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拉致の解決を願って
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永遠のジレンマへのレス

2005-11-30 | アンデスの声さん投稿集
原良一さんの投稿永遠のジレンマ へのレス

投稿者: アンデスの声さん 投稿日:11月27日(日)

原様
貴論拝誦。

別に私はジレンマに悩んでいるわけではなく(ご心配ありがとう)、この運動の最重要目的が、①拉致されている日本人の無事解放なのか、②北朝鮮人民の救済なのか、③金正日体制の破壊なのか、それとも④拉致事件に便乗したサヨク叩き・朝鮮人叩き・による憂さ晴らしにあるのか、その目的を各個人が明確にすることで、自分の目的達成のためにとるべき具体的戦術も自ずと客観的に絞られるのではと思ったまでです。

リスク管理の基本「一般にリスクゼロの解決策はない、リスク回避とはリスク=コストのより少ない手段を選択すること」は私も(日常の中で)心得ているつもりです。そして目的の違いでリスクバランスも異なり、とるべき戦術も異なると考えています。


ところで、ペルー大使公邸事件と北朝鮮拉致事件の対応方法の対比ですか、う~ん(と思わずしばし唸ってしまった)。公邸事件解決のためにフジモリが採った戦略(日本政府は事実上何もしませんでしたので)には、北朝鮮対応の参考になる共通部分はありますが、個々の戦術、特に武力突入については社会背景を含め条件が大きく違います、リスクバランスからみても対北朝鮮での武力行使は割に合わない。


>私は範とすべきは、「粘り強く交渉しつつも、不当な要求には断固応じず、交渉と並行して慎重かつ周到に武力制圧の計画を立て、機会と必要があれば躊躇なくそれを実行して、最小限の犠牲で解決に到った」ペルー日本大使館占拠事件であると考えます。</原さん見解

時系列的、表面的にハタからはそう見えたのでしょう、しかし、あの大使公邸事件の大切なポイントは、フジモリにとって事件解決の最重要目的は「テロリスト組織MRTAの殲滅」にあり「人質の安全な解放」ではなかったということ、その目的達成までの彼の姿勢は終始徹底的に一貫していた。この時のフジモリの主目的「犯人の殲滅」は、北朝鮮拉致事件における(少なくとも我々の)最重要目的「拉致被害者の安全確実完全な救出」とは食い違う。フジモリが腐心したのはいかに人質被害を少なくして「テロリスト達を潰すか」ということ、人質の安全な解放は目的ではなく、目的を達するためにクリアーすべき課題だった。したがって、北朝鮮問題をそのままフジモリの公邸事件戦術になぞらえるなら、運動の目的は「金正日体制の崩壊」であり、その戦術・方法論として「拉致被害者の被害を少なくして金正日を潰すにはどうすればよいか」を考えることになります。

一方の日本にとって地球の裏の武装共産ゲリラMRTA(エメ・エレ・テー・アー)なんてふつうの日本人は名前を聞いたことも無かったし(MRTAを勝手に“マルタ”と読んでいた日本のTVアナウンサーもいたな)そんな知らない連中がペルーでどんな悪さをしようが関係なく、日本政府の最重要目的が日本人人質全員の無事解放だったのは、国家の邦人保護義務としても当然。

つまり公邸事件では日本側とペルー側とでは最重要目的が違っていた、すなわちリスクバランスが違った、それはどちらが良い悪いではなく、双方にとってはどちらも正しい。日本側とペルー側の目的が相克してしまったいうこと。社会背景が違えば目的も違う、そして目的が違えばとるべき戦術も変わる。

公邸事件解決の目的が(人質の無事救出よりも)テロリスト撲滅にあるフジモリにとっては、解決の最大の障害が、人質の1/3を占める日本人だった。フジモリ政権時代に日本からの対ペルーODA予算は増大突出し、この日本からの援助を引き出せることがフジモリのウリの一つだったゆえに、日本政府の「ヘーワテキカイケツを望む」圧力はそれなりに効を奏したのである。(この時の日本政府の圧力は自己陶酔型の日本の平和運動の効果には対応しない、政治的他者を動かすのは理念ではなく、相手が動かざるを得ないカードをこちらが握っていること) 日本政府の“要望”のために人質を簡単には死なせなくなったから、チェチェンゲリラのモスクワ劇場占拠事件のような惨事にはならなかった。しかしフジモリ側の目的「テロリスト殲滅」は長年テロに苦しんできたペルー国民の声そのものであり、強行突入で仮に人質に数十人の犠牲者が出たとしても、内戦状態でそれまでに3万人が殺されていた国民にしてみれば、リスクバランスはとれていた。そしてもし逆に日本人人質解放のため日本が無理矢理フジモリにゲリラの要求を飲ませ、せっかく拘束したグスマンなどのテロリストたちが野に放たれ再びテロの恐怖が蘇れば、日本は「テロ支援国家」の烙印を押され今の私もペルーではなくアラブかアフリカのどこかにいただろう、そのくらい当時のペルー国民のテロへの反感は強かった(つまりそのくらい共産ゲリラ連中は滅茶苦茶な殺戮をやった、その残忍さはセンデロだけでなくMRTAも同じ)。

