読んで損はないです。『溜飲が下がる思い』のブログ

2010-11-28 08:58:31 | フィリピン

とうさんが、最近、フィリピンのこと、

フィリピンの思い出などを書かなくなったのには、

理由があります。




ブログを書くようになって、必然的に

フィリピン関係のいろいろなブログを読むようになればなるほど、

胸につっかえるものが多くなってきたからです。

 

理由にはなっていませんよね。

 




最近、あるブログに巡り合いました。

『 GRO フィリピン・カラオケ・ババエ ~ 偽装結婚の向こう側 ~ 』

タイトルだけ見ると、

あっ、また、フィリピ~ナ(本来はフィリピン女性という意味のはずですが、

ほとんどのブログでは、勝手に ある特殊なニュアンスのみで使われています)関係の

ブログかぁ という感じで見過ごそうと思いました。

 

でも、中のある記事を読んでみて、

まさに、

「溜飲が下がる思い」とは、このことなんだなぁと、

ほんとうにすっかりした気持ちになれました。

こういうことなんだよなぁ、私も言いたかったことも。




これから初めて、フィリピンと、そして、

本来の意味のフィリピーノ、フィリピーナとの付き合いを

されて行こうと思っている方々に読んで頂きたいです。


ブログ主も言っています。

このブログは「あくまでも一個人の独断と偏見だ、誹謗中傷はやめてくれよ。」と。

私のこの記事もそうです。そこんとこ、よろしく。テヘッ。







前置きが長くなりました。

私が「溜飲が下がる思い」をした記事です。

↓   ↓   ↓

「フィリピン人を見下しているか?」

「フィリピ~ナの良いところ」

 

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おめでとう!!!!  フィリピン人看護師国家試験合格っ!!

2010-03-26 22:11:41 | フィリピン

 フィリピン人の看護師さんが、

 日本の看護師国家試験に合格されましたっ!!

 うれし~~い!! (^○^)

   ぶち うれし~い!!! ヽ(^o^)丿

 そして、なにより、

 合格、おめでとうございま~す!!! ☆

 ほんとうに、ほんとうに、おめでとうございますっ!!


 こんなすごいことはありません。

 小生、今、医療関係の仕事をに携わっているので、す~ごく分かるのですが、

 日本人だって、この国家試験に合格するためには、ある期間は死ぬような努力をしなければなりません。

 クタクタになります。

 ましてや、実習をしながら、日本語の高度な漢字や専門用語と知識を憶え、かつ問題文を理解し回答しなければならないなんて、その苦労と努力は想像を絶します。


 彼らを前にして、私達は、ただただ、素晴らしい! としか言えません。

 日本人が、自分の国と違うことを、あ~たら、こ~たら、文句は言えても、このフィリピンの方には決して文句は言えません。

 この看護師さんは、自分の国と違う環境で、それに従って道をまさに切り拓いたのですから!!

◇ 

 とにかく、おめでとうございます!!

 あなたは、フィリピンの誇りです。

 そして、フィリピンでお世話になり、フィリピンに感謝している私たち日本人の誇りです。

 きっと、日本の宝になることでしょう。 

 これからもっと辛いこともたくさんあるでしょうけれど、めげずにベストを尽くしてください。

 最後に、もう一度、 おめでとう! そして、ありがとうございます。


      わずか1年で合格したラリン・エバー・ガメドさん  時事通信より

 

    ☆ 関連ブログ:海外気まま暮らし、マニラ・ソウル・香港  クリック!

    ☆ 関連記事 :Yahoo!ニュース クリック!

 

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フィリピンの思い出5 優れ物の正装着  その名はバロン・タガログ

2010-02-16 00:01:02 | フィリピン

 このブログを見てくださっている奇特な方々の多くはご存知だと思いますが、フィリピンの正装のひとつにバロン・タガログ(Barong Tagalog)があります。

 結婚式や正式なレセプションなどでは必ず着られるシースルーの上着で、本来はバロンというパイナップルの繊維で織られたものですが、バナナの繊維のものも高級です。胸元に刺繍が入っています。

 シースルーなのは、相手に武器を隠していないことを示すようにするためで、スペイン統治時代に義務付けらたものだそうです。このスペインの徹底した植民地管理ってなんなんでしょう。だから、スペインって大嫌いです(ゴメンナサイ)。

 

アセアン会議での安倍さんとアヨロ大統領。
アヨロさんが来ているのも女性用のバロンタガログです。
男性は下にカミサデチーノという丸首の半袖シャツを着ます。
       Cebu Jocv netから転用

 

 フォーマルな職種や、ある一定以上の役職者になると、麻や混綿のものがスーツの代わりとしてごく普通に着られています。

 とにかく軽くて、涼しいです。汗かきの小生には、神様が下さったプレゼントでした(笑)。とにかく、休日以外はバロン・タガログばかりにお世話になっていました。

 

これが普段よく着ていたテソロス(Tesoro's)というメーカーのもの。
民芸品店の老舗として有名ですが、独自のバロンタガログも製作販売
しています。とてもシンプルでシックな感じが好きで買いました。

 

裾に切れ込みが入っています。日本の開襟シャツと同じ?

 

前がすべて開いているデザインのものでは、前のボタンが隠れるようになっています。

 

同じテソロスの色違いです。上品な色が好きです。日本に帰ってからも、
夏にはカジュアルな外出着としてじゅうぶん着れています。

実際に小生が着ている様子です。父母が来比した時に
ケソンシティのフィリピン大学ディリマン校のキャンパス内で
撮りました。いつもこんな恰好で仕事をしていました。

 

小生のバロンタガログ好きは徹底していました。これはワイシャツ生地で
作ってもらったバロンタガログです。華僑の親友の家族が経営する洋服屋
さんに遊びに行った時、隣りの紳士服屋さんからワイシャツを作らないかと
言われたので、じゃあその代わりにと作ってもらいました。
ボタンはもちろん隠れています。作ってみてこれは便利だと思いました。
裾をスラックスの中に入れると粋なデザインの半袖ワイシャツになります。
ネクタイも締められます。日本でも開襟シャツとして着られますし、
誰もそれとは気づきません。


