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そこで行われたのが、補助艦保有を抑制する1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮会議である。昭和天皇は、この会議が平和につながると期待した。
同年3月27日、昭和天皇は《御学問所において内閣総理大臣浜口雄幸に謁を賜い、ロンドン海軍軍縮会議の経過大要及び本問題解決に関する所信について奏上をお聞きになる。それより浜口に対し、世界の平和のため早くまとめるよう努力せよとの御言葉を賜う》(17巻40頁)
だが、交渉は難航した。日本側が対米70%の補助艦保有比率を求めたのに対し、米側は62%を提案、双方の隔たりはあまりに大きかった。結局、69・75%で妥協点に達したが、主力となる重巡洋艦が約6割に抑えられたため、海軍軍令部は「7割でなければ国防上責任が持てない」と猛反発。政府の決定が上奏される前に軍令部長が反対意見を上奏しようとしたのを、侍従長が2日遅らせる騒動まで起きた(※2)。
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いわゆる統帥権干犯問題が議会で火を噴くのは、その後である。4月25日の帝国議会。政友会の鳩山一郎が質問に立ち、政府を激しく攻撃した。
「政府が軍令部長の意見に反し、或は之を無視して国防計画に変更を加へたと云ふことは、洵(まこと)に大胆な措置と謂(い)はなくてはならない。(中略)全く乱暴であると謂はなくてはならぬ」
大日本帝国憲法下では、軍の作戦や用兵は政府から独立した統帥権(帝国憲法11条)であり、海軍軍令部長(陸軍は参謀総長)が天皇を補翼(ほよく)する(※3)。一方、兵力量の決定は統帥権ではなく編成大権(帝国憲法12条)とされ、軍政を担う海相か陸相が輔弼(ほひつ)するのが慣例だ。しかし、政友会などは統帥権であると拡大解釈し、倒閣運動の材料としたのである。
政党が党利党略に走るとき、国家は危機に陥る。以後、軍部は政治が関与できない統帥権を振りかざし、やがて政党政治は終焉する。それを招いたのは、政党自身だったといえるだろう。https://www.sankei.com/article/20190105-VBI3ZL5VCRJDHBIYESK7K7MTN4/