フジモリは「平和的解決を望む」しか言わない(言えない)日本政府に早々に見切りを付け、早期からトンネル掘削を極秘裏に進め、小型マイクを廷内に潜り込ませ人質の軍人からの情報で内部状況を詳細に掌握した上で、機を見計らい精鋭特殊部隊による突入を強行した。突入の日の直前まで続いた主犯セルパとの交渉も、女性ゲリラの発砲を誘発した大音響の陽動行進も、このトンネル救出作戦のためのカモフラージュであり、ペルー側のごく一部の者以外だれも、この作戦を事前には知らなかった。4月22日の夕方の突然の突入の瞬間を迎えるまで、日本政府の人間は誰一人、橋本総理も寺田大使も対策本部の誰も、本当に全く何も知らされていなかった<尤も、3月末頃から公邸を取り巻く武装兵士に白人がまざり始めたので我々は「何か始まるかな」と気配は察していたが(白人兵士≒海兵隊→高レベル特殊部隊>。車に乗っては公邸を出入りするセルパとの交渉にいそしんでいたシプリアニ神父も、はるばるメキシコからやってきて日本側の全権を任された寺田大使も、ただのいい面の皮だった。この交渉を成功させローマカトリック教会内での出世を狙っていたシプリアニ神父は目論見が瓦解し涙顔になり、フジモリに完全無視されていたことを知った日本政府はただ唖然・憮然とするしかなかった。

いきなり始まった強行突入の爆音と吹き上がる煙と銃撃戦を目の当たりにしたとき、私は思わず目を伏せ、「これで人質の大半は死んだ、フジモリは人質の命よりゲリラ殲滅を優先しよった、なんちゅうことを、これで、日本人駐在員は総引き上げだな」と思った。結果的に日本人人質が全員生きて戻ったのは、半ば奇跡・幸運だったと今も私は思っている。フジモリの極めて周到緻密な、そして敵味方双方の予想の裏をかいた作戦、それを一人で行える大統領という一極集権体制がそれを可能にした。繰り返すが、人質に犠牲が出なかった(一人だけ心臓マヒで絶命)のはフジモリの強運に過ぎない、彼がもう一度同じ作戦を行ったら再び全員無事とはいかないはずだ。あれは極めて危険な賭だった、もし多くの人質の血が流れていたら、当時のペルー社会はそれを許しても、日本社会は許さなかったろう(少なくとも5年後のチェチェン・モスクワ劇場の悲劇までは)。

8000%近いハイパーインフレで経済が混乱し全土にテロが蔓延する国家崩壊状態で「誰がなっても失敗する」と言われた1990年当時のペルー大統領に就任したフジモリは、わずか数年で経済を建て直しテロも終息に向かわせ、追いつめられたMRTA残党が起死回生を懸けて引き起こした公邸襲撃もフジモリにとってはテロ撲滅作業の総仕上げのための、いわば飛んで火に入る夏の虫だった。

公邸事件のフジモリの戦略・戦術を振り返って感じるのは、彼は自分がなすべきことの目的が明確でぶれないこと、その目的達成に向けた極めて周到緻密な戦略と戦術があり、ことが決まったらそれを淡々と着実に実行していく冷徹ドライな彼特有の哲学を持っていることである。今回のチリ出国騒動も、フジモリしか知らぬその最終目的に向けて着々とプログラムが進んでいるような気がする。日本ではもう飽きたのか最近は報道が止まっているが、当地では先週からフジモリ支持派の巻き返しが始まっている。


>これ以外にも重要だと思ったのは、
f)人質は必ずしも「平和的解決」を望んではいなかった。即ちペルー人人質は、何度も武装蜂起計画を立てては当局に制止されており、日本人人質も危険の多い逃亡計画を立てていたことが判明しています。<原さん見解