純白のバロンタガログです。半袖ですが上で紹介したものよりも
よりフォーマルに見られます。下は黒っぽいズボンがいいかな。
よく似合うと言われましたが、小生にとっては気持ち堅苦しい感じがして
深刻な会議のある時などしかあまり着ませんでした。フィリピンに行って
初めてシューマートというデパートで購入しました。

最後は長袖のバロンタガログです。フォーマルな席ではこちらが
一番普通です。わざわざ職場に来た専門の業者に作ってもらいました。
でも、大きな催しでのスピーチや講演会、名付け親として教会での
親友の子供の洗礼式の時ぐらいにしか着ませんでした。

胸元の刺繍です。たくさんの小さな穴が開けられており、
その時に出る糸でレースのようにひとつひとつ回りがかがってあります。
これは日本では裾をスラックスに入れて上にジャケットを羽織ると夜のお洒落着と
して重宝したことがあります。まあ、滅多にそのようなチャンスはありませんが(恥)。

 

 これで小生がいかにバロンタガログが好きか分かって頂けたと思います。

 面白いことに、仕事以外で外出する時は、地元調達のTシャツとジーンズという軽装がほとんどでした。その場合、一流ホテルやビレッジという高級住宅エリアの入り口ゲートなどに入ろうとすると、小生が顔なじみであるのにセキュリティガードにわざわざ止められID提示を求められたり、時には入れもらえない時が多々ありました。
 それが、バロンタガログを着ていると見とがめられることもなくスルーで入れてもらえるのでした。それほど、バロンタガログはフォーマルと見られているのでございますよ。

 ちなみに一流ホテルにたびたび入っていたのは、逢引きをするためなどではなく、外出先でのウンチを涼しくて落ち着いた場所でしたかったからでした(ざんね~ん)。

 

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フィリピンの思い出4 さり気に飾ってある ポストカード と 写真

2010-02-12 02:08:21 | フィリピン

 最近は、いや、最近も、我がシーズーむすめの記事ばかり続くので、久々にフィリピンのことを。。。

 日本に帰ってからも数回以上は引っ越しているので、そのたびに荷物の整理が大変で、なるべく荷物を減らしながらも、手放したくないものは前と同じような場所に置くようにするし、飾るようにしています。

 でも、慌しい引っ越しでそれらが何かの箱の奥に入ってしまって出て来ないまま、まさに箱入りになってしまいます。写真もそう。でも、運よく表に飾られている写真もあるんです(本人はすっかり眺めることもなく忘れていましたが)。

 それらをひとつひとつ見てみると、各々のフィリピンの風景がうまくハロハロ(まぜまぜ)されながらも、フィリピンらしいひとつのイメージを作っているなぁと思ったので紹介しましょう(すべて写真をデジカメでそのまま写したものなので画質は落ちますが、ご勘弁を)。

 

 まずは、マニラ湾の夕日。フィリピン人の友達が自分が撮った写真をポストカードにして送ってくれました。夕日の色が海に染まって本当に美しいのです。フィリピンに妻が来た時は、湾に浮かんだ水上レストランでエビのカラアゲとサンミゲルビールとグリーンマンゴジュースを飲みながら沈みゆく夕日と磯風の匂いを楽しんだものです。

 

 これはメトロマニラのあるルソン島のはるか北部山岳地帯にあるバナウェのライステラス、フィリピンの棚田です。協力隊の友達が自分で撮った写真をポストカードにして送ってくれたものです。日本では日本棚田百選とか言ってますが、そんなの笑ってしまうほど規模が違います。高度1500mの高地の谷の下から上までぜぇ~んぶ細い田んぼが階段のように詰まっています。2000年程前今でもここに住んでいるイフガオ族によって作られたと言われています。近くのバギオという同じく高度1500mのところにある高原都市に妻と行った時、そこから車で行こうとしたのですが、道を間違えて行きつけませんでした。かわりにマニラで軽飛行機の免許取得中の日本人の練習飛行に便乗して(恐~い)連れて行ってもらい、上空からかなりの時間セスナで眺めることが出来ました。本当にすごい風景でした。

 

 日本ではボラカイ島(ホワイトサンドビーチで有名)についで有名なリゾートアイランド、パラワン島のポストカードです。メトロマニラで習っていた英語の先生が旅行先から送ってくれました。フィリピン列島のちょうど真ん中あたりから西に真横に長く伸びた細長く大きな島で、石灰質でできているので雨水や海水で侵蝕された奇妙な形の島々の景色が圧巻です。ツバメの巣の産地としても有名です。
 エルニドのミニロックアイランドという日本人が開発したリゾートが有名で、マニラから専用の小型飛行機で行き、スタッフがひとりついてくれ、シュノーケリングからダイビング、アイランドポッピング、サンセットクルーズを兼ねた船釣りなど、色々なアトラクションのリクエストに応えてくれます。

 バンガボートを走らせて夕刻のトローリングをした時の写真です。小生はサワラを二匹ゲットしました。一緒に行ったみっちゃん、F局の特派員さん、お元気ですか。釣れたのは小生だけ。君らはボウズだったよねぇ~。ガハハ。

 

 これは、妻とメトロマニラからハイウェーで南下した郊外にあるロスバニョスというフィリピン大学ロスバニョス校に行った時、小生が撮った写真です。大学のそばに火山性の高さ1144mのマキリン山(Mt.Makiling)があり、そこに向かう道すがらに見つけた木です。ひとつひとつの葉が小さく分かれており、その葉脈がよく見えて印象的出した。最初はふもとを散策するつもりでしたが、登山がフィリピン大の学生のトレーニングとして行われていると聞いていたので、山登り好きの妻の誘いもあり、つい軽い気持ちで登り始めました。午前10時頃から登り始めましたが、周りはジャングル、時に大きなトカゲも見ました。どんどん道が険しくなり、頂上がなかなか見えません。ついに頂上前で強気だった妻がダウン。ほっておいてひとりで登ってくれという妻を置いて登り始めましたが、頂上に着いてみると、もう暗くなりかけたジャングルのような山の中でおいてけぼりになったほうが怖かった妻が必死で追いかけて登ってきました(笑)。結局、ふもとに帰りついたのは、あたりがすっかり暗くなった夕方7時頃。下で待っていたドライバーさんがすごく心配しており、普段温厚な彼から、遭難したと思い警察に連絡したほうがいいとまわりの人達と相談していたとこらだったと、一度きりですがひどく怒られてしまいました。その高さも知らずマキリン山を甘く見ていました。すみませんでした。

