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関東大震災後に活躍した「バラック装飾社」について

2023年08月18日 | 読書ノート

関東大震災後に活躍した「バラック装飾社」について


参考書籍:『藤森照信・著「日本の近代建築(下)」―大正・昭和篇―』

(岩波新書 1993年11月22日発行)

<本書について(本書より)>

明治の時代とともに展開した近代建築も、大正に入ると大きな転機を迎える。第二次世代が登場し、彼らは建築とは何かを内省し、社会性、技術の表現、実用性などのテーマを発見する。新しい感性に目覚めアールヌーヴォーを手がける。昭和に入ると、モダニズムの影響のもとに第三世代が花開き、ファシズムの洗礼を経て、その流れはいまに続く。

<著者・藤森照信氏について>

1946年長野県に生まれる. 1971年東北大学工学部建築学科卒業. 1978年東京大学大学院修了. 建築探偵、路上観察という独自の活動を展開した. 東京大学名誉教授、専門・日本近現代建築史、現在・江戸東京博物館館長.


○ここで「バラック装飾社」を語る背景

 自分の出身地・高崎市(群馬県)にゆかりのある建築家ブルーノ・タウトについて建築史の位置づけを再確認しようと手元にあった本書「日本の近代建築(下)」をあらためて読んでいたら、以前はほとんど興味なく素通りした「バラック装飾社」のことが目に止まり惹きつけられてしまった。ここに面白いと思ったところをメモしておく。(ゆえにブルーノ・タウトについてはまたいつかまとめる。)

 もともと二〇世紀初頭のモダニズムに興味があった。特にバウハウス(1919年・ドイツ、ワイマールで始まるデザイン運動)は1990年代に異業種協業を目指した東京クリエイティブで故・柏木博さん(武蔵野美術大学名誉教授)から直に学び、モダンデザインについてある程度の知識を持っていた。しかし、「バラック装飾社」とその主体である今和次郎(こん・わじろう、1888-1973)のことは知らなかった。それが伝統的建築の流れを重視する歴史主義派に抗いどこまでも分離しようとするうねりの中にあって、1923年9月1日に発生した関東大震災の被災を背景に復興と生活に寄り添うモダン建築の一つのスタイルを生み出した点に心揺さぶられた。バラック装飾社と今和次郎は「(引用)美は世相風俗の表皮に宿るという思想」(カッコイイ!)を持ち形式にこだわる歴史主義派や機能主義を追求するバウハウス派などの表現派と一線を画した。


○「日本の近代建築(下)」をもとにモダンデザインの系統を整理する

 まず、19世紀末にアール・ヌーヴォーという「植物」にインスピレーションを得たデザインが口火を切り、続いて1910年代には初期表現派やキュビズムよる建物の壁面を「鉱物」の結晶のように表現する手法が採用され、1920年代に入ると科学技術の時代を表現したデ・スティル(オランダ)、ピューリズム(フランス、純粋主義)、バウハウス(ドイツ)などの白と直角の「幾何学」を用いたデザイン潮流が生まれ、さらにミース・ファン・デル・ローエ(20世紀のモダニズム建築を代表するドイツの建築家)の「数式」のような抽象性に至る。ちなみにブルーノ・タウトはこの時点ではクリスタルイメージを持ったドイツ表現派の流れに位置した「ガラスの家(1914年)」を設計している。

 ここでは深く触れないが著者(藤森照信氏)によれば、モダンデザインの成立プロセスは「植物→鉱物→幾何学→数式」と展開され、自然界の四層という基本的構造に則っているとする面白い理解の仕方を定義づけている。

 さて、本書では余計な装飾を省き白や直角を主にした機能的表現こそ美しいとするデザインを、「モダニズム」とか「インターナショナルスタイル」と称して風土性や国籍がないと説明しており、これはそもそもデザインの持つ性格にデザイン自体が差別性を排するユニバーサルなものだとする考えに等しい。また著者は「引用)モダニズムの訳し方で、『近代建築』と直訳すると、明治以降の歴史主義を主体とする日本の近代建築と混同してしまう。モダニズムを訳すなら『国際近代建築』がふさわしい。」としている。