これについても少し修正させて貰います。拘束されている人質達には外部状況、特に救出のための作戦行動状況はまったく分からない。拉致・人質事件では、事件中に自分が置かれた客観的状況に最も無知なのが人質本人という、反転空洞現象が起きる。情報遮断され銃を突きつけられた恐怖・緊張下の人質に正常な判断能力は期待できない、求めるべきでもない、武力行使に人質の希望は関係ない、基本的にこれは、状況を正確に把握できている外部にいる人間が冷静に判断すべき事項。共同通信記者の原田を廷内に招き入れてしまったのも、情報閉鎖の中での一種ヒステリー状態から「内部の俺達の声を外に伝えさせろ」という一部の人質達が引き起こしたもの。周囲状況のサッパリ分かっていない解放直後の人質は何を喋るか分からないからそのまま記者会見に出すのも危ない。2時間ブリーフィングの後に会見に臨ませた青木大使でさえ、ああいうブザマな姿を晒すハメになった。それから、あのとき武装蜂起を計画したペルー人人質は軍人たちであり、逃亡計画を立てた日本人人質もごく一部、もし実行していれば極めて危険だった。それから年齢も職場環境も拘束期間もペルーへのかかわり方もさまざまな人質達の心情は各人各様であり、それを一部の証言で代表するのは無理がある。日本人人質同士の深刻な感情対立もあった。とにかく内部はけっこうゴチャゴチャしていたのだ。こういう国の駐在員はクセの強い一言居士、一匹狼的な性格が多いし、特に最後まで残された支社長クラスには団塊=全共闘世代が多かったせいもある(解放後に青木大使を糾弾する文章を文芸春秋に掲載したS氏もそのクチだ、日本じゃガサツ飲んべえベランメエの私もここじゃとおっても上品なほうなのだ、ケケケッ)。


人命を踏みにじる、常識の通じない凶暴な相手との駆け引きには硬軟織り交ぜた複数の駒を使い分けることが必要になりますが、持ち駒の種類はその国の能力でも決まる、たとえば自衛隊の平壌急襲によるによる拉致被害者の武力救出のような、できない戦術ははじめからできない。それから、アメとムチを使う戦術ではまず相手をムチで叩いたあとにアメを見せるのが交渉の常道、アラブのスーク(市場)の値切り交渉も同じですから、先にアメをちらつかせる日本の北朝鮮対応はいわば常軌を逸しているといえます。

以下に北朝鮮拉致事件対応との対比の参考になりそうな、公邸事件のときの事例・要素を思いだせるままに(なにせもう10年前だ)挙げてみます、共通部分、異なる点、あまり関係ない私の思い込みもあるかと思いますが、個々の判断は原さん含めみなさんにおまかせするとして・・・、ただ、フジモリ(=ペルー政府)の目的の是非を考えるには当時のペルー社会の特殊な状況はふまえて下さい。

*)1980年後半から90年代初頭までペルー全土で共産ゲリラのテロが吹き荒れ治安軍兵士と衝突し、爆弾テロに巻き込まれ殺された一般市民のちぎれた遺体が日常のように路上に転がっていた。公邸事件が勃発した1996年頃もまだテロや武力衝突は残っており、公邸に武力突入した兵士たちはふだんから臨戦状態にあった。作戦を陣頭指揮したフジモリに実戦経験はないが、彼の学生時代のペルー社会は全国民に兵役義務(現在は部分徴兵制)があり学生だった彼は実務免除ながら軍事理論を(義務として)履修しそれを抜群の成績で修了している。

*)公邸事件の場合、人質もMRTAゲリラもわずか100m四方の公邸の塀に囲まれた袋の鼠状態であり、緊張した膠着状態が続きながらも“犯人も人質も逃げも隠れもできない、人質を殺せば犯人も確実に殺される、そのうちなんとかなるんじゃないか”という気持ちが(今思えば)我々の心の底になんとなくあった。

*)公邸内と外部との連絡、人質への手紙・弁当・医薬品などの差し入れは全て国際赤十字が取り持った。世界各地の紛争でリエゾン経験を積んできた彼等は詳細なマニュアルをもち、徹底した中立の立場を貫くためゲリラ側も彼等を信用した。日本人向けに差し入れた日本食弁当はリマの日本人板前が腕をふるったもの、その経費は各人質企業が負担した(ので贅沢などと部外者から文句を言われる筋合いはない!)。MRTAゲリラたちも美味い日本食のほうを好んで食べた(がもちろん金は払わなかった)。

*)日本のマスコミ取材の傍若無人振りはこれまで何度か触れたので詳しくは割愛する。共同通信の原田の強行取材のときは強い緊張感が現場に走り、ブンヤ風情の思い上がりに怒り殴りつけてやろうかと思ったが、あれは人質側が仕組んだことなので半ば仕方ない、しかしその時廷内で撮影した人質顔写真を当地のカレータス誌で晒した“売命行為”は許せない、が、写真を高額で買い取ったカレータスもいわば同罪、自由主義社会のマスコミのしつけの悪さはどこの国も似たようなものだし、権力の監視告発にはマスコミが必要、マスコミは功罪相備える、要するに使いようだ。