 

 これは、メトロマニラの東のラグナ湖北部の芸術家の町アンゴノのそばに住むフィリピン人の親友のうちを訪問し、その近くの沢ガニを食べさせるレストランに行った時、小生が撮った写真です。フィリピンの良き時代の古い家屋を利用したレストランで、2階は当時そのままの家具など残されています。そこの窓です。ステンドクラスのように見えますが、四角い小さな白い窓枠はひとつひとつ貝を薄く削ったものがはめてあります。フィリピン独特の窓です。

 

 最後は、高原都市バギオ(標高1500m)にあるバギオ教会の勇姿です。年平均気温20℃という過ごしやすい都市で、年中きれいな花が咲き乱れ、市場に集まる人々の衣装がまるで南米の民族衣装のようで、南米の高地に来たような錯覚を覚える街です。ちょうど20年前のバギオ大地震で憶えている方もいるかもしれません。これも妻とクリスマス時季に行った時小生が撮った写真で、さすがに気温も低く、空気も澄んでおり、空の深いブルーが印象的で思わず撮ったものです。ここは銀細工の工房があることでも有名で、妻に銀細工のギターのブローチを買ってあげたこともありますが、本人まったくアクセサリーに興味のない人間ですから、結局、まったくつけてもらえないままでした。ここの教会でたまたま開かれていたバザーで食べた生春巻きは野菜たっぷりで美味しかったことをよく憶えています。ちなみに日本にやってくるフィリピンの高原バナナの多くはここ産のものが多いと思います。戦後迫害を恐れて山の奥に隠れ住んでいた日系人救済事業として日本のNGOが助成した農園からのものもあると聞いています。

 いかがでしたか。これまで知らなかったフィリピン、見つけられましたか。当時はまだデジタルカメラなどなかった時代でした。あったら、あちこちバリバリ撮っていただろうと思います。

 

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フィリピンの思い出3  悲しい話  悲しいマスコミ

2010-01-31 15:06:18 | フィリピン

 最近、知人も小生のブログを読んでくれるようになったので、あえて書かせていただきます。いつも以上に長くなります(笑)が、付き合ってくださいね。

 もうニュースでご存知の方も多いでしょうが、1月29日午前、フィルピンのメトロマニ近郊のダスマリニャスという地域で、またまた、日本人男性が殺されました。友人のうちに行くためにジプニーという小さな乗合タクシーに乗り込んだ時、あとから入って来た3人の強盗犯に襲われ、逃げたところを4発も打たれ、即死状態だったそうです。

 フィリピンに詳しくない方は、フィリピン人って簡単に日本人他外国人を殺す国民なんだと、ますますもって思われたと思いますが、ちょっと待ってください。それは違うのです。

 薄々分かっている方もいると思いますが、まったくの純粋な観光でフィリピンを旅行する方は、海外を旅行する際の必要最小限の身を守る注意を怠らなければ、すりとか置き引きくらいの犯罪(これも結局は本人の不注意ですから、それを日本に帰って堂々と話すのは恥。陰で笑ってあげましょう)にしか遭わないのが当たり前です。

 滞在期間の長い日本人でも、過敏な程、常に注意を怠らない人はけっして小さな犯罪すら巻き込まれません。小生がそのいい例です。いつも目つき鋭く厳しい顔で歩いていましたし(よく他人に言われてましたし、他人には日本人よりも韓国人だと思われることが多かったです(笑))、危険だという場所には昼間にだけ行き、慣れて来てもけっして複数で出かけるようにし、夜は決して行きませんでした。外出時の格好も向こうで買った高くないジーンズにTシャツ(でも、しっかりアイロンはかけてパリっとしてあります)で、時計やネックレスなど値段に関係なく身につけませんでした。日本製のカバンなど以ての外です。日本人だと分かると金持ちだと思われますから。

 面白いことに、身のまわりの知り合いで犯罪に遭うのは、ふたつパターンがあって、ひとつは日本の会社や官公庁からの海外赴任組で、普段、しっかりガードされフィリピン人社会と隔離されたような生活をしている人たちで、まあ、上品なものを身につけたいかにも日本じ~んという格好をしていて、それで空港内で、つい日本的に手荷物を床に一瞬置いただけでもう荷物がなくなっていたというようなパターン。
 もうひとつが、いわゆるボランティアで来ていてがんがんにフィリピン慣れしている地元根ざし組で、普段大丈夫だからと、たまに油断したとたん殴られひったくられるというようなパターン。
 いずれも、ちょっとした油断で起こるパターンでした。殺されるというパターンではありませんでした。

 だいたいフィリピン人は、外国人をむやみに殺すことはありません。ちょっとしたお金のためにでも簡単に外国人を殺してどこかに捨ててしまうのは人気のタイランドのほうが遥かに多いのです。

 私が在比中にも、幾度か邦人が殺害されたということを聞きました。中には北関東からの観光客の中年女性とその息子が殺されたということで、まさかぁ、と非常に驚いたことがありました。

 しかし、事実が分かってみると、やっぱりなぁと納得してしまいました。

 実はそのふたりがフィリピンに来た理由は観光ではなく、中年女性が日本で知り合ったフィリピン人とエビの養殖を共同で行うその話し合いのためだったのです。要はお金がらみで、それでトラブッてしまった結果でした。小生から言わせるとフィリピンの事情を知らず勉強もせず、欲ばかりを先行させた結果に他ならないということです(ごめんなさい)。

