神戸新聞の独自取材、特集記事をご紹介します。
連載記事ですので一回目だけを掲示します。
※続きは、下記リンクを辿って、全編を是非ご一読願います。
◆蒸発の理由 特定失踪者を追う第3部
第三部目次
第三部は、拉致の可能性を否定できないとし「特定失踪者」に挙がった四人の失跡と、家族のその後を紹介する。取材を通して、私たちは四人の家族の共通した思いに気付くことになる。(企画報道班)
(1)その日高度成長期に消えた4人
尾崎隆生さん 古川文夫さん 島脇文内さん 萩本喜彦さん
尾崎隆生さんは一九三三年、京都府宮津市の出身。左手の指が曲がらない。舞鶴市の運送会社で運転手をしていたときの事故の後遺症だ。失職し、専門学校で経理を学んだ後、神戸へ。ネクタイを扱う会社に就職した。
住み込みで働く職場は、国鉄(当時)三ノ宮駅の北側にあった。勤めて二年になる六〇年十一月二日、「遊びに行ってきます」と、趣味だったカメラを手に出かけた。
その後の行方は分からない。失踪(しっそう)時、二十七歳。
おとなしい性格の古川文夫さんは、よく行ったスナックでも口数が少なかった。
母の故郷の山形県新堀村(現・酒田市)で一九五一年、双子の兄として生まれた。尼崎市下坂部で育ち、市立小田北中学を卒業後、建築業の父の下で大工の見習いをした。
七〇年二月ごろ、北陸へ遊びに行くと、家を出た。数日後「三日ほどで帰る」と電話があった。さらに、愛用のカメラの質札が、なぜか自宅に郵送されてきた。
そして、消息は途絶えた。失踪時、十八歳。
島脇文内(ぶんない)さんは、神戸市垂水区中道にあった日本エヤーブレーキ(現ナブテスコ)の独身寮住まいだった。一九五〇年、淡路島の出身。神戸へ出て県立兵庫工業高校を卒業し、同社に就職した。
同市西区の西神工場の製造ラインで、自動扉や建設機械など油圧機器を作った。電気の配線は熟練の技が要求されるが、島脇さんは先輩に教わって黙々と仕事をこなした。
七四年一月二十二日、寮を出たまま出社しなかった。失踪時、二十三歳。
萩本喜彦さんは、高砂市中島に建てた新居に、社宅から引っ越したばかりだった。一九四〇年、同市出身。妻と子ども三人とともに暮らす家で七五年四月五日、新築祝いの会を持つことになっていた。
勤め先は、近くの神戸製鋼所高砂工場。機械設備の保全が仕事で、若手のリーダー的存在だった。祝宴の前日は、午後十時十五分からの夜勤にあたっていた。
「行ってくるわ」。四日午後九時五十分ごろ、いつものように自転車で自宅を出た。
しかし、工場に姿を見せなかった。失踪時、三十五歳。
◇
高度成長期の終わりに流行した言葉がある。
「人間蒸発」。一九七四年の警察白書は〈『蒸発』といわれる動機原因不明のもの(家出人)が約九千人〉とした。テレビ局はこぞって人探しの番組を放映し、「お父さん…」と呼びかける子どもの姿が茶の間の涙を誘った。四人も、そんな時代に蒸発した。
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バックナンバー
(1)その日高度成長期に消えた4人(2008/02/13)
(2)過疎高齢の姉墓に名前刻む(2008/02/14)
(3)宣告拉致疑い 家族に温度差(2008/02/15)
(4)海外赴任プラント輸出担う技術者(2008/02/16)
(5)一本道友人の死にも連絡なく(2008/02/17)
(6)家族赤ん坊も一児の父親に(2008/02/18)
(7)道程職場の友人と語り合う(2008/02/19)
(8)夢の終わり工場閉鎖、仕事に愚痴(2008/02/20)
(9)震災実家に連絡なしなぜ(2008/02/21)
