昨日1月2日、尾長の聖光寺に貞国の狂歌碑を訪ねてみた。広島駅北口を出て徒歩10分、爺様の掛け軸を伝えた母方の家も戦前は尾長にあり、今も二葉の里に墓があることから、私も少しは土地勘があって迷うことはなかった。山門の額に廣島山と見える。
この場所は昔は瑞川寺というお寺で、昭和50年聖光寺と合併した時に山号は瑞川寺の廣島山を引き継いだ。廣島山の由来については、毛利輝元公が広島と命名した際に瑞川寺に宿泊して山号を改めたと書いたものや、江戸時代衰退して国泰寺の末寺となった際に廣島山となったという説があるようだ。
山門をくぐって左手に大石内蔵助父子の遺髪を納めた供養墓が見えたがまずは歌碑を探さないといけない。少し進むとテントがあって、女性の方が対応していらっしゃった。御朱印300円とあったのでお願いしたら、書置きで日付も入ってなかった。しかし今日はこれが主目的ではないから仕方がない。
このテントで歌碑について聞けば良かったのだけど、だいたい「栗本軒貞国」を音で聞いたこともないし誰かに話したこともない。軒号は音読みのようだから、これは「りっぽんけんていこく」という私の認識だけど合ってるだろうか。そして、そう言って通じるだろうか。それでわからなければ「福井貞国」か爺様の掛け軸にあった「栗のもとの貞国」か、あるいは狂歌の歌碑と言った方がいいのか。しかし狂歌も日常会話で音として聞くことは滅多にない。かえって面倒な気がしてまずは自分の足で探してみることにした。今考えると、どのような反応が返ってくるか聞いてみるべきだったと思う。
明治41年、広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」の中に歌碑についての記述があり、金子霜山の墓や梅園介庵の碑がある場所とあったのでそれを目印にして進んだ。少し坂を登って、正面の墓地を右に折れたところに梅園介庵の碑はあった。しかし、貞国の歌碑は見当たらない。霜山の墓は墓石がなくなっていて、嫌な予感がした(追記:これは私の無知によるもので、霜山の墓は土饅頭型の儒式ということのようだ。)。周りの小さな墓石を探しても、該当する物はない。一段高い丘の上には金色の聖光観音様がある。ここは一度心を落ち着けて観音様にお参りすることにした。南無や聖光観世音菩薩、我を貞国の歌碑へと導かせたまへ。私も阿武山の観音信仰を調べるうちに、少しばかり信仰心が芽生えてきたのかもしれない。
下へ降りて本堂のあたりも探したが、歌碑は見つからない。しかしこのお寺は曹洞宗というけれど、金色の観音様が丘の上、本堂には十一面観音があり、逆に達磨さんは見つからなくて禅宗という感じは薄い。一般の墓地にも奥都城と書いた神道の墓もある。この一般の墓地を眺めたことが私にとってはラッキーで、墓地の入り口右側には瑞川霊苑と書いた石、左側の背の高い石碑が貞国の歌碑だった。しかし何の案内も説明もなく、歌が彫ってあることに気づく人はまずいないと思う。私もこの石段のところを二度三度通過して気付かなかった。
(瑞川霊苑入口、石段の左が貞国歌碑)
貞国の歌碑を見るのは初めて。いや、きっかけは本人筆の可能性もある掛け軸であったけれど、それ以降は書物オンリーであったから、歌碑の前に立って感慨深いものがあった。けれどもさすがに二百年近い歳月が流れていて、歌は読みにくい。前面は後回しにして、側面、背面から見てみよう。
まずは、正面から見て右側面、「行年八十翁」とある。大野町誌には八十八翁とあるが、何度見ても八十翁、写し間違いだったようだ。これで八十八歳は消えて、八十と八十七が残ることになる。八十歳没説はどうやらこの石碑が根拠のようで、八十七は何が元なのか私にはまだわかっていない。
(右側面)
左に回ると、「天保四癸巳年二月二十三日没」とある。この没年は異説もなくかなり有力だ。すると「狂歌秋の花」に出てくる竹尊舎貞国は同じ芸州広島の人ながら時代が合わず別人ということになる。
(左側面)
背面はまず上に大きな字で「栗本軒門人建之」とあり、
(背面上部)
下には二行に分けて、「筆史 長尾惟孝」「石工 温品邑 貞右衛門」とある。大野町誌や尚古には京都の門人360人によってこの碑が建てられたとあるのだが、ここには書いてないようだ。まさか天井に書いてあるってこともあるのだろうか。
(背面下部)