*)MRTAはペルー社会の矛盾が必然的に生みだしたもの、チェ・ゲバラを崇める彼等は、文革・毛沢東思想かぶれ(のくせに毛沢東が中国人であることも知らないのがいる)無知蒙昧狂信集団のセンデロに比べれば頭も良く良識的で真面目な人間も多い。だから正直なところ私は、この件でMRTAを金正日北朝鮮に対比することには抵抗があります。彼等を叩きつぶしたフジモリ自身も「MRTAの主張には共鳴できる部分がある、自分が大統領にならずに彼等に参加していた可能性もある」と語っていたくらいだ。ただしMRTAは自分の信条故に多くの無辜の民を殺戮してしまった、その社会的報いは受けざるを得ない、殺された者にすればMRTAもセンデロも北朝鮮も一緒だ。15年前、仕事仲間のペルー人スタッフが誘拐され半年後に発見されたとき、90kgの体重が35kgに減っていた。骨と皮に衰弱し銃弾を撃ち込まれた彼の遺体が、ある日、リマ市内の路上にボロ布のように捨てられていた。MRTAの犯行だった。彼等のどんなに崇高な理念も、なぶり殺された者の家族を納得させることはできぬ。

*)リマに設置された日本政府対策本部に詰めた総勢70名の中には、約10名の厚生省派遣の医師・看護士が含まれていた。彼等の任務は解放された人質達の精神的ケアだったが、彼等が言うには「日本にはこういう事件の症例が殆ど無いんですよ」とのこと、平和すぎる国ゆえに人質事件被害者の臨床データが日本には乏しく対応マニュアルも無かった。ベトナムなど各地の紛争に首を突っ込み不幸なデータを豊富に持つアメリカは簡単には教えてくれない、仕方なく彼等はダッカ事件や神戸地震の被災者の報告書、イラン大使館占拠事件の文献を入手して勉強していた、が、4ヶ月後に彼等は豊富な症例を手に入れることになる、その解析の中で「リマ症候群」も確認された。集められたデータは厚生省に保管され、その後世界各地の非常事態地域に派遣される医師団の間でも活用されている。前例のない不幸な事件はそれからの事件の前例として役立つ部分もある。

*)蛇足ながら、MRTAが占拠したのは“日本大使館”ではなく“日本大使公邸(=大使専用宿舎)”ですのでお間違えなく。事件の後、住処の無くなった日本大使はリマ市内最高級ホテルのスイートを3年間宿舎としたあと、今は更地となっている旧公邸から500m離れた場所に数億円の日本の税金をかけた要塞のような公邸が建った。羮に懲りて鱠を吹くこの日本的リスク(アン)バランスはペルー人の失笑を買い、大使自身も恥ずかしがっている。

*)また、貴稿中の“リマ症候群”というのはストックホルム症候群とは逆に「犯人側が人質に対して親近感を抱いてしまった」現象に対して付けられた名称です。(例のO氏は事件前から共産ゲリラに親近感を抱いていたからストックホルム症候群にも当てはまらない、彼は北朝鮮拉致事件について「帰国した被害者はいったん北に返すべき、自分が身代わりに北に行っても良い」という認識だったから、おそらく“日本的サヨク的親北症候群”とでもいうべきものでしょう)

*)なお、私は決してフジモリ信望者ではありませんので念のため。彼が大統領就任中の10年間に日本からのペルー向けODAは膨れ上がったが、日本が貢いだ見返りが公邸事件とワラル事件(1991年、JICA派遣の3名の日本人技術指導員が通勤バスからゲリラたちに引きずり出され3人並べて自動小銃でハチの巣にされ殺された事件)だ、明らかに日本側の一方的な持ち出し超過。フジモリが日系人ゆえに、しかも匿っているのが石原慎太郎や曾野綾子といった右派人士であるためか日本の右も左もウルサイが当地に日本の国内事情など関係ない、フジモリは飽くまでペルー人。アルベルト・フジモリは日系人だが、彼は(元妻のスサーナ・ヒグチも)日系人の中では極めて特異なタイプ。戦前の日本人街焼き討ち暴動・強制収容の記憶の残る日系人の殆どはいつも真面目に静かに目立たぬように暮らそうとしているから、フジモリの立候補にはみんな反対だった。今のフジモリ支持派デモに日系人は誰も参加していない。日系人の一人が公邸事件中に私に「あんたがた駐在員は、危険になれば日本に帰ればよい、しかし我々には、このペルーがどんなに酷い国になってもこの国で生きるしかない、我々には戻る国はないのです」と語った。地球の裏で拘束されたペルー人フジモリを助けろと誰も日本に頼んでないから、当地の事情に疎い日本人は関わらんでよろしい、そんなことしているヒマあったら自分の隣の国に拘束されている日本人をさっさと助けなさい。


蒼き星々~北朝鮮による拉致被害者・家族を支援する人の集う掲示板より

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