 今回の1月29日の邦人殺害事件も、きっとお金がらみ、愛情がらみだと、かなり強く思います。

 きっとダスマリニャスに恋人か愛人を囲っていたのでしょう。そして、たびたびダスマリニャスを訪れており、地元民と同じようにジプニーに乗れるほどご本人は地元に慣れているとつい油断していたことでしょう。それでも地元では目だつカバンや携帯を持ち、ピカピカの時計やネックレスをしていたのかもしれません。


 でも、それでも普通はわざわざ3人のそれもガンを持ったギャングがあとをつけて乗り込み、4発も弾丸を撃ち込むようなことは偶然では滅多にありません。

 前述した親子殺人事件と同じように、きっと何らかの金がらみ愛情がらみが、その裏にはあるような気がします。いや、あるだろうと思います。きっとあります。

 亡くなった方には申し訳ないと思うのですが、もしかしたらその恋人か愛人の家族とのお金がらみの問題からとか、近所の人間からの嫉妬からとか、あるいは、他の愛人からの愛情がらみからかもしれません。それはフィリピンのある種の家族とかかわっていたことのある方なら分かるでしょうし、フィリピンについてあまり知らない方でも感づいて来たと思います。

 フィリピンは一つの国家ですが、国民国家というよりも、多種の家族の集まった国家だと思います。お金持ちであったり、日本では信頼し尊敬できる職業の方であったり、普通の庶民であったり、極端に貧しい人達であったりしても、その中でも家族によって大いにモラルが違い、どれがフィリピン人の典型的パターンだとは決め難いです。そして、それが多くの階層社会から成る国家では当たり前なのです。
 日本もわずか10年前に較べても、明らかにその兆候が表れています。給食費を払わない親、モンスターペアレント。理解できないというよりも、モラルが違うから当然なのです。

 残念ながら、国家が日本よりも信頼できず、どうあがいても滅多なことでは階級差を縮められる望みもない国では、極論を言えば信頼できるのは家族だけです。幸せになってほしいのは家族だけです。当たり前だと思います。多くのフィリピンの人達には他人に対してお互い様だからという相手を思いやる気持ちやマナーが欠如しています。親から伝えられる素地もないのですから、仕方がありません。自分と家族が喜べるなら、他人の心の動きなど読む本能はないのです。他人の心がどう傷ついているのか感じる力を持ちにくいのです。自分と家族を守るのは自分達だけで、他人ではないのですから当然だと思います。そして、私達がそういう世界に生まれていたなら、日本人だって当然そうなっていると思います。だから、よく考えず、頭を使わず、フィリピン人はどうのこうのと言う人ほど、フィリピンに生まれていたらそうなっていたのだとも思います。

 幸いにも、小生がある程度幅広い階層に渡って付き合えた人達は、少数の、お互い様の心を感じられる派の方達がほとんどでした。だから、そんな信頼おける彼らを逆反面教師として、その他大多数の人達のなぜそうなのかという理由も理解できたし、彼らの行動を否定できません。

 そして、話はちょっとずれますが、悲しいことに、頭を使いよく考えて情報を流さねばならない日本のマスコミ程、そうではないことが、フィリピンに関しては多いです。

 今回の事件でも、四大ネットワークのテレビ局のニュースで、駐在の記者の情報をよく聞きもせず、『バス』で日本人が襲われたと言っています。知らない日本人が聴くと大きなバスにギャングが乗り込んで来て人を撃ち殺すなんて、フィリピンはスゴイところだと思ってしまいます。バスではなく小さな庶民の乗る乗合タクシーのジプニーです。とにかく、日本のマスコミはフィリピンの悪いイメージを強調したがります。一般の日本人がフィリピンの悪いニュースを期待しているのだと勝手に決め付けています。心温まるニュースを送っても、日本側が悪いニュースではないからと、よいニュースは拾ってくれないと在住記者が言っていました。
 また、ある新聞にはその邦人はたびたびダスマリニャスの『知り合い』を日本から訪ねていたと書いてありましたが、なぜ、せめて『女性』と書かないのか不思議でもあります。プライバシーの問題でしょうか。日本に日本人の奥さんがいるからでしょうか。そうでなければ、堂々と女性と書いていたのでしょうか。日比を行き来する日本人男性とフィリピン人女性が存在するのは、ほとんどの日本人成人なら知っている既成事実であり常識です。マスコミがそれを隠してどうするのでしょうか。何かフィリピンの悪いイメージを強調する一方で、日本のダークなイメージは薄めようとするマスコミの独善性を感じてしまうのは、小生だけではないと思います。

 フィリピンでは、あなたさえ同じ感性の持ち主であるなら、次のような日本人やフィリピン人もたくさん存在します。フィリピンという国とフィリピンの人達を冷静に理解し、家族や親戚や友人達と良き関係を築く努力をし、皆でさまざまな困難を乗り越えながら、その地を永住の地として過ごそうと頑張っている日本人の方々が少なからずいらっしゃいます。また、自分と同じ感性を持つ日本人を応援し、利害関係を考えずに助け船をいとわないフィリピンの方々も少なからずいらっしゃいます。

 そういう方達を掘り起こし世間に示す努力をするのが、正義を標榜する真の報道人のあるべき姿のひとつでもあるのではないでしょうか。

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フィリピンの思い出2 不思議な体験 妖怪アスワン

2009-12-11 23:59:36 | フィリピン

    フィリピンでは、色々な人からアスワンのことを聞きました。知識層であろうが、庶民であろうがほとんどの人がアスワンの存在を信じています。

  アスワン(Aswang)というのは、フィリピンの妖怪のことで、いわば吸血鬼のような存在です。 彼らは昼間は人の姿をしているのですが、夜になると怪物の姿に変身して人間を襲って食べるのだといいます。特にお産の近い妊婦や不注意な旅人や眠っている人々を餌食にするために夜現われるのだそうです。 人間の姿から蝙蝠、豚、黒毛の犬などの動物の姿へ変身するのだといわれています。