それでは前面に戻ろう。上の「辞世」と左下の「貞国」ははっきり見えるが、歌の部分は削れているところもあって最初はこりゃ困ったなと。
(前面)
しかし、しばらく眺めているうちに、縦に読むのではなく一句ずつ横に書いてあることに気づいて、それでやっと何がどこに書いてあるかわかった。しかしこれはあらかじめどんな歌が書いてあるか知っていたからで、何も予備知識がない状態でこれを読む実力は全く持ち合わせていないことを思い知らされた。
(「花は散るな」のあたり)
(「月はかたふくな」のあたり)
(「雪は消なと」のあたり)
(「人さへも」、「も」はもう一文字あるような気もするが、傷かもしれない)
(このような配置と思われる)
大野町誌でこの歌を見た時は、無駄に助詞が字余りになっていてあり得ないと思った。しかし、現物を見ると大野町誌の通りであった。
辞世 貞国
花は散るな月はかたふくな雪は消なとおしむ人さへも残らぬものを
この字余りはいかなる意図だろうか。「狂歌家の風」の貞国の歌はテンポが良く切れ味鋭く縁語が読み込まれている。この辞世はそれから三十年後、作風が変わってしまったのか、それとも息絶え絶えで聞き取ったのか。「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」には同じ辞世の歌を、
花散るな月傾ぶくな雪消へな おしむ人さへ残らぬものを
と、字余りにならない形で収録していて、何からの引用かわからないのだけど、これが原型だろうか。そうだとすると歌碑の字余りは貞国の演出かもしれない。不思議なことに、歌碑の実物を見た後で字余りでない方を眺めると逆に辞世としては軽いような気がする。実際に歌碑の前に立ったことで評価が逆転してしまうというのは感情的で好ましくないとは思う。しかし今は歌碑の方がしっくり入って来るのだから仕方がない。歌碑に心を動かされる人がいなければ、せっかく建てた意味がないではないかとかばちを叩いておこう。今日のところは歌碑を時間いっぱい眺めて、何度か声に出して歌って、そして聖光観音様にお礼を申し上げてから広島駅に戻った。観音様のおかげで歌碑にたどり着くことはできたけれども、初詣の願い事は使い果たしてしまったような気がする。
人の字の強くうかびて寛政を化政を生きし狂歌師思ふ
貞国の辞世うたえば子供らが戯れて打つ鐘の音ふたつ
【追記1】歌碑背面の長尾惟孝について、文政十年厳島神社の算額の最後に「長尾素介惟孝揩」とあり、同一人物だろうか。広島県立図書館のレファレンスによるとこの算額の奉納者ではないようだ。書の担当だろうか。すると、貞国の歌碑においても同じ役割で、門人ではないのかもしれない。
【追記2】内海文化研究紀要11号に永井氏蔵の屏風の中に張り付けてある貞国の短冊の写真があり、上に題、左下に貞国、そして一句ずつ五段に分けて書く書式が辞世歌碑と同じであった。狂歌家の風にもある、
寄張抜恋
張ぬきのうなつき女夫中のよさ牛と寅との一ツちかいて
この歌を、
このような配置で書いている。すると辞世の歌碑は、元になったこのような短冊が存在して、それを写したものという可能性が出てきた。歌碑といえば横長の石に書いてあるのをよく見かけて、聖光寺のような縦長に見上げるような歌碑は珍しいと思うが、短冊ならばうなずける。問題はこのような書式が一般的だったかどうか。すこし時代が前の「狂歌詠方初心式」(安永四年)を見ても、題は上だが上の句下の句二行で書いてある。現代の短冊の書き方を見ても、上の句下の句二段に分ける散らし書きというものはあるが、このような五段の例は載っていない。当時の流行りか、それとも貞国の好んだ書き方だったのか、もっと調べてみたい。また、写真では短冊の大きさがわからない。小さい短冊だとこの書き方は苦しいように思えるけれど、どうなのだろうか。
【追記3】 「苔の石ふみ 狂歌の部」に、多数の狂歌碑の写しが載っているが、同年代であっても貞国辞世のように五段に分けた例は見つけられない。また、「五日市町誌」に貞国が与えた「ゆるしふみ」の写真があり、文中の貞国の歌は、
このような配置で辞世歌碑や追記2の短冊のように五段に分けて一句ずつ書いてある。さらに「大野町誌」にある大島氏蔵、貞国筆の掛け軸の写真にも五段に分けて書いた歌が見える(掛け軸全体の写真で歌を読み取るのは難しい)。やはりこれらは貞国が好んだ書式であって、辞世の歌碑を建てた弟子たちがこの貞国愛用の形を採用したと思われる。