○建築の歴史から離脱を目指す分離派

 過去の建築圏からの離脱をめぐり、新たな建築的表現を目指したのが分離派(大正時代、若手インテリゲンチャ6名による集団「分離派建築会」は日本初の建築運動となった)であり、さらにその運動に抗す形で誕生したのがバラック装飾社である。バラックとは、「ありあわせの材料を用いて作った粗末な小家屋。仮小屋。(コトバンク)」「空地や災害後の焼け跡などに建設される仮設の建築物のこと。(Wikipedia)」である。今和次郎は同志たる吉田謙吉(よしだ けんきち、1897-1982、日本の舞台装置家、映画の美術監督、衣裳デザイナー、タイポグラフィ作家)と共に、大正12年に起こった関東大震災の焼野原を歩き焼け跡に立ち上がるバラックの中に人々の仮小屋作りの工夫と健気な暮らしぶりを見出し(引用)人間が家を作り暮らすことの始源の状態を見た。

 運動体として行動する分離派は創宇社を結成するが、「(引用)中心メンバーは分離派メンバーの下で働くドラフトマン―製図工―の階層であったことから社会意識が強く、かつ権威に対して反抗的」であった。彼らは創宇社と別の行動に至る中で関東大震災で被災した人々が朽ち果てた自分たちの家に雑草のごとくバラックを建て復興への道を歩む風景を見て、バラック装飾社を立ち上げるのである。そしてバラック装飾社のような小会派はこの後次々に結成され、大正から昭和初期のモダンデザインの進展に一役買うことになる。


○バラック装飾社について

 バラック装飾社は焼け跡に向けて運動を開始し次のようなビラを配り始める。「(引用)今度の災害に際して、在来から特別な主張をもつてゐる私達は因習からはなれた美しい建物の為に、街頭に働く事を申し合わせました。バラツク時代の東京それが私たちの芸術の試験を受けるいゝ機会だと信じます。
 バラツクを美しくする仕事一切―商店、工場、レストラン、カフェ、住宅、諸会社その他の建物内外の装飾。
一九二三年九月(大正12年)
バラック装飾社(参加者名、住所等略)

 バラック装飾社はバラックを美しくする仕事の一切を引き受けるべく結成した運動体となり、日本人の率直な気持ちに反応しつつダダ的に突っ走る建築を推し進めていく。(※ダダ:特有の意味性の解体、破壊や否定の精神を持った反美学的姿勢、既成の価値観の否定などを特色とする20世紀前半の芸術運動。)「(引用)焼け跡のデザイナーとなった今和次郎に対し、建築界の反応は冷やかで、おおかたは一場の座興として無視したが、分離派の面々はことの本質を見逃さず、たちまち反応する。(略)…野蛮人の装飾をダダイズムでやった」ことを感知する。分離派内部では求めることの違いによって罵ってみたり、世界を導く建築デザインの主流にならんとする自負を揺るぎないものにすべく、新しい時代に向かう誇りを胸に抱きつつあらたな創造をわがものにしようと挑戦した。


(バラック装飾社の代表作:カフェ・キリン 本書より)

○その後のバラック装飾社

 昭和三年末には帝都復興がほぼ完了したゆえなのか、その「前衛」たるバラック装飾社の仕事はすべて消えてしまい、当初10余件を数えた案件もおそらくひとつも残っていない時期を迎える。焼け跡のバラック商店を飾る仕事と都会の繁華街という消費の場では美のあり方が違うのである。

 バラック装飾社は、分離派の本質を「(引用)人間の美の魂の讃美」と規定した上で、自らは「(引用)世相を、生活を、そこで醸さるる人々の気分を」把むことに使命を見出している。当時のモダンデザインは、技術の進化による大量生産に着目し、機能的で合理的な生産の場・工場の空間を念頭に理論形成をして来た。しかし、さらに着目すべき点には、生産に対する「消費の空間のデザイン」のあり方を考慮する問題があったのだが、この時点でそれに気づいていた今和次郎とバラック装飾社は時代的には早すぎたのである。

 こうして昭和初期の表現派、歴史主義派のにぎやかな展開後、これらと一線を画した分離派・「バラック装飾社」の運動は短期間で終了する。その後に勢いづく初期モダニズムを支えた三派(後期表現派、バウハウス派、コルビュジエ派)の活動に対して、その直前に人々の暮らしに根差そうとするモダンデザインの小会派の潮流があったことはあまり表に出てこない。が、生活を豊かにするというデザインの持つ力(チカラ)を踏まえ、その価値について考える上では「バラック装飾社」のことは見逃せず、記憶しておく必要があるだろう。

 

(おわり)



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