「フィリピンの言い伝え」という分厚い学術書風の本の中のアスワンの話。
挿絵から恐怖の対象なのは明らかだ。

  フィリピンの東大に値するフィリピン大学ディリマン校の優秀な学生が、真面目な顔をして話してくれたことがありました。うちの近所にはアスワンの血を引く家族がいて、夜になると飛び立って人を襲うらしいので、まわりの住人は皆避けています、と。

  小生もにわかには信じられませんでした。フィリピンでフィリピンの方と結婚したりフィリピンの方とつきあっている日本人の中には、それを少々ばかにしたり、時代遅れのような感じでブログに書いている方も見受けられましたが、小生の場合もばかにはしないまでも眉つばものだよなぁとか思いながらも、でも、つい最近まで日本人だってきつねに化かされたとか話したり信じたりしていた時代があったし、そういう言い伝えを信じられるくらいそれを伝える長老達の話を真面目に聞いてあげられる国なんだなぁと羨ましくも思いました。

  ある時、フィリピンの長い休日が続く時期(ホーリーウィークだったかなぁ)に、ひとり家にいるのもなんなので同じく故郷に帰らずに暇をしていたフィリピン人の仲のよい友達5人と映画を見に行ったり、うちでデリバリーを注文して飲み喰いしたりしていました。
  それでも暇を持て余し始めたころ、車があるんだからどこか遠出でもしたいねという小生の一言から、友達のひとりが、じゃぁ、ビコールのおばあちゃんのうちに行ってみようかということになり、運転の得意な別のひとりが運転を担う形で深夜マカティを飛び出してビコール地方に出かけました。
  当初、皆でワイワイガヤガヤ話したり歌ったりして車中を過ごしていましたが、そのうちだんだんと眠たくなって小生は寝てしまいました。外が明るくなって来たころ、まだ車は走っていました。しかもノロノロ運転で道は非常に細く対向車に道を譲りながらの砂利道や崩れかけたような木の橋も渡ったりしています。
  ビコールが遠いことは知っていました。ルソン島はぱっと見は正方形に近い長方形ですが、よく見るとその南東部にはオタマジャクシの尾っぽのようにビコール半島が長くつながっており、その距離はメトロマニラから北のバギオへ行くよりも距離があります。バギオへはハイウェイ始め割合広い道路を行けるのですが、ビコールは違っていたのです。しかも、どうも今走っている道路よりもさらに細くて険しい横道に入ってジャングルのような場所におばあちゃんのうちはあるようなのです。うちの車は普通のセダン、三菱バジェロではありません。車の底に岩がガンガンなんてのはお断りです。オイオイ大丈夫なんかいと問うのですが、大丈夫大丈夫と言うその子を信じるしかありません。
  皆さんもお分かりの通り、予想の通りの道をもう小生は諦めを通り越して笑うしかないという心境で、車のガンガンいう振動の中、なんとかおばあちゃんのうち、というかジャングルの中のロビンソンクルーソーの隠れ家のような小屋にたどり着きました。まわりに数軒ほど親戚の小屋があるだけで、まわりは鬱蒼と茂る熱帯雨林に囲まれたところです。着いたのは夕方でしたが、夜になるとランプの灯りだけであたりはまさに漆黒の闇です。その小屋を借り切る(タダですが)かたちで皆で料理を作り、ランプの下でトゥバというヤシの樹液を発酵して作ったややすっぱい地酒を飲みながら酒宴が始まりました。友達のひとりが、夜は大声でフィリピノ語や日本語で話さないほうがいいよと言いました。この辺はゲリラが今でも潜んでいる場所だからということでした。一瞬、おいおい、なんてところに来たんだと思いましたが、今更怖がっても仕方ないし、こんな貴重な体験は滅多に出来るものではないと思うと、幸せな気持ちのほうが優って来ました。

  酒宴も終わり、皆で洗いものを済ませ、竹の敷かれた高床式の床にそれぞれが雑魚寝をする形で寝ました。翌朝、小生は皆がいそいそと朝ごはんを作る音で目が覚めました。でも、何か違うのです。彼らは時々、メトロマニラ・オルティガスの自宅に皆で泊まって遊ぶことがあったのですが、そんな時は小生が一番最初に目が覚め、お手伝いさんが朝ごはんを作ってくれたのを待って、なかなか起きて来ない皆を起こすほうなのです。それが、今日は陽が出たばかりの早朝に皆で起きてそわそわ急ぐように仕事をすすめているのでした。珍しく感心だね君たちは、よく眠れたの?と聞くと、皆が一斉に、昨晩は一睡もできませんでした。あなた(イカウ)はよく眠れたんですか?昨日は寝付いたと思ったら、何かが床をどんどん蹴り上げて来てそれが一晩中続いて眠れなかったんです。イカウの他は皆そうだったんです。きっとアスワンです。私達よそ者を脅そうとしたんですよ。だから、早く朝食を済ませて出ていきましょう。友達たちはいつもはとても冷静で都会的な人間ばかりです。それが明らかに顔は青ざめ、決してうそをついている風ではありませんでした。小生は信じることにしました。

 

  その事件を忘れかけたころ、ある年のクリスマス休暇の時期、ひとりでメトロマニラで過ごすのは絶対に嫌だったので、フィリピン中部のセブ島の左横にあるイロコス島の南東部、フィリピン随一といわれるダイビングスポットのある地方都市ドゥマゲテに出かけて年を越すことに決めました。ダイビングをするというよりも、そこでダイビングショップと小さなコテッジを経営するふたりの日本人の友達のところに出かけて行って、日本からの宿泊客をもてなす手伝いを勝手に買って出たのです。
   お客様達に食事を運び、サンミゲルビールを酌んで差し上げ、フィリピンの色々な話題を提供しながら、ニューイヤーズイブのカウントダウンとともに大音響で飛び交う花火や爆竹の音をヤシの木の向こうに観賞したあとは、明日のダイビング前の十分な睡眠確保のために、明日早くセブに向かうためにと、皆、それぞれの理由でコテッジに散って行きました。
    翌朝、ひと組の中年に近い年頃の夫婦が朝食のために食堂に入って来るや否や、この島には猿がいるんですかとオーナーに聞いて来たのです。オーナーはこのあたりに猿がいるとは聞いたことがないと答えます。でも、その夫婦は昨日の晩は一晩中屋根の上で何か分からないが動物がドンドン飛び跳ねて明け方まで眠れなかったというのです。奥さんのほうがひどく感じ、起きると音が止むので頭のいい猿かなあと思ったそうですが、誰かを呼ぼうと外に出ようとすると静かになるし、こういうことは南国では当たり前なのかなぁと思いながら、静かになった明け方ころにいつのまにか眠っていたそうです。
  小生はその言葉を聞いたとたん、あっと思いましたが、その時は口を開きませんでした。お客は信じないでしょうし、信じたとしたら気持ち悪がられて二度と来てくれなくなるかもしれないととっさに思ったからです。

