る“キーマン”とみて調べを続けている。(拉致事件取材班)
赤木容疑者、04年まで「謎の男」…日本人拉致に関与か
(2007年6月11日14時32分 読売新聞)
――――――――――――――――――――――――――――――――
石高健次さんの『これでもシラを切るのか北朝鮮』の中に、この男についての記述があります。
ジャーナリスト高沢皓司氏は一時期よど号犯支援の立場で北朝鮮に何度も行き、接触を繰り返していた。中でもグループのリーダー田宮高麿とは個人的に親しくなり、彼から『10人以上をヨーロッパで拉致』という話を聞いている。これは、平壌ではなく第三国の首都でのこと。
◆――――――――――――――――――――――――――――――――――◆
田宮との会話 --1995年初め--
高沢が消えた日本人留学生について問いただす。
田宮:『平壌には招待所のようなところにたくさん日本人がいるんだが、どこに誰がいるのか、連絡が付かないんだ。今どうしているかはわからん。』
高沢:(怒りを込めて)『おまえらが連れてきておいて連絡が付かないとはどういうことだ。無責任じゃないか』
田宮:『我々が一緒に活動しようと言っても、あなたたちのような恐ろしい人たちとは一緒にやっていけないと離れていったものもいる』
~~中略~~
高沢:『彼等を日本に帰してやるべきだ』
田宮:『難しい問題だが、努力する』
高沢の話
他のメンバーらと話した内容も総合すると、ヨーロッパから誘拐拉致された日本人は10人あまりにのぼるという。そのうち高沢の知る限り、一人だけがよど号の仲間として活動している。残りは有本恵子らと同じ悲惨な状況にある可能性が高い。
「努力する」と言った田宮は、95年11月急死する。当局は心臓麻痺といっているが、前夜元気だったことが確認されており、高沢は不審を抱いている。
石高健次著『これでもシラを切るのか北朝鮮』より 一分引用
◆―――――――――――――――――――――――――――――――――◆
繰り返しますが、この話が、95年です。そして、95年の11月に田宮は死んでいる。
この中の 一人だけ仲間として活動していたのが、 謎の男=赤木(旧姓米本 ペンネーム小川淳)なのです。
この重要人物を今日本に戻した北朝鮮の真意はわかりませんが、返した以上、相当の厳しい指示が彼に与えられてることは想像できます。
日本の警察が、北朝鮮の指示を覆す追求や証拠を突きつけられるか、これは、日本の警察の威信をかけて取り組んでもらわなければならない捜査です。国力を上げてと言っても良い。
逮捕理由は旅券法違反であっても、外務省、公安、警察、政府、それぞれの持っている情報を徹底的に精査し、協力して、この謎の男を追求していほしいものです。
この男のふてぶてしい顔を見るたびに、私は、怒りが沸々とわいてくるのです。
※高沢皓司さんは、今自分の知っていることを知らせるため、拉致問題の集会にも時折きてくださいます。本人達を直接知り、支援の立場をとっていたからこそ、その怒りは激しいのだと思います。
「よど号」乗っ取りグループと北朝鮮で活動し、今月5日に帰国した熊本県出身の赤木邦弥容疑者(52)(旅券法違反容疑で逮捕)は、2004年11月の日朝実務協議で、北朝鮮側が本名を明らかにするまで、警察当局ですら身元が全くわからない「謎の男」だった。
「日本で妻や娘と一緒に暮らしたかった」。逮捕後、帰国の理由をそう語ったという赤木容疑者。その足跡をたどると、欧州での日本人拉致を巡るさらに大きな謎が浮かび上がる。
「北朝鮮でも映像は見たことがある」。今月5日夜、関西国際空港経由で羽田空港に到着した赤木容疑者は、護送される途中に見えた高層ビル群の夜景について、捜査員にそう語ったが、取り調べでよど号グループのことが話題になると黙秘を続けているという。
赤木容疑者に関する情報を、警察当局が初めて入手したのは1992年10月ごろ。グループが暮らす平壌郊外の「日本革命村」を、支援者らが訪ねた際、赤木容疑者に出会ったことがきっかけだった。「米村」という旧姓だった赤木容疑者は、グループメンバーの赤木志郎容疑者(59)の妹(53)(03年4月帰国)と結婚し、2人の娘(04年9月と06年1月帰国)を育てていた。
「ジャーナリスト 小川淳」として論文を発表し、表舞台に登場するのは94年春。だが、この時点でも警察当局には「九州出身者」といった情報しかなく、グループの集合写真を分析しても身元につながる画像は入手できなかった。
身元に関する情報はその後も封印され、97年に赤木容疑者の2人の娘の出生届が日本国内で出された際も、父親のわからない「非嫡出子」として申請された。