(10)希望生存可能性「拉致」に託し(2008/02/22)
連載記事ですので一回目だけを掲示します。
※続きは、下記リンクを辿って、全編を是非ご一読願います。
◆蒸発の理由 特定失踪者を追う第3部
第三部目次
第三部は、拉致の可能性を否定できないとし「特定失踪者」に挙がった四人の失跡と、家族のその後を紹介する。取材を通して、私たちは四人の家族の共通した思いに気付くことになる。(企画報道班)
(1)その日高度成長期に消えた4人
尾崎隆生さん 古川文夫さん 島脇文内さん 萩本喜彦さん
尾崎隆生さんは一九三三年、京都府宮津市の出身。左手の指が曲がらない。舞鶴市の運送会社で運転手をしていたときの事故の後遺症だ。失職し、専門学校で経理を学んだ後、神戸へ。ネクタイを扱う会社に就職した。
住み込みで働く職場は、国鉄(当時)三ノ宮駅の北側にあった。勤めて二年になる六〇年十一月二日、「遊びに行ってきます」と、趣味だったカメラを手に出かけた。
その後の行方は分からない。失踪(しっそう)時、二十七歳。
おとなしい性格の古川文夫さんは、よく行ったスナックでも口数が少なかった。
母の故郷の山形県新堀村(現・酒田市)で一九五一年、双子の兄として生まれた。尼崎市下坂部で育ち、市立小田北中学を卒業後、建築業の父の下で大工の見習いをした。
七〇年二月ごろ、北陸へ遊びに行くと、家を出た。数日後「三日ほどで帰る」と電話があった。さらに、愛用のカメラの質札が、なぜか自宅に郵送されてきた。
そして、消息は途絶えた。失踪時、十八歳。
島脇文内(ぶんない)さんは、神戸市垂水区中道にあった日本エヤーブレーキ(現ナブテスコ)の独身寮住まいだった。一九五〇年、淡路島の出身。神戸へ出て県立兵庫工業高校を卒業し、同社に就職した。
同市西区の西神工場の製造ラインで、自動扉や建設機械など油圧機器を作った。電気の配線は熟練の技が要求されるが、島脇さんは先輩に教わって黙々と仕事をこなした。
七四年一月二十二日、寮を出たまま出社しなかった。失踪時、二十三歳。
萩本喜彦さんは、高砂市中島に建てた新居に、社宅から引っ越したばかりだった。一九四〇年、同市出身。妻と子ども三人とともに暮らす家で七五年四月五日、新築祝いの会を持つことになっていた。
勤め先は、近くの神戸製鋼所高砂工場。機械設備の保全が仕事で、若手のリーダー的存在だった。祝宴の前日は、午後十時十五分からの夜勤にあたっていた。
「行ってくるわ」。四日午後九時五十分ごろ、いつものように自転車で自宅を出た。
しかし、工場に姿を見せなかった。失踪時、三十五歳。
◇
高度成長期の終わりに流行した言葉がある。
「人間蒸発」。一九七四年の警察白書は〈『蒸発』といわれる動機原因不明のもの(家出人)が約九千人〉とした。テレビ局はこぞって人探しの番組を放映し、「お父さん…」と呼びかける子どもの姿が茶の間の涙を誘った。四人も、そんな時代に蒸発した。
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(1)その日高度成長期に消えた4人(2008/02/13)
(2)過疎高齢の姉墓に名前刻む(2008/02/14)
(3)宣告拉致疑い 家族に温度差(2008/02/15)
(4)海外赴任プラント輸出担う技術者(2008/02/16)
(5)一本道友人の死にも連絡なく(2008/02/17)
(6)家族赤ん坊も一児の父親に(2008/02/18)
(7)道程職場の友人と語り合う(2008/02/19)
(8)夢の終わり工場閉鎖、仕事に愚痴(2008/02/20)
(9)震災実家に連絡なしなぜ(2008/02/21)
(10)希望生存可能性「拉致」に託し(2008/02/22)