   その客を空港まで見送ったあと、さり気にオーナーに聞いてみました、アスワンじゃなかったのかなぁ、と。小生は期待していなかったんです。そうしたら、オーナーがいいました。うん、実はそうなんだ。なぜかあそこに泊まった客のほとんどがそう言ってくるんだよ。しかも、起こるのは、翌日ここを去るという前の日の晩に限ってね。

    小生はアスワン始め、そういう経験がほとんどない人間です。鈍いのかなあと思います。でも、日本に帰って来てある時、ある霊媒師に言われたことがあります。小生の左肩には何が分からないのだけれど、日本のものじゃない南洋の物の怪のようなものがちょこんと停まっているよ、害は与えないけど、と。

  あなたは信じますか、これらの話を。
  
ほ・ん・と・うのことなのですよ。
  
私が保証しますから。

宗教、英雄等の291もの言い伝えの中に
アスワンの言い伝えが9つ書かれてあった。

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お詫び: フィリピンの思い出1-3 について

2009-10-31 10:52:12 | フィリピン

お詫び:

 非常に身近な人から、フィリピンの思い出シリーズは表現が下手で、くどすぎて、読むのが疲れる、と指摘された。その通りです。自分もそう感じてましたが、訂正するのが面倒だし、眠いしで、つい、そのままUPしてしましました。

 修正してみたので、暇なら、もう一度、目を通してやってください。 ↓↓↓↓

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フィリピンの思い出1-3  スローモーション③止 - 改訂版 -

2009-10-31 01:05:13 | フィリピン

  を見ると、次の物乞いがやって来るのが見えた。老人と見間違えるほど体がしなびたその物乞いの男は、若い女に片腕を組まれながら私の車に近づいて来る。そこで、私はいつものように片腕のこぶしをウインドガラスの横に持っていき、中指の第二関節の背でガラス面をノックする準備をして待っていた。
  すると、その物乞いのうしろからひとりの少年が歩いてくるのが目に入った。小三か小四ぐらいの歳だろうか、着古して虫食いの穴も分かるようなTシャツに、これも洗濯しすぎて色あせた半ズボンにゴム草履を履いた格好の典型的な物売りの少年であった。顔には鼻と口を覆うようにタオルを巻いているのだが、それを完全に首まで落としたままにしている。片方の腕で手作りらしい長方形の木製の道具箱を抱え、区切られた枠の中には封のされたタバコのパッケージが5つほど入れてある。もう1箱、封をきれいに開けてタバコが1本ずつ取り出せるようにしたものも入れてある。どこにでもいるタバコのばら売り少年であった。
   彼はおそらく近所のスラムに住み、収入のほとんどない親の代わりに小学校の授業が終わったあとの時間をタバコ売りをして家計を支えているのだろう。フィリピンの公立小学校は半日交代制で、午前のクラスと午後のクラスに分かれているので、今日も午後から深夜過ぎまで半日以上は排気ガスにまみれて道路に立ち続けていることだろう。
   その彼は、普段ならマレー系の子供独特の愛くるしいほどの輝く瞳と笑顔を見せているのだろう。しかし、仕事中は他の物売りの子と同じように瞳はメトロマニラの街灯のもと鈍く光るだけで、顔も能面のように無表情のまま、物乞いの男の横をすり抜けようとしていた。
  少年はまっすぐに前を見て物乞いを見ようともせずにそれを追い越そうとしていた。物乞いはというと、ただ弱々しく片腕の肘を直角に曲げて手を前に差し出し、摺り足でゆっくりと歩いている。
 と、その時、まさにその出来事は起こった。突然、少年が鳥のクチバシのように自分の小さな指先で物乞いの手の甲を素早くコンコンとつついたのである。すると、すかさず物乞いは手の甲を返し手のひらを少年のほうに差し出した。少年の指先からコインがひとつ載せられる。すばやくそれを受け取った手は閉じられる。少年からも物乞いからも何ら表情の変化はないまま、まるでふたつの無機質な手のやりとりだけが一瞬行われ、一瞬のうちに離れていった。
   とたん私は脳に一瞬閃光が走ったのを憶えている。と同時に、目の前で起こったその一連の動作が、まるでスローモーションのようにゆっくりと私の頭の中に映し出されていった。私のノックしかけていた片腕もゆっくりとバックシートの上に落ちていき、体もスローモーションのようにバックシートの背もたれに引き寄せられていった。
  まわりの音が消えた。聞こえ出したのは私の心臓の音だけだった。バクッ、バクッと胸を打つ。苦しくてたまらない。心が痛くてたまらなくなった。動き出した車の振動が背中をつつく。私は何も反抗する力もなく、車の振動に深く身をまかせるだけだった。身体自体が重りになって私の心に覆いかぶさってきた。その晩の記憶はそれだけしかない。
  無宗教の私には、フィリピンのカソリックがどういうものかよく分からない。長い歴史の中で培われて来たものだから、分かるはずがないのだ。しかし、この出来事で、私はフィリピン人にとってのカソリックの存在理由というものが少し分かった気がしたのだった。
  そして、これが、いつまでも私の脳裏に焼き付いて離れない大切な記憶なのだ。

  
 
   

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LRTって知ってますか。 その2

2009-10-29 21:25:34 | フィリピン

  広島で開かれるLRT都市サミットの概要だけ見ると、知らない人にはLRTが路面電車のことを言っているように勘違いされるのではないかと心配になってしまう。しかし、路面電車はそのひとつにすぎない。

