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「異邦人」との付き合い方

2006-03-01 | アンデスの声さん投稿集
「異邦人」との付き合い方  
(>反核団体に抗議しますさん2/27付)

アンデスの声さん   投稿日: 2月28日(火)

先週買ったばかりの新品の公用車を日雇い運転手が地下駐車場でバック中に壁にぶつけてしまい、尾灯が粉々に割れた。

私 「なぜ後方確認しなかった?」
彼 「バックミラーが曇って見えなかった」
私 「なぜミラーを拭かない?」
彼 「対向車がいたので急いでいた」
私 「見えないままバックするやつがあるか、これはお前の過失だ」
彼 「倉庫に尾灯の交換部品があった、2時間あればなおる」
私 「その部品の値段を知ってるか?」
彼 「知らない」
私 「お前の日当5日分の額だ。ところで今日はずいぶんの遅刻だな」
彼 「(朝食の)お茶が熱くて・・・」

ミスが生じると決まって「ああ言えばこう言う」やりとりが続く。ペルー人に限らず、日本人以外の民族は一般に自分の過失は簡単には認めない、めったに「ゴメンナサイ」を口にしない。アラブ人はもっと露骨だ。長年の海外経験で私も免疫はあるほうだが、厚かましい言い訳を聞くとやはり腹が立つ。しかし腹を立ててもしょうがない、一般的な対策は相手に「謝罪」や「改悛の情」を求めるのではなく、相手に実害を課すこと。日本人はつい相手に「ゴメンナサイ」を求めそれで許してしまうが、そう知った連中は口先だけで「ゴメンナサイ」と言うようになり歯止めにはならない、公用車両は片っ端からすぐにボロボロになる。罰金、減給、累犯の場合の解雇措置など、具体的・物理的痛みで相手を変えて歯止めする、その目的は相手への教育や思いやりではない、あくまで自分への損害の拡大を止めるのが目的だ。

民族の違いを理由に他民族から虐殺された記憶がないためか、日本人は相手が誰でも「話せばわかる」と期待する傾向がある、相手に同化を期待する、そして相手が「ゴメンナサイ」と謝ると、同化に満足して「水に流」す。これは「自分も相手も同じ(価値観を持った)人間」であることが前提にあり、その背景にはそれが許されてきた我々固有の歴史文化がある。敵意を持つ他人への日本の甘さは人権派に限らない、戦前の植民地統治姿勢をみても、欧米白系の徹底した愚民化・搾取統治政策に比べれば日本はまだ甘かった、日本の植民地政策には相手との同化の情を感じる、中途半端なのだ、つまり欧米列強からみれば日本人は他人やドジンとの付き合い方が不慣れ、ヘタだったのである。地中海東部~中央アジアに発する欧米連中の対人・対民族関係は衝突・殺し合いの歴史の中で育まれ、それに適応した人間が生き延びた。自分と他人は「違う」ことが前提にある、そして残念ながらそれが今の人類社会の付き合い感覚の主流であり、我々島国日本人の甘えた同化願望こそ特殊なのだ。

25年前の学生時代、私が初めての海外暮らしを始めたころは、街の通りでたまに日本人旅行者に出合うとたいてい向こうから近寄ってきて、「あのぉ、あなた日本人ですかぁ?ちょっと一緒に話しませんかぁ」とよく話しかけられたものだ(が私は断った。そういうネチネチした感覚が嫌で飛び出した外地で、なにが悲しゅうて見ず知らず行きずりの日本人オトコとお茶しなきゃならんのじゃい)。いつも同じ水の中を同じ仲間と群れあって泳いでいるメダカが他所の池に一匹で放たれると不安になりやっと見つけた仲間に擦り寄ってしまうのだろう(だから海外での詐欺・強盗・強姦の日本人被害があとを絶たぬ。最近は日本人も海外ズレして旅先で出会うとむしろよそよそしかったりするが、これも一種同族意識の裏返しだろうか、普通にしてりゃいいのだ)。自分の家族親族でもない安倍晋三に感情移入し勝手に同化してしまい、相手が自分の思い通りに動かない(=同化できない)ととたんにすねはじめる、この「すねる」心理も「甘えの構造」と同じく日本人特有の、幼児性を孕む未熟な(=他人に殺されたことのない)精神状態といえる。