その正体は04年11月、平壌での日朝実務協議で、北朝鮮当局が氏名と生年月日を明らかにしたことで、突如判明する。本人も今年5月、日本に帰るため自分の失効旅券を外務省に返却。その記録などから、82年11月にはウィーンに滞在していたことや、85年後半に日本に戻り、87年4月には北朝鮮に入っていたことが判明した。
ウィーンに渡った赤木容疑者が参加したのが、反核運動のミニコミ紙「おーJAPAN」を発行する日本人留学生らの活動だった。
この活動は77年ごろスタートし、よど号グループのリーダーの田宮高麿容疑者(95年11月に死亡)らが指導していたが、03年12月にグループが発表した見解によると、83年ごろには、メンバーの魚本(旧姓・安部)公博容疑者(59)が責任者になっていた。
ウィーンには80年代を通じ、グループのメンバーと結婚した日本人女性たちが滞在しており、うち1人は反核運動の事務所近くに住民登録までしていた。
松木薫さんとともに拉致された石岡亨さんが「ウィーンに滞在している」との手紙を日本に送ったのが80年6月。その約2か月前には、メンバーの妻の森順子(54)、若林佐喜子(52)両容疑者(旅券法違反で国際手配)がスペインで石岡さんと写真を撮っていた。
83年7月には、ウィーンを拠点にしていた魚本容疑者がデンマークで、有本恵子さんを北朝鮮工作員に引き合わせたとして国際手配されている。
赤木容疑者がグループと出会ったのも、この2件の拉致の間だったとみられ、警察当局は、欧州での日本人拉致の真相を知る“キーマン”とみて調べを続けている。(拉致事件取材班)
赤木容疑者、04年まで「謎の男」…日本人拉致に関与か
(2007年6月11日14時32分 読売新聞)
――――――――――――――――――――――――――――――――
石高健次さんの『これでもシラを切るのか北朝鮮』の中に、この男についての記述があります。
ジャーナリスト高沢皓司氏は一時期よど号犯支援の立場で北朝鮮に何度も行き、接触を繰り返していた。中でもグループのリーダー田宮高麿とは個人的に親しくなり、彼から『10人以上をヨーロッパで拉致』という話を聞いている。これは、平壌ではなく第三国の首都でのこと。
◆――――――――――――――――――――――――――――――――――◆
田宮との会話 --1995年初め--
高沢が消えた日本人留学生について問いただす。
田宮:『平壌には招待所のようなところにたくさん日本人がいるんだが、どこに誰がいるのか、連絡が付かないんだ。今どうしているかはわからん。』
高沢:(怒りを込めて)『おまえらが連れてきておいて連絡が付かないとはどういうことだ。無責任じゃないか』
田宮:『我々が一緒に活動しようと言っても、あなたたちのような恐ろしい人たちとは一緒にやっていけないと離れていったものもいる』
~~中略~~
高沢:『彼等を日本に帰してやるべきだ』
田宮:『難しい問題だが、努力する』
高沢の話
他のメンバーらと話した内容も総合すると、ヨーロッパから誘拐拉致された日本人は10人あまりにのぼるという。そのうち高沢の知る限り、一人だけがよど号の仲間として活動している。残りは有本恵子らと同じ悲惨な状況にある可能性が高い。
「努力する」と言った田宮は、95年11月急死する。当局は心臓麻痺といっているが、前夜元気だったことが確認されており、高沢は不審を抱いている。
石高健次著『これでもシラを切るのか北朝鮮』より 一分引用
◆―――――――――――――――――――――――――――――――――◆
繰り返しますが、この話が、95年です。そして、95年の11月に田宮は死んでいる。
この中の 一人だけ仲間として活動していたのが、 謎の男=赤木(旧姓米本 ペンネーム小川淳)なのです。
この重要人物を今日本に戻した北朝鮮の真意はわかりませんが、返した以上、相当の厳しい指示が彼に与えられてることは想像できます。
日本の警察が、北朝鮮の指示を覆す追求や証拠を突きつけられるか、これは、日本の警察の威信をかけて取り組んでもらわなければならない捜査です。国力を上げてと言っても良い。
逮捕理由は旅券法違反であっても、外務省、公安、警察、政府、それぞれの持っている情報を徹底的に精査し、協力して、この謎の男を追求していほしいものです。
この男のふてぶてしい顔を見るたびに、私は、怒りが沸々とわいてくるのです。
※高沢皓司さんは、今自分の知っていることを知らせるため、拉致問題の集会にも時折きてくださいます。本人達を直接知り、支援の立場をとっていたからこそ、その怒りは激しいのだと思います。