 小生にとって、LRTと言えば、すぐにメトロマニラの高架鉄道が頭に浮かんでくる。

 すでにフィリピンでは、24年も前の1985年にはLRT(Light Rail Transit)が走り出していたのだ。マニラ湾沿いの南北に走る幹線道路の上を高架で走っているので、道路の混雑がぐっと緩和されたという。

 小生が小さい頃は首都はケソンシティと習ったが、その後マニラに戻ったと言われていた。しかし、正確に言うとマニラに戻ったのではなく、メトロマニラになったのである。

 マニラとはオールドマニラとも言われるマニラ市のことで、そこから首都圏は始まったが、今はどちらかというと下町っぽく外国人観光客相手の観光スポットや歓楽街や中華街があり、寂れた感じの場所だ。
  そのやや北西部に政府機関やフィリピン大学のメインキャンパスであるデリマン校などのあるケソン市がある。
  また、マニラ市のやや南東部にはアラヤ財閥によって開発された超近代的な現在の経済の中心であるマカティ市があり、こちらには日本人初め、多くの海外駐在員が暮らすハイソな街がある。

 つまり、それらの市を含めた14の市と3つの町がひとつのなってメトロマニラという国家首都地域に重なる首都圏を成しているのである。

 メトロマニラの形を分かりやすく説明すると、それは南北が長い長方形と考えてほしい。そして左の長い辺がマニラ湾に臨み、右の長い辺はラグナ湖というフィリピン最大の湖に沿っている。つまりマトロマニラはふたつの水域に挟まれた長方形の土地である。
 そして、左の長辺に沿って前述したLRTが走っていると考えてほしい。次にその長辺をアルファベットの大文字のDの第1角目の縦線とし、そこに第2角目のCの逆のアーチを描けば、それがエドサ通りという東京で言えば環八のような環状道路が走り、それに沿って上にケソン市、下にマカティ市、その間にもクバオやオルティガスという商業地区が点在し、そして、小生がいたころには、そのエドサ通りが大渋滞地域となっていたのである。朝から晩までひどい渋滞で時間が読めず、エドサが渋滞していたので遅刻しましたという言い訳が通る状態であった。

 前置きが長くなったが、そこに、8年前の2001年にLRTに続きMRT(Mass Rail Transit)という高架鉄道が走り始めたのである。これは当時まさに大革命ではないが大事件であった。その後、2004年にはDの字の真ん中を横に貫くLRT2も出来て、これはその1で述べた 『市内をぐるりと環状に走らせた路面電車の路線を基軸に、その中に縦横に他の路線を走らせればいい』という状態に一致しているのである。

図がぼけているが、左側の黒い縦線がLRT。そこからD型に走る
ピンクの線がMRT、同じくピンクでDの字を貫くのがLRT2。
その他は現在建設中や予定の線。地下鉄ではない。高架鉄道電車である。

 ましてやそれが路面電車と違い高架であることが、よりLRTの速達性、快適性の理想に近いということにあり、今後も放射状にどんどんLRTが作られる予定である(ただし、かなりの部分が外国からの、しかも皮肉なことにLRTで遅れをとる日本からの援助からなっているのだ)。

  

現在のLRT,MRTについては、以下を参考のこと。
   
http://www.pasco-ph.com/main/index.php?pid=421

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フィリピンの思い出1-2  スローモーション②

2009-10-29 19:30:42 | フィリピン

  見ると、三車線に並んで発車を待っている車の間を、いつもの物売りの男達やタバコ売りの少年らに交じって、片手に空き缶を持った物乞いらしき姿があるのが薄暗がりの中でなんとか分かった。五、六組はいるだろうか。
 「サー、あれはこの近くの目の不自由な者たちが共同生活している 国の施設から出て来ている者達なんですよ。付き添っているのはその家族です。クリスマス前のこの時期だけ、公に物乞いが許されているんですよ。」
と、ピーショーさんは吐き捨てるような口調で言った。
 クリスマスシーズンに限らず、物乞いが車に寄って来るのには既に慣れてしまっていた。外からコンコンとノックするのが合図だが、それに対してコンコンと合図を返すと、それは小銭を与える気はないという意味になり、物乞いも速やかに離れていくのだ。初めの頃はどうしようか迷うこともあった。しかしそんな時、ピーショーさんが、物乞いはあれで私達庶民よりけっこう儲けており、彼が仕事を終えて帰る途中、雑貨屋でたくさんのコインを紙幣に両替してもらっている物乞いの姿を見てショックを受けたことがあったこと、だから、私ひとりが与えようが与えまいが何ら関係ないこと、与えるのは普段あくどく儲けている金持ち連中がすれば
いいんだというようなことを言ったことがあった。私はその言葉を助け舟のように受け取り、それ以後、コンコンと来ればすかさずコンコンと返すようになり、いつしかそれが条件反射で出来るようにもなっていたのだった。

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LRTって知ってますか。 その1

2009-10-29 19:10:07 | フィリピン

 明日30日(土)と31日(日)に、広島で『LRT都市サミット広島2009』が開催される。

 ということで、LRTってご存知だろうか。LRTとは『Light Rail Transit の略で、定時性・速達性・快適性などに優れ、人にも環境にもやさしい路面電車』のことである。そして、そのサミットには、『地球環境にやさしい都市づくりを目指し、公共交通振興のための都市連携強化『を目的に、路面電車のLRT化に取り組んでいる国内の11の都市の首長が集まり、話が持たれるのだ。

 路面電車はバスや自家用車に較べて遥かに排出される二酸化炭素が少なく環境にやさしい。快適性や人へのやさしさについては、独特の揺れや軋むような音や誰にも乗りやすいバリアフリー化は、少なくとも広島では新型車両では進んでいるし、電停まわりの環境改善なども行われて来ている。

 しかし、速達性については、道路を車と共有していろことが大きなネックとなっていると思う。実際、広島市内では結構信号待ちが多くて、しかも待ち時間が長いので出勤時などはイライラすることが多いし、各駅に必ず止まるものであるからなおさらだ。小生はいくら路面電車が安いといっても、バスと同時に来ると必ずバスを利用してしまう。

 いっそのこと、業務用の車を除いてバスも自家用車も市内中心部から排除してしまい路面電車だけにすればいいと思う。そして、市内をぐるりと環状に走らせた路面電車の路線を基軸に、その中に縦横に他の路線を走らせればいい。そして、いくつかの環状線の駅の外側に定期バス(電気バスが理想であるが)の発着センターを設けて、そこから郊外へのバスを走らせればいいと思うのだ。

 しかし、本来のLRTとは、いわゆる路面電車に特定されたものではない。このことは次回、なんとフィリピンと絡めて話したいと思うので乞ご期待?!