他人と自分は違う、他人が話したくらいでは変わらぬのがまともな大人だ、だから最初から違う前提で少し距離を置いたまま共通項を見出すほうが、長く安定して付き合える。ヘタに「同じ」と思い込むと違いが気になって気まずくなりやすい。だから他人との対話とは、互いがナカヨシコヨシ・同化同調・慰撫愛撫するためではなく、互いの自己利益確保のための共通条件を捜すのが目的、根っこが違うから上っ面の共通部分を探しながら、強く自己主張する(まったく同じなら以心伝心で済む)。以前ご紹介した諺「泣かない赤ん坊はミルクにありつけない」と対のコトバに、「沈黙は承諾なり(Quien calla, otorga.)」というのもある。

冒頭の運転手の場合は、彼は自分の罪を知った上で罰を避けるために懸命に言い訳しているのだが(気持ちは理解はできる)、北朝鮮を弁護する連中の中には今なお、(保身のための言い訳ではなく)本気で北朝鮮の国家と金正日に好感を抱いているのがいるらしい。北朝鮮のこれだけの蛮行の事実と危険性を前にして、我々と全く逆の感覚を抱く日本人たちがいるという事実。日本の反核左翼政治運動団体の有名な題目「きれいな核と汚い核」、さすがに最近は口にしなくなったが、言わなくとも連中の頭の構造は昔と同じである。中国・DPRKの犯罪はきれいな犯罪、米帝・日本・資本家の善行は汚い善行、ととらえ言わしめる信条が彼らの全ての価値判断の根っこにある。私の想像だが、こういう連中はコミンテルン傘下の昔から北欧毛唐思想運動の極東末端支部の歯車として移入思想の教条的咀嚼理解だけが唯一の習い性となってしまい、何か語っているようで他人の考えを集めなぞり解析披露しているだけ、自分の内部から自然に湧き上がる人間としての感性が衰滅しているのではないか。彼らは国境を越えた世界市民を口にしながら自国国民に寄生し害を及ぼし、国境を越えると他国国民にも相手にされない、最初に世界市民を唱え国家に殺されたソクラテスとは全く対照的な、その醜悪で矮小な姿が、面白くも哀しい。周囲に情的同一化を強要するその湿潤な感性は日本のメダカ社会そのものであり、中東欧米の砂漠的個人主義とは根本的に相反する、その腰巻・褌の上にスカート・ズボンを履いた按配では誰も相手にしない。

そういうヌエのような亜種連中を我々が言葉で説得できるとは思わないし、我々が変えて差し上げる必要もない、幸い日本は思想信条の自由が憲法で保障された国だ、我々としてはせいぜい、彼らの害毒が我々に及ばぬ対策を考えればよい、犯罪組織オウムが“正当に断罪”されたように(危害を及ぼさないなら放っとけばいい。単に気味悪がられ排斥され車で逃げ回っていた例の白装束教団の人たちを私は気の毒と思う、異物を警戒するのは動物の自己防衛本能だが、本能を理性で抑え許容するのも人間)。

しかし、互いの利害・価値観・感性・視界がまったく異なり、かつ当方に危害を及ぼしかねない他人(=異邦人)を相手にする以上、我々の付き合い方もある程度中東欧米型に変わる必要があるのではないか。同化目的で彼らに北朝鮮の醜悪さと危険性を語り説得すのは無意味、彼らが変わるかどうかは彼らの勝手、そして我々は勝手に自分自身を守る、そのために我々に危害を加える北朝鮮を援ける彼らの手の動きを止めることだけを考えればよい。

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