 

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フィリピンの思い出1-1  スローモーション①

2009-10-28 07:12:07 | フィリピン

 誰しもが、長く生きていれば脳裏に焼き付いて忘れられない映像が、ひとつやふたつはあると思う。
 太陽も少し前に沈み、疲れ果てた体を車の後部座席にもたれかけたまま、ケソンシティーの職場から6㎞ほど離れたオルティガスアベニューの自宅に帰る途中のことだった。私は信号待ちで止まった車の窓ガラスを通して、夕闇に包まれたカティプーナン通りの家々の黒い陰とチラチラとそれに対抗するように瞬くイリュミネーションをぼぉっと見ていた。と、窓の外に突然、トントンとガラス叩く音とともに人影が覆いかぶさってきた。私は驚くこともなく、反射的にトントンと窓の内から叩き返す。すると、人影はさっと横に移動していき、私のうしろの車の横でしばらく止まる。
 「サー、もうすぐクリスマスですね。物乞いが増えてきましたよ。」
と、ドライバーのピーショーさんがフロントガラスの前方をアゴで示しながらしゃがれた声で言った。
 

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フィリピンの思い出0

2009-10-24 07:55:15 | フィリピン

 フィリピンは第二の故郷だ。とは言っても、マニラを離れてからかれこれ10年以上は経ってしまった。その間に幾度も再訪しようと思いながら、時間や生活の余裕がなく果たせないままでいる。かの地で知り合った多くの友達。会えば心を許して話せるだろう彼らとのつながりも、年々細くなっていく。それら友たちとの出来事も含めて、フィリピンでの5年間の生活で印象に残っていることをランダムに、思い出せるうちに、今後、少しずつでも書いて行こうと思っている。それが、いまだ衰えない彼らとフィリピンへの感謝の気持ちでもあるからだ。

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アドボって知ってますか?

2009-10-14 15:59:02 | フィリピン

  昨日、料理の食材に鶏むね肉を使うと書いたが、むね肉はササミやもも肉よりも値段が一般的に安いし、実は、バテやすい体によい成分が他の部位に比較して一番豊富にあるのだという。
 小生がむね肉を使うのは、主にアドボを作る時だ。アドボっていうのは、フィリピンの代表的国民料理の名で、アドボ(Adobo)という言葉は「煮物」という意味だ。だから、鶏肉のアドボは正確にはアドボン・マノック(チキン・アドボ)、これが豚肉だとアドボン・バーボイとなる。酢や醤油、ニンニクを利かせた「煮込み」料理なのだ。
 フィリピンは東南アジアにあるので、多くの日本人はタイやインドネシアのように香辛料の効いたスパイシーな辛い料理が多いと思いがちだ。しかし、実は、辛い料理はほんの一部の地方にしかないのだ(ルソン島の南端のほそい半島にあるビコール地方のビコール・エクスプレスという唐辛子の効いた料理だ。辛くて急行列車のように走り回るからだろうか)。それどころか、どちらかというと沖縄や日本のように、塩、しょうゆ、魚醤などで味付けした親しみやすい味なのである。それに、日本人は魚や米食が日本人の特権のよう言うが、フィリピンの人のほうが魚や米をより多く食べていると思う。地理的に九州の下は沖縄、沖縄のすぐ下は台湾、そして台湾のすぐ下がフィリピンであることからも、なぜか頷けるというものだ。
 さて、なぜ小生がアドボを知っているかというと、実はもう10年以上前になるが、仕事で通算5年ほど首都メトロ・マニラに住んでいたことがあるからなのだ。日本より気温の高いフィリピンでは、いつも小生は酸っぱいものを食べたくなる傾向にあった。日本に帰ってからも夏はそうだ。酢豚をよく食べていた。酢は爽やかな口当たりだし、夏の疲れた体が食べてくれと要求してくるのだ、なぜか。
 フィリピンのアドボは、ニンニクと油で手羽先肉を炒めたあと、玉ねぎを加えて炒め、それに酢と醤油とコショウを加え、水分が飛びやや粘りが出るまで煮込む。野菜はあまり入らない(フィリピンは今でも野菜がべらぼうに高い。庶民はビタミン類は豊富な果物類で摂るほうが経済的なのだ)。
 日本での小生は、野菜をたっぷり加える。玉ねぎの他に、ニンジン、きのこ、枝豆、ミックスベジタブル、オクラ、ナス、じゃがいも、さやいんげん、刻みネギなども入れる。
 それにゆで卵は絶対に入れる(味が染みて、タラガン マサラップ ナマ~ン。本当においしいのだ~)!!
 味付けは、酢と醤油がフィリピンのものと違うので、それらに顆粒ダシと砂糖を加えて味を調整する。もちろん、にんにくはたっぷり入れるし、それ以上に黒コショウを入れると風味が増すのだ。

もともとスペイン料理のアドバード(肉の漬け焼き)が起源だ。


 できたアドボは、平皿に白米(あるいはガーリックダイス)といっしょにのせて、ごはんと少しずつ混ぜながら食べるのがいい。
 もちろん小生は白米は食べないので、その代わりにやはり豆腐をのせるのであった(嬉)。
 どなたか、ぜひ一度作ってみて、感想でも聞かせてくださいネ。

 

左の丸いものがゆで卵。上の白いものは、白米代わりの